第6話:座標変位1_未来への兆し
冴子さんの依頼内容は、整理すると三つだった。
父親から暴力を受けていること。
性的暴行を受けそうになったこと。
そして、借金取りが頻繁に来るようになったこと。
聞けば聞くほど、救いがなかった。
前世の冴子さんに覇気がなかった理由も、少しだけ分かった気がする。
それでも。
最後を掠奪種に奪われたのだと考えると、胸の奥が焼ける。
罪悪感。
後悔。
怒り。
その全部が、喉の奥に張りつく。
だが、今は飲み込むしかない。
目の前にいる冴子さんは、まだ生きている。
過去ではない。
今だ。
「なるほど。内容は分かったわ」
ひとみは資料に目を落としながら、いつもの調子で頷いた。
「安心し。こういうの、何遍も解決してきたから」
その言葉に、冴子さんの表情がわずかに緩む。
初めて見せた、安堵の顔だった。
守りたい。
今度こそ。
そう思った瞬間、自分の胸が少しだけ苦しくなる。
俺の罪悪感は、一生消えない。
だが、それでもいい。
直接ではなくてもいい。
書類を作る。
根回しをする。
証拠を集める。
守る側に回れるなら、それでいい。
「慶太さん、遅いですね」
冴子さんが不安そうに携帯を見る。
鈴木慶太。
冴子さんの従兄弟で、市の弁護士無料相談会に出席した人物だ。
そこでひとみと縁ができ、冴子さんをこの事務所へ連れてくる流れになったらしい。
時刻は十七時。
打ち合わせ開始から、すでに一時間が経っている。
その時、冴子さんの携帯が鳴った。
「慶太さんからです」
冴子さんは、疑う様子もなく電話に出る。
俺とひとみは、黙ってその声を聞いていた。
「……え? 今からですか?」
冴子さんの眉が、不安そうに寄る。
「でも……はい。分かりました」
電話が切れる。
「どうしたん?」
ひとみが聞く。
「慶太さんが、少し離れたところで待っているから来てほしいって……。場所を送るって言ってました」
その瞬間、空気が少し変わった。
大の大人が、女子中学生を一人で呼び出す。
しかも、夕方。
治安のいい場所とも限らない。
普通ではない。
ひとみは父親絡みを疑ったのだろう。
俺は、デポル絡みを疑った。
どちらにせよ、放置する理由はない。
「冴子ちゃんは、ここで待っとき」
ひとみは立ち上がり、にっと笑う。
「アイスでも食べて待っとき。冷凍庫にあるやつ、好きにしてええから」
「えっ、でも」
「ええから。大人の仕事や」
ひとみはそう言って、事務所の鍵を手に取った。
俺も続く。
扉を閉めた瞬間、ひとみが低い声で言った。
「あんた、どう思う?」
「デポル、もしくは父親関連の事件に巻き込まれた可能性が高いかと」
「同意見や」
それだけ言うと、ひとみは足を速めた。
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人気のない通りに入った瞬間、空気が変わった。
湿った壁。
薄暗い路地。
人の気配が途切れる場所。
嫌な予感は、よく当たる。
路地の奥で、男が倒れていた。
頭部のあたりから、多量の血が流れている。
鈴木慶太だろう。
その周囲に、六匹。
肌は赤黒く変色している。
掠奪種。
「ヒヒヒヒ。オモッテタヨリ、ワカクネェガ、イイオンナガツレタゾ」
ひとみのこめかみが動いた。
「はあ? お前ぶち殺すぞ。私は二十八歳や。若いやろが」
問題はそこではない。
だが、ひとみらしい返しではあった。
「ソッチノオトコハ、コロソウ」
「そうですか。どうぞご自由に」
言い終える前に、ひとみが動いていた。
一番近いデポルの腕を取り、体勢を崩し、そのまま関節を折る。
乾いた音が鳴った。
「あれは……合気道か」
容赦がない。
怖い。
だが、今は頼もしい。
「ひとみさん。ここは俺がやります。表に出て警察を呼んでください」
「私に指図すんな!」
ひとみは折った腕をさらに捻りながら怒鳴る。
「強いねん。お前こそ逃げて警察呼べや!」
聞く気はなさそうだった。
なら、こちらも勝手にやる。
一番近いデポルの顔面を殴る。
倒れた個体の服を掴み、そのまま振り回した。
即席の武器。
鈍い音を立てて、二匹がまとめて吹き飛ぶ。
怯んだ隙に、ひとみと視線が合った。
言葉はいらない。
倒れている慶太を、ひとみが引きずる。
俺は周囲を塞ぐ。
どうにか、明るい通りの方へ運び出す。
「任せました」
「死ぬなよ」
「なるべく」
短く返し、俺は路地へ戻った。
六匹のうち、三匹が消えていた。
逃げたか。
それとも、回り込んだか。
「さっきまでいた害虫友達は、帰られたんですか?」
挑発してみる。
返事はなかった。
残った三匹が、間髪入れずに襲いかかってくる。
情報を引き出す余裕はない。
肝臓へ拳。
顔面へゲンコツ。
怯んだところに、肋骨へ膝。
一匹。
二匹。
三匹。
順番に沈める。
呼吸を整えた、その直後。
ドカッ。
後頭部に衝撃が走った。
視界が揺れる。
ビール箱。
逃げたうちの二匹が、戻ってきていた。
「……おかえり」
頭から血が流れる。
左の視界が赤く塞がる。
だが、こちらにも戦利品がある。
さっき倒したデポルが持っていたナイフ。
ビール箱が振り下ろされる。
右腕で受ける。
痛みが走る。
同時に、左手のナイフを腹へ突き刺した。
肋骨の下。
横向きに。
縦に刺すと骨で止まる。
だから、角度を変える。
「ガッ……!」
一匹が崩れる。
残る一匹。
こいつだけ、妙に拳が重い。
殴打が速い。
防戦になる。
腕で受ける。
肩でずらす。
それでも、身体が削られていく。
まずい。
そう思った瞬間、背後から木材が振り下ろされた。
ひとみだった。
何度も、何度も叩きつけている。
だが、木材の方が先に砕ける。
デポルが笑った。
「オマエ、イセイガイイナ。アトデカワイガッテ……」
その背中が、完全に空いた。
俺は踏み込む。
後ろから、心臓へナイフを突き立てた。
深く。
そして、ゆっくり時計回りに捻る。
「グオッ……ガハ……」
「敵に背中を見せたら駄目でしょう」
デポルの身体が、ゆっくり崩れ落ちる。
しばらく、路地に呼吸音だけが残った。
ひとみが俺を見る。
真っ直ぐな目だった。
「私らの罪状は?」
「銃砲刀剣類所持等取締法違反。暴行罪。状況次第では傷害罪。過剰防衛」
一度、息を吸う。
「立件されれば、ですが」
「あんたは?」
「デポルを人間と認識するなら、殺人罪ですかね」
ひとみは少しだけ黙った。
そして、短く言った。
「私は、そうは思わへん」
「では、無罪放免ですね。警察から報奨金すら貰ってやってもいい」
ひとみは一瞬だけ笑った。
「ええやん」
それから、路地の外を見た。
「ほな、逃げよか」
二手に分かれ、事務所へ戻る。
途中、ガラスに映った自分が見えた。
血塗れの顔。
裂けた額。
赤く濁った目。
思わず笑った。
これを人間と呼ぶなら。
俺も、同じ側なのかもしれない。
ジャケットを頭から被る。
夜のネオンが、血で滲んで見えた。
俺はその中を、足早に駆け抜けた。




