第69話:支配_支配者の椅子編②
扉が開く。
入ってきた男を見て、すぐに分かった。
この部屋の主だ。
年齢は、四十代半ばほど。
整ったスーツ。
整えられた髪。
静かな目。
黒瀬麗奈のように、見せるための華やかさはない。
井口おさむのような、気持ち悪い熱もない。
ただ、そこに立つだけで、周りが黙る。
そういう男だった。
男の後ろに、二人いる。
黒瀬麗奈。
そして、播磨健二。
黒瀬は喋らない。
播磨は、こちらを見ない。
それだけで、上下関係は十分だった。
この男が上。
黒瀬も、播磨も、この場では脇に置かれている。
「加藤ベアトリクスめぐみさん」
男が言った。
声は低く、丁寧だった。
「初めまして。山本誠です」
山本誠。
その名は知っている。
法曹協会の上にある名前。
ひとみや恒一、播磨。
日本の弁護士なら誰もが所属している弁護士団体。
けれど、写真で見たことはない。
顔が出ない。
名前だけがある。
その名前が、目の前で喋っている。
「初めまして」
山本は向かいに座らなかった。
立ったまま、こちらを見る。
対等ではない、とでも言いたいのか。
「お怪我をさせたようですね」
山本が言った。
私は答えない。
山本は、私の頬ではなく、壁際の監視カメラを見た。
「記録も残った」
言い方が、確認だった。
責めていない。
驚いてもいない。
私が証拠を作ったことも、折り込み済みという顔。
なるほど。
面倒な相手だ。
「久世恒一に伝えていただきたいことがあります」
「直接言えばいいのでは?」
「聞かないでしょう」
否定はしなかった。
恒一は、自分の進む道を他人に譲らない。
脅されても、買われても、止まらない。
だから私を拉致している。
脅しとしては正しい。
ただ、相手を少し間違えている気もする。
「久世恒一は優秀ですね」
山本が言った。
「最年少で大阪市長、司法試験合格。被害者支援に企業経営。経歴も肩書きも使える」
使える。
その言葉で、十分だった。
恒一には利用価値がある。
だから駒になれ、と。
「そちらの傘下に入れと?」
私は言った。
黒瀬の視線が、少しだけ動いた。
播磨の指が、わずかに震えた。
山本は否定しない。
「正確には、こちらの管理下です」
「管理」
「そう。守る、と言ってもいい」
胡散臭い。
勝手に動き回れば邪魔だから管理下に入れ。
でなければ殺す、とでも言いたいのだろう。
「とはいえ、私から話してもいい返事はもらえないでしょう」
「そうでしょうね」
「だから、あなたに伝えていただきたい」
沈黙。
私は山本の後ろを見る。
播磨はさらに顔色を悪くしている。
この状況を作ったのは誰か。
答えはだいたい見えていた。
「播磨さん」
私が名前を呼ぶと、播磨の肩が跳ねた。
「私たちの情報を売ったんですね」
播磨は答えない。
「久世事務所にいる時間。一人になるタイミング。市営住宅で恒一が何を見たか。市役所で何を掴んだか」
沈黙。
「その情報を黒瀬さんに流した」
驚きはない。
久世陣営の誰も、播磨を仲間だとは思っていない。
弱みを握られた情報源。
二階堂の犬。
首輪の付け替わった男。
それ以上でも以下でもない。
「まあ、そんなものですよね」
私が言うと、播磨が一瞬だけ顔を上げた。
傷ついた顔をしている。
不思議だ。
「加藤さん」
山本が話を戻した。
「久世恒一は、これ以上勝手に動くべきではありません」
「勝手、ですか」
「ええ」
「彼が掴んだ情報や生放送での暴露が気に入らない、ということですか?」
山本は答えない。
「まあ答えていただかなくても、法曹協会の代表が遠路はるばる、いたいけな一般人を拉致監禁しているという事実で十分回答になってますからね」
山本の目が、ほんの少し冷えた。
恒一がつけた火は、思ったより奥に届いている。
「法曹協会は、被害者を守る場所ではないんですか?」
私は言った。
山本は表情を変えない。
「加害者がデポルになった途端必死に不起訴にして、被害者を追い込んで」
私の言葉に、播磨の喉が動いた。
「無罪なものには無罪を。それが法のあり方なんだ」
「だまれ」
私の強い言葉に播磨がたじろぐ。
「被害者の前でも言えるんですか?誰にでも擦り寄って生きながらえている信念のない犬の播磨さん」
黒瀬は黙ったまま。
播磨は唇を噛み締め、俯く。
山本が口を開く。
「まあまあ、彼も生きるのに必死なんだ。賢い男さ彼は。負けない方に鞍替えしてるにすぎない」
市役所の記録。
更生団体。
戸籍。
法曹協会。
加害者が戻る道。
被害者が黙らされる道。
そこに、この男の椅子がある。
「私に話しすぎでは?」
私が聞くと、山本は初めて少しだけ笑った。
「あなたは、必要なところまでしか持ち帰れません」
「自信があるんですね」
「ええ」
警察。
病院。
記録。
報道。
法曹協会。
本当に全部へ手が届くのかは分からない。
ただ、届くと思わせるだけの椅子には座っている。
「恒一に何を伝えればいいんですか」
「こちらへ来ること」
「拒否すれば?」
「次は、あなたで済まない」
分かりやすい。
私を取れる。
なら、みずきもひとみも。
山上も、あさみも。
恒一の近くにいる人間を、いつでも。
その警告。
「伝えるだけなら」
私は言った。
「判断するのは恒一です」
「構いません」
山本はそう言った。
構わない、ではない。
判断させる気などない。
選ばせた形を作るだけ。
従うか。
壊されるか。
それを交渉と呼んでいる。
「播磨さん」
私はもう一度、播磨を見た。
「はい」
声が掠れている。
「恒一がこれを知ったら、結構危ないですよ」
播磨の顔色が変わった。
「脅しとかじゃなくて、播磨さんの心配です」
播磨は何も言わない。
言えない。
播磨はまだ知らない。
久世恒一が何をしてきたか。
どんな顔でデポルを殺してきたか。
守れなかった時、どこまで壊れるか。
黒瀬も山本も、おそらく知らない。
知っているなら、こんなやり方はしない。
私は静かに息を吐いた。
この部屋にいる人間たちは、勘違いしている。
私を取れば、恒一を動かせる。
それは正しい。
けれど、動いた恒一を止められるかどうかは別だ。
彼のデポルへの執念は、生半可ではない。
山本は、私の沈黙を別の意味に受け取ったらしい。
「怯えていますか」
「考えているだけです」
「何を」
「恒一が来た後のことを」
山本は黙る。
「たぶん、来ますよ」
「それは楽しみだ」
「でも、来た恒一が、あなたたちの想定通りに動くかは分かりません」
黒瀬が、初めて少しだけ表情を変えた。
播磨は目を伏せる。
山本だけは、まだ変わらない。
その顔を見て、私は一つ分かった。
この男は強い。
少なくとも、椅子は高い。
けれど、恒一の一番深いところは知らない。
知らないまま、私を取った。
私の顔を傷つけた。
恒一の近くにいる人間を材料にした。
それが何を開けるか。
たぶん、まだ知らない。
私は、今さら少しだけ不安になった。
自分の状況ではない。
恒一の方だ。
恒一は冷静に動けるのか。
法曹協会の上にいるこの男を、上手くいなせるのか。
この部屋にいる全員が、自分たちの立場を分かっていない気がした。
播磨も。
黒瀬も。
山本も。
たぶん、私も。
恒一は来る。
それだけは間違いない。
でも。
来た恒一が、まだ恒一のままでいられるか。
それだけが、分からなかった。




