第67話:空席_女神対峙編②
大阪・久世事務所
ーーひとみフェーズ
私は弁護士だ。
相手が人間だろうが、女神だろうが、約束を破ったなら、そこを突く。
メルは、まだ笑っていた。
『怖い顔しないでよ、ひとみちゃん』
挑発か。
煽っているのか微妙なライン。
人として扱えるなら、合気道で制圧したい。
しかし——他にもできることはある。
「アステリアさん」
『なんだ』
「確認したい。女神が人間と契約する場合、説明義務はあるんか」
アステリアは、メルを見たまま答えた。
『ある』
一言だった。
メルの笑みが、わずかに固まる。
「契約者の寿命を対価に使う場合は?」
『当然、事前説明が必要だ。特に寿命は、魂に近い資源だ。本人の明確な同意なしに使用することは禁じられている』
「やろな。執行する側がノーリスクなわけないよな」
私はメルを見る。
「説明してへんな」
『遠回しにはしたよ』
「遠回しは説明ちゃう。お前のは詐欺や」
『ひとみちゃん、細かいなあ』
一歩、近づく。
膝は重い。
身体の奥が薄い。
でも、立てる。
まだ五年ある。
なら、立てる。
「次。契約内容」
私は指を一本立てた。
「私が、あんたの指示に時々従う」
二本目。
「その代わり、あんたは私の願いを叶える」
三本目。
「期限は、久世が二十五歳になるまで」
メルは何も言わない。
「今、久世は二十五歳や」
沈黙。
「期限、来てるな」
『でも、願いはまだ終わってないよ』
「それはあんたが叶えてへんからや」
『デポルは多いからね。全部殺すには時間がかかるんだよ』
「その説明も、契約時にはなかった」
メルの口元が動く。
笑う寸前で止めたような顔。
「そもそも、あんたは本当に叶える気があったんか」
『もちろん』
「嘘やな」
即答した。
メルの目が、少し細くなる。
「私を利用して、久世を守らせた。そこまでは分かる。私もそれに乗った。かなのために、久世を使えると思ったからや」
胸の奥が少し痛む。
自分で言って、自分に刺さる。
でも、ここで綺麗事に逃げたら、全部負けだ。
「私は善人ちゃう。久世を利用した。かなを救うために、デポルを全滅させるために、あいつを保険にした」
めぐみとアステリアは黙っている。
『それで?』
「だから、あんたの悪意が分かる」
私は言った。
「あんたは久世を守りたかったんやない。壊したかった」
メルは首を傾げた。
『両方だよ』
甘い声だった。
『守るから壊れるんだよ。守りたいものがあるから、久世くんは削れていく。誰かを救うたびに、自分が孤立していく。そこが綺麗なの』
「つまり、私への指示は、契約目的の達成だけやなく、あんたの私欲にも使われた」
『私欲って言い方、ひどいなあ』
「久世が壊れていく顔を見たい。そう言うたんは、あんたや」
『見たいよ』
メルは笑った。
隠さなかった。
『だって、綺麗だもん』
その一言で、十分だった。
私はアステリアを見る。
「契約者への指示を、女神自身の私欲に流用することは?」
『禁止だ』
「契約者の寿命を無断使用することは?」
『禁止だ』
「契約期限を過ぎても、契約を守る気がないことは?」
『重大な違反だ』
「契約者の願いを叶える意思がないまま、契約状態だけを維持することは?」
アステリアは、少しだけ間を置いた。
それから、低い声で答えた。
『女神資格の剥奪対象だ』
メルの表情が、初めて変わった。
笑みが消えた。
『ちょっと待って』
「待たん」
私は言った。
「今まで、私の四十年は待ってくれたんか」
『ひとみちゃん、落ち着こう。私は別に、あなたを殺したかったわけじゃないよ』
「殺しかけてるやん」
『でも、まだ五年ある』
「まだ、かどうかは私だけが決められることや」
『願いのためだったんだよ』
「願いのためなら、説明せんでええんか」
『説明したら、契約しなかったかもしれない』
「それが答えや」
声が、思ったより静かだった。
怒鳴るより、静かな方が刺さる時がある。
「説明したら契約しなかった。だから言わなかった。つまり、あんたは私の選ぶ権利を奪った」
メルは黙った。
「寿命を奪っただけやない。選択も奪った」
私は机に手を置いた。
倒れそうになったわけではない。
ただ、立ち続けるための支えが必要だった。
「私がかなを救いたいと思ったこと。デポルを殺したいと思ったこと。久世を利用したこと。そこに私の罪はある」
息を吐く。
「でも、あんたの罪は別や」
アステリアの光が強くなった。
メルは、初めてアステリアを睨んだ。
『アステリア、あんた本気?』
『本気も何もない。規約通りだ』
『規約、規約って。人間じゃあるまいし』
『女神だから規約がいるんだろ』
アステリアの声は低かった。
『人間に干渉する権限は、女神個人の玩具じゃない。願いを扱う以上、契約と説明は絶対だ』
『でも、ひとみちゃんは願った。私は叶えようとした』
『叶える過程で契約者の寿命を無断消費した。契約目的外の指示も行った。契約期限も守る気がなかった』
メルは唇を噛んだ。
『一年くらいでしょ』
まだ、そう思っている顔だった。
『女神界から一年追放。人間界で反省。そういうやつでしょ?』
そして、少しだけ笑った。
だが、先にアステリアが言った。
『裁定を開始する』
部屋の空気が変わった。
事務所の壁も、机も、書類も、全部が遠くなる。
床に、光の輪が広がった。
メルの足元にだけ、黒い影が落ちる。
メルの顔から、余裕が消えた。
『待って』
アステリアは答えない。
『待ってってば。私、女神だよ? 人間一人の寿命くらいで』
『四十年だ』
アステリアの声が、部屋を裂いた。
『人間一人の四十年だ』
メルが黙る。
『その重さが分からないなら、お前はもう女神ではいられない』
光の輪が、メルの身体を締め上げる。
メルの背後に、白い椅子のようなものが一瞬だけ見えた。
玉座。
座席。
あるいは、女神という役割そのもの。
その椅子に、ひびが入った。
『やめて』
初めて、メルの声が震えた。
『アステリア様、冗談でしょ』
『裁定』
アステリアが告げる。
『女神メル。契約違反、寿命資源の無断消費、契約者への説明義務違反、契約目的外干渉、職務権限の私的利用』
光が強くなる。
『女神資格を剥奪する』
メルの顔が真っ白になった。
『は?』
短い声だった。
理解が追いついていない声。
『女神界への帰還権を停止。期限なし』
『ちょっと、待って』
『担当世界から排除』
『待って!』
『異世界へ送致。以後、徳を積むまで女神資格の再審査なし』
メルの声が裏返った。
『徳って、どれくらい』
『さあ』
アステリアは冷たく言った。
メルは私を見た。
さっきまで見下ろしていた顔ではない。
縋る顔。
怒り。
恐怖。
憎しみ。
全部が混ざっている。
『ひとみちゃん。取り消して。今ならまだ』
「無理やろ」
私は静かに言った。
「あんた、契約なめすぎや」
メルの目が濁る。
『久世くんは?』
メルは笑った。
壊れかけた笑みだった。
『久世くんは、私がいないと』
「おらん方がええ」
私は遮った。
「少なくとも、あんたは要らん」
メルの表情が歪む。
『嫌だ』
光が、さらに強くなった。
メルの身体が薄くなる。
輪郭が揺れる。
神々しさが剥がれていく。
綺麗な顔は残っている。
でも、その奥から見えるのは、ただの執着だった。
『嫌だ嫌だ嫌だ。私は、久世くんを見ていたい。壊れていくところも、立ち上がるところも、全部。私のものなのに』
「少なくとも、あんたのものではない」
めぐみが初めて口を開いた。
声は静かだった。
「恒一は、私のものだよ」
メルがめぐみを見た。
『あああああああ!!!!』
「うるさいな」
めぐみは笑っていない。
メルの顔に憎悪が走った。
『そう。じゃあ、置いていく』
メルの指先が、黒く光った。
アステリアが目を細める。
『何をする気だ』
『愛だよ』
メルは笑った。
血を吐くような笑みだった。
『守ってあげるの。壊れないように。私がいなくても、私の愛だけは残るように』
黒い光が、糸のように伸びた。
それは私でも、めぐみでもなく、どこか遠くへ向かおうとした。
久世の方角。
そう直感した。
「させるか」
私は反射的に叫んだ。
だが、身体は動かない。
アステリアが手を伸ばす。
光が、黒い糸を斬った。
完全には消えない。
ほんの一筋だけが、闇に溶けるように消えた。
アステリアの顔が険しくなる。
『執念だな…』
「今のは」
私は聞いた。
アステリアはすぐには答えなかった。
『呪いの残滓だ。完全には通していない。だが、欠片が飛んだ』
「久世にか」
『おそらくな』
めぐみの表情が、初めて少しだけ動いた。
怒りではない。
不安でもない。
もっと冷たい何か。
「消せる?」
『今は無理だ。形が分からない。発動する条件もな』
メルは笑っていた。
もう身体の半分が消えている。
『いいよ。それでいい。久世くんと一緒にいられるなら』
「無理やろ。あいつは——」
私は言った。
「案外、私のことが好きやからな」
メルが睨む。
「それに久世は、あんたのこと知らんし」
その言葉が、一番効いたらしい。
メルの顔が壊れた。
『ひとみ。あなた、嫌い』
「奇遇やな」
私はメルを見返した。
「私もや」
光が弾けた。
音はなかった。
ただ、そこにいた女神が、部屋から剥がされるように消えていった。
最後に残ったのは、焦げたような匂い。
そして、ひどく軽くなった空気。
私はその場に立っていた。
身体は重い。
寿命は戻らない。
残りは五年。
それでも、背中に貼りついていたものが剥がれた感覚があった。
めぐみが近づいてくる。
「ひとみ」
「何や」
「大丈夫?」
「大丈夫に見えるか」
「見えない」
めぐみは少しだけ笑った。
その笑い方が、久世に似ていて腹が立つ。
アステリアは、光の消えた場所を見ていた。
『メルの席が消えた』
「席?」
『女神の役割だ。担当枠と言ってもいい。メルは剥奪された。戻れる保証もない』
「ざまあみろやな」
『そうだな』
アステリアは、珍しく否定しなかった。
めぐみは黙っていた。
その沈黙が、少しだけ気になった。
私は椅子に座った。
膝が笑っていた。
手も少し震えている。
怖かったのか。
怒っていたのか。
それとも、五年という数字が、ようやく身体に染みてきたのか。
ただ、一つだけ確かなことがある。
私の寿命は戻らない。
メルが消えても、失った四十年は戻らない。
かなはまだ救えていない。
デポルはまだ残っている。
久世も、めぐみも、みずきも、まだ厄介ごとの中にいる。
終わっていない。
何も。
「五年か」
口に出すと、思ったより短かった。
だからこそ、迷う時間はない。
私は顔を上げた。
「めぐみ」
「何?」
「このこと、久世には言うな」
めぐみは少しだけ目を細めた。
「全部?」
「全部や」
「呪いのことも?」
私はアステリアを見た。
アステリアは小さく頷いた。
『久世には理解できない』
「やろな」
私は息を吐く。
「今は要らん。あいつは、あいつの戦場に立ってる」
久世には久世の地獄がある。
私には私の残高がある。
それだけの話だ。
めぐみは、少しだけ考えてから頷いた。
「分かった。今は言わない」
その言い方が少し気になったが、追及する気力はなかった。
アステリアが、空中を見上げる。
そこには何もない。
けれど、私には分からない何かが見えているのだろう。
『女神の席が、一つ空いた』
その言葉だけが、妙に重く響いた。
誰も、すぐには返事をしなかった。
窓の外では、大阪の夜がまだ光っている。
人間も。
デポルも。
女神も。
それぞれの場所で、何かを奪い、何かを守り、何かを失っている。
私は、震える指を握った。
五年。
五年あれば、まだ戦える。
終わりが見えたなら、やるべきことを絞るだけだ。
寿命が減ったからといって。
見えたからといって。
立ち止まる理由にはならない。
むしろやるべきことは明確になった。
「あと五年で、法曹協会を奪る」
「……そういうこと」
相変わらずめぐみは鋭い。
私が、死ぬまでに法曹協会を牛耳って、久世に渡す。
それが今の私にできる、最短の仕事だ。




