第71話:逡巡_支配者の椅子編④
階段を降りる音が響いていた。
革靴の音。
男たちの呼吸。
私の足音だけが、少し遅れている。
両手は後ろで拘束されている。
結束バンドに近いもの。
手首に食い込んで、少し痛い。
山本誠が先を歩いている。
その周囲に、四人。
山本誠の側近デポル。
私は足元を見ながら歩いた。
昼ごはんを買いに出たはずだった。
それなのに、まだ何も食べていない。
空腹と緊張で、身体が重い。
頬は熱い。
口の端は乾いている。
服も乱れている。
暴れた時に、服が少し裂けた。
わざとではある。
でも、痛いものは痛い。
階段を降りきった時。
地下駐車場の空気が変わった。
血の匂い。
古い油の匂いに混じり、濃く、鉄の匂いがする。
そして、見えた。
播磨は、腰が抜けたように後ずさっていた。
黒瀬は、膝をつき、左腕を押さえている。
足元には、スーツ姿の男たちが倒れている。
五人。
動いていない。
理解するのに、一秒もいらなかった。
みずきが位置情報を拾い、恒一はここまで来た。
瞬時に、最適手を思考する。
私がベアトリクスで恒一を強化し、四人のデポルを落とす。
そうすれば主要メンバーだけになる。
見た感じ、黒瀬と播磨は恐怖で支配できている。
なら、山本誠さえ抑えられれば、恒一の野望に一気に近づく。
リスクは後で考えればいい。
言葉は話しながら考える。
私の思考はまとまった。
でも、恒一がいつもと違う。
私が攫われて、取り乱したのか。
それは少し嬉しい。
けれど、それより早く危険だと分かった。
恒一が、播磨に向かって警棒を振り下ろそうとしている。
「恒一!」
私は声を出した。
警棒が落ちる。
播磨の頭ではなく、耳をかすめた。
鈍い音。
播磨が悲鳴を上げ、床を転がる。
耳を押さえて、のたうち回る。
恒一の動きが止まった。
ゆっくりと、こちらを見る。
目が合う。
その瞬間、私は自分の判断が遅かったことを理解した。
恒一の顔が変わっていく。
表情がなくなるのではない。
逆だ。
何かが、奥から出てくる。
目の奥が、暗く沈む。
口元がわずかに歪む。
鬼だ。
そう思った。
比喩ではなく。
今の恒一は、人間の顔をしていない。
恒一の視線が、上から下に動く。
殴られて腫れた左頬。
乾いた血。
乱れた襟元。
空腹で力が抜け、男に支えられている身体。
まずい。
そこまで見た瞬間、頭の中で答えが出た。
恒一は、私が最も卑劣な行為をされたと思っている。
デポル。
性犯罪。
弱い者を奪う行為。
恒一が、この世界で最も嫌っているもの。
彼はデポルを憎んでいる。
自分の人生を賭けて、根絶しようとしている。
そして同じくらい、尊厳を奪う犯罪を憎んでいる。
デポルと、それを野放しにする法律。
それを変えるために、ここまで来た。
そんな恒一が。
私がその被害に遭ったと思ったなら。
制御なんて、効くわけがない。
「違う」
言おうとした。
でも、声にできなかった。
恒一が笑ったからだ。
ーー久世フェーズ
笑い声が出た。
最初は、小さかった。
喉の奥で、何かが壊れる音に似ていた。
次に、止まらなくなった。
笑っていた。
俺は、笑っていた。
めぐみがいる。
生きている。
それは分かった。
分かったはずなのに。
見えたものが、脳の奥を焼いた。
拘束され、暴行され、立っているのもやっと。
笑うしかなかった。
前世の冴子。
守れなかった。
吉田さおり。
あの時、井口に奪われる寸前だった少女。
みずき。
怪我をさせてしまい、こちらの世界に引き込んだ。
何度も何度も、頭の奥で同じ場所に戻る。
守ると決めた。
今度は奪わせないと決めた。
それなのに。
また、目の前にある。
笑いながら、涙が出た。
頬を伝った。
自分のものとは思えない。
「……そうか」
声が出る。
誰に向けたものか、自分でも分からない。
「そういうことか」
心臓が、おかしな音を立てている。
鼓動ではない。
内側から壁を殴られているような音。
脈が速い。
血が全身を駆け回る。
頭が沸騰する。
黒瀬を、播磨を、どう殺すか。
その後のことは。
考えていたはずだった。
全部、消えた。
名前はまだ知らないが、一人だけオーラが違う男がいる。
誰なのかも、どうでもいい。
あいつの後ろに、めぐみがいる。
あいつの周囲に、デポルらしき連中がいる。
それだけでよかった。
俺はナイフを握る。
そして、自分の胸に刃を当てた。
迷いはない。
刃が服を裂く。
皮膚を裂く。
胸から腹部へ、熱い線が走る。
血が落ちる。
黒瀬が息を呑んだ。
播磨が、床の上で固まる。
自分に痛みを入れる。
怒りに輪郭を作るため。
恐怖に名前をつけるため。
それでも足りない。
足りない。
「恒一!」
めぐみの声が聞こえた気がした。
俺は一歩進む。
胸から血が滴る。
床に落ちる。
一歩。
また一歩。
黒瀬が腰を抜かしたように後ろへ下がる。
播磨は耳を押さえたまま、座り込んでいる。
二人は、もう視界に入っていなかった。
男の側近が動く。
四人。
同時。
判断は速い。
悪くない。
俺は警棒を投げた。
真正面の男が、反射で顔を逸らす。
その一瞬で懐に入る。
首にナイフを入れる。
一。
二。
三。
四。
五。
連続で突き刺す。
落ちた警棒を拾う。
二人目が横から来る。
警棒で顎を砕く。
戻す動きで膝を砕く。
身体が落ちる。
眼窩へナイフを突き立てる。
抜かない。
身体ごと押し倒す。
一瞬の金属音のあとに、右肩に衝撃がくる。
拳銃だ。
(人生で二度も撃たれるとはな)
痛みはある。
あるはずだ。
でも、遠い。
次の弾が左足を掠める。
止まらない。
距離を詰める。
銃を持つ手にナイフを落とす。
指が飛ぶ。
拳銃が床を滑る。
俺はそれを拾い、すぐさま引き金を引く。
デポルの胸と腹に着弾する。
最後の一人が、警棒を抜いた。
俺と同じように。
構えも悪くない。
こちらの左手には拳銃。
右手にはナイフ。
血で滑る。
それでも握れる。
山本が叫んだ。
「やめろ!」
聞こえる。
けれど、意味を持たない。
「こんなことをして、市長でいられると思っているのか!」
デポルが踏み込む。
速い。
警棒が、俺の左腕を打つ。
骨が鳴った。
拳銃を持つ手が落ちる。
それでも、右手は動く。
ナイフで相手の左腕を裂く。
血が飛ぶ。
デポルも俺も止まらない。
山本の声が続く。
「この女がどうなってもいいのか!」
この女。
その言葉で、視界がさらに狭くなった。
めぐみを、物みたいに呼んだ。
それだけで十分だった。
俺は一歩踏み込む。
デポルの警棒が、もう一度来る。
受けない。
額で受ける。
衝撃。
視界が揺れる。
でも、距離は詰まった。
ナイフを腹に入れる。
浅い。
デポルが笑う。
なら、深くすればいい。
もう一度。
ナイフを突き立て直し、回転させた。
ーーめぐみフェーズ
恒一が止まらない。
撃たれても、殴られても、切っても、刺しても、止まらない。
黒瀬は床に転がっていた。
左腕を押さえたまま、這うように動いている。
その先に、拳銃があった。
さっき恒一の手から落ちたもの。
黒瀬の指が、それに触れる。
私はそれを見た。
黒瀬の顔に、迷いが走る。
恒一を撃つか。
デポルを撃つか。
一瞬。
本当に一瞬だけ。
黒瀬の目が私を見る。
違う。
私ではない。
私の前にいる山本。
この場の上下関係。
生き残るために、何を撃つべきか。
黒瀬が拳銃を構える。
震える手で。
左腕を庇いながら。
その瞬間、駐車場内に銃声が鳴り響いた。




