第70話:限界点_支配者の椅子編③
市庁舎の会議室で、午後の資料に目を通していた。
被害者支援窓口の再編。
市営住宅の調査報告。
支援団体との接続記録。
スマートフォンが震えた。
画面には、みずきの名前。
通話に出る。
「なに?」
『久世くん、今どこ?』
声が硬い。
いつもの軽さがない。
「市役所の会議室」
『めぐみ、そっちに連絡してない?』
「ない。何で?」
『昼ごはん買いに出たまま、戻ってこない』
指先の感覚が、少し薄くなった。
咄嗟のことで、声が出ない。
「……」
『四十分くらい前。最初は近くのコンビニかと思ってた。でも遅いからスマホの位置を見たら、事務所からかなり離れてる』
「場所はわかる?」
『送る。大阪市内だけど、倉庫とか古い建物が多い場所。位置情報はまだ生きてる』
地図が送られてくる。
市庁舎からも、久世事務所からも離れている。
昼食を買いに行く距離ではない。
生放送で火をつけた直後だ。
こちらが見たものは、相手にとって見られたくないものだったはずだ。
俺を黙らせるなら、俺本人ではなく周囲から。
それは想定していた。
だから全員で位置情報の共有。
何かあった時の対処法。
それぞれ決めていた。
そして由々しき事態は、対象がめぐみであること。
一番危機感を持って行動している。
鋭い観察眼や思考を持ち合わせる彼女が何も残せなかった。
拉致だ。
「みずき、事務所前の防犯カメラを拾ってくれ」
『分かった。車種とナンバーも追う』
「頼む。あと、ひとみさんへの連携も」
今できる指示を飛ばし、通話を切る。
俺は資料を閉じた。
机の上には、市長として処理すべき書類が残っている。
だが、もう読めない。
市庁舎の地下駐車場へ向かう。
車のトランクを開ける。
内側のケースを外す。
警棒。
ナイフ。
大阪市長の車には、似合わないもの。
けれど、俺には馴染んでいる。
手が震えている。
めぐみが攫われた。
相手がデポルなら——
前世での冴子さんの二の舞になる。
頭では冷静に努めようとする。
しかし——怒り、悲しみ、焦り。
マイナス感情が襲う。
左手を握りしめ胸を何度も叩く。
(……落ち着け。状況はわからない)
車に乗り、みずきから送られてきた位置へ向かう。
大阪はいつも通りだった。
誰かが奪われても、街は止まらない。
誰かが泣いても、店は開く。
俺は、それを知っている。
だから、この世界が嫌いだ。
・
・
・
指定された場所に着く。
古い建物。
地下駐車場。
外からは、雑居ビルにも倉庫にも見える。
監視カメラがある。
気にせず中へ入った。
湿ったコンクリートの匂い。
古い油の匂い。
駐車場の奥に、黒い車が停まっていた。
その前に、二人。
黒瀬麗奈。
播磨健二。
めぐみはいない。
俺は足を止めた。
冷静を装い、怒りを隠し問う。
「加藤めぐみはどこですか」
黒瀬がこちらを見る。
番組で見せる笑みはない。
播磨は、俺と目が合った瞬間に視線を逸らした。
「生きています」
黒瀬が言った。
「場所を聞いています」
「この先です」
俺は黒瀬を見る。
冷静でいろ。
まだ、めぐみを見ていない。
まだ、確認していない。
(焦るな、保て)
「あなたが喧嘩を売っている相手は、政府ですよ」
政府。
黒瀬の口から、その言葉が出た。
「……」
「大阪市長、弁護士という肩書きがあっても、全部が敵に回れば、あなたも、加藤さんも、周囲の人間も守れません」
「……それで?」
「これが現実なんです」
黒瀬は続ける。
「久世さん。あなたは、ここで止まるべきです」
「……止まって、何をしろと?」
「こちら側に来るべきです。そうしないとあなたは何も守れない」
「……拒否するとどうなりますか?」
「次は加藤さんだけでは済みません」
他の連中も、いつでもやれる。
そう言っている。
(やばいな、この感覚は……)
会話の内容は理解できる。
しかし、身体が。
全身から拒絶している。
血管の膨張、血液の流動、筋肉の軋み。
(気を抜くと……勝手に殺してしまいそうだ)
警棒を強く握り込む。
「播磨さん」
俺は視線を横へ動かした。
播磨の肩が跳ねる。
「はい」
「あなたは何故ここにいるんですか?」
「な、何が」
「こちらの情報を漏らしていて、その政府側に鞍替えした、そういうことでいいですか?」
播磨は答えない。
黒瀬も口を挟まない。
それだけで十分だった。
「そうですか」
俺は小さく息を吐いた。
播磨が後ずさりしかける。
「久世くん、私はーー」
俺は黒瀬へ視線を戻す。
「黒瀬さん、拒否します」
黒瀬の表情は変わらない。
ただ、目だけが冷えた。
「そう言うと思っていました」
黒瀬が指を動かす。
柱の影から、男たちが出てきた。
五人。
全員、スーツ姿。
だが、隠す気がない。
肌の奥に、黒いものが滲んでいる。
黒瀬麗奈の護衛。
あるいは、脅しの道具。
「ここで俺を消す気なんですね」
俺が聞くと、黒瀬は答えなかった。
代わりに、五人が動いた。
速い。
俺は警棒を伸ばす。
金属音が地下に響く。
近づいた男の膝を砕く。
落ちた首へ刃を入れる。
横から伸びた腕を警棒で折り、喉を裂く。
背後から頭部を殴られる。
痛みは来ない。
口を塞がれる。
構わず、指を噛みちぎる。
怯んだ隙に刃を足へ。
倒れかけた顔面へ警棒を振り下ろす。
最後の一人は逃げようとした。
背広を掴み、引き戻し、床へ叩きつける。
ナイフを喉に押し当てる。
「やめ、やめてくれ!!……」
身体が勝手に動いていた。
デポルの頸動脈が裂け、噴水のように血液が舞う。
静かになった。
五人。
時間にすれば、長くない。
数秒か、数十秒か。
血の匂いが地下に広がる。
俺は息を吐いた。
乱れてはいない。
久々にデポルを殺した。
井口支配になった大阪では、暴れるデポルは少なくなった。
実戦が遠のいていたが、何も問題はなかった。
昔乗っていた自転車を、数年ぶりに乗っても難なく運転できるように。
デポルを殺すという作業は、俺にとって呼吸することと同義になっていた。
警棒の先から血が落ちる。
ナイフを振る。
黒瀬も播磨も、その場から動いていない。
二人とも言葉を失っている。
黒瀬の目には、恐怖と計算が同時に浮かんでいた。
播磨は、ただ怯えていた。
膝が崩れそうになっている。
「播磨さん」
「は、はい」
「そういえば、播磨さんには、俺がこれまで何をしてきたか。雰囲気では分かっているでしょうが、詳しくは知らないですよね」
「そ、そうだ……それが、なんだ」
播磨は、顔面から汗が吹き出している。
俺は足元のデポルを見る。
それから、播磨を見た。
「俺はこの十年間で、デポルを三百体以上殺してきました」
黒瀬の顔から、表情が消えた。
播磨は口を開けたまま固まる。
嘘だと思いたかったのかもしれない。
でも、足元には五つの死体がある。
今の動きを見たあとでは、笑えない。
「初めて殺したのは十五の時でした。もちろん、これからも殺し続けます」
俺は続けた。
「日本から全部消すために、今を積み重ねている」
地下が静かになる。
黒瀬も、播磨も、何も言わない。
「デポルは殺してきた。でも——人はまだ殺したことがない」
警棒を握る手に血がついている。
返り血だ。
「......だから、敢えて話した」
播磨の喉が鳴る。
黒瀬が、ほんの少しだけ息を止めた。
「この話を聞かれたら、殺すしかない」
播磨が一歩下がる。
黒瀬は膝が笑っている。
ただ、目だけが変わった。
「俺の身内に手を出した。俺がこの世で最も嫌いな生物を、この世に蔓延らせている連中の一派でもある」
俺は播磨を見る。
次に黒瀬を見る。
「殺すに値するでしょう」
播磨の足が震えている。
黒瀬は、ようやく絞り出す。
「……久世さん」
その声には、番組の艶がなかった。
「あなた、思っていたよりずっと危険ですね」
「最期の言葉が、それでいいんですか?」
黒瀬は唾を飲み込む。
それから、俺を見る。
「……提案があります」
「……」
「同盟です」
俺は警棒を振り、黒瀬の左前腕を潰した。
黒瀬は呻きながら膝をつく。
「そんなことできる立場じゃないんですよ」
「まっ、まって!少しだけ話を……」
播磨の顔が青くなっている。
次は自分なのだと。
「余裕がないんです。今にも殺したくて仕方がない。あなた方のせいで」
黒瀬は、左腕を押さえながらも立ち上がる。
目には涙が溜まっている。
「黒瀬さん。俺はね、相手が女子供だろうが、老人だろうが、政府だろうが、俺の身内を傷つけるなら、それ相応の覚悟を持って刃を突き立てますよ。そこに勝算があろうがなかろうがね」
黒瀬の目に力が戻った気がした。
「なら!なおさら!政府を倒したいなら、デポルを殺したいなら、私は使えるはずです」
「信用できません」
「信用できない道具でも、使えるなら使うでしょう」
黒瀬の呼吸は乱れている。
それでも、言葉は崩れない。
「報道。情報。政治家の弱み。政府側の動き。法曹協会との線。全てじゃない。けど私なら久世さんが拾えないところも拾えます」
「はい。もっともですね。しかし裏切りは確定事項で起きると思います。その時の処理が面倒なので、今死んでください」
播磨が、小さく息を漏らした。
黒瀬はそちらを見ない。
「GPSでも、盗聴器でも好きにすればいい。私は死にたくない。そして、あなたほど政府に傷をつけられる人間もいない」
めぐみなら、瞬時に正解を叩き出すのだろう。
だが、俺では無理だ。
リスクはある。
しかしメリットも大きい提案かもしれない。
だが——この殺意だけが拭えない。
脳が、心が、身体が。
目の前の二人を殺したがっている。
黒瀬の目が、ほんの少しだけ緩む。
生き残れると思ったのだろう。
(ダメだ……もう殺すしかない)
横で物音がして、我にかえる。
播磨が、びくりと震えた。
「久世くん、わ、私は」
播磨は、許可していないのにも関わらず、ベラベラと話し出した。
「仕方なかったんだ。黒瀬さんに脅されていた。二階堂とのことも、法曹協会でのことも、全部暴かれると」
「......」
「私は、君を裏切るつもりじゃ」
「……」
「加藤さんがこんなことになるとは」
「……」
「私だって、被害者なんだ」
「……」
言葉が積もる。
軽い。
薄い。
播磨は、自分の命を守るために喋っている。
それだけは分かる。
全部聞いたあと、俺は一歩近づいた。
播磨が口を閉じる。
「播磨さん」
「わ、わかってくれたか!?」
「お前から死ね」
播磨の顔が止まった。
俺は警棒を握り直し、振りかざす。
血で少し滑る。
だが、問題ない。
播磨は後ずさる。
「ま、待て!」
待たない。
俺は警棒を振り下ろした。




