第66話:契約の残高_女神対峙編①
ーーひとみフェーズ
最近、階段がきつい。
そう思ったのは、これが初めてではなかった。
法律事務所の階段。
裁判所の廊下。
少し歩いただけで、息が乱れる日がある。
寝不足。
業務量。
年齢。
そう思うことにしていた。
三十八歳。
若いとは言わない。
けれど、倒れるほど老いてもいない。
それでも、身体の奥だけが先に老いていくような感覚があった。
胸の奥が薄くなる。
指先が冷える。
朝、鏡を見るたびに、知らない影が顔に乗っている。
「……ほんま、腹立つわ」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
先日の騒ぎで、事務所も市役所も報道も慌ただしい。
久世は市長になり、また面倒な火をつけた。
めぐみは楽しそうに燃え方を見ている。
みずきは情報を拾い続けている。
山上とあさみは表の混乱を必死に処理している。
私は法務側として、久世が炎上しすぎないように文章を直し、発言の穴を塞ぎ、法曹協会側の空気を読んでいた。
いつも通りのはずだった。
けれど、身体だけがついてこない。
机に手を置く。
視界が一瞬だけ白くなった。
倒れはしない。
倒れるほど弱っていると思われたくもない。
私は深く息を吐いた。
その時、事務所の空気が変わった。
音はない。
誰かが入ってきた気配でもない。
「出てきたらどうや」
返事はすぐにはなかった。
代わりに、窓際に立っていためぐみが振り返る。
いつからいたのか。
いや、最初からいたのだろう。
「ひとみ、最近おかしいよね」
「何がや」
「身体」
めぐみの声は軽かった。
けれど、目は笑っていなかった。
「前から、たまに変だったよ。顔色。呼吸。歩き方」
「よう見てるな」
めぐみは窓から離れた。
「それに、ひとみにも何かいると思ってた」
「何か?」
「私の方にもいるから」
めぐみの発言の意味が分からなかった。
ただ、めぐみの視線で理解する。
自分の後ろ。
今まで、脳内でしか姿を見せなかった自称女神。
『こんにちは』
メルが、顕現している。
思ったよりも、人間と同等の大きさ。
ただ一つ違う。
神々しさ。
めぐみの背後にも、淡い光が揺れた。
金でも白でもない。
人間の部屋には馴染まない光。
そこに、一人の女神が姿を現す。
その女神の名は、アステリア。
めぐみ側の女神。
私は細かい理屈を聞いていない。
聞かない方が楽だと思っていた。
魔法だの女神だの、弁護士の業務範囲外にもほどがある。
それでも、見えているものを否定できるほど、もう若くはなかった。
『水谷ひとみ』
アステリアが静かに言った。
『お前の契約残高を確認してやるよ』
「残高?」
嫌な言葉だった。
寿命を、口座みたいに扱う響き。
『やだなあ。勝手に人の契約を覗くなんて、女神として品がないですよ』
軽い声。
甘い声。
それだけで、背筋に冷たいものが走る。
『ねっ、ひとみちゃん?』
「ちゃん付けすな。気色悪い」
『ひどいなあ。私たち、契約者同士なのに』
「契約者と契約相手や。友達ちゃう」
メルは笑った。
その笑い方が、昔から嫌いだった。
初めて会った日のことを思い出す。
私の事務所だった。
牧かなのことを抱えて、私はどうしようもなくなっていた。
法律で救えないものがある。
証拠があっても届かない場所がある。
被害者が壊れ、加害者が息をしている現実がある。
その夜、メルは事務所に現れた。
願いを一つ叶えてあげる。
ただし、時々私の指示に従って。
そう言った。
私は聞いた。
「デポルを全部殺せるか」
メルは笑って、事務所の窓の外を指さした。
向かいの路地に、男がいた。
人間の顔をした、デポル。
その男の肌が、怒りと衝動で赤黒く滲んだのを覚えている。
メルは軽く指を振った。
次の瞬間、雷鳴が落ちた。
窓ガラスが震えた。
路地が一瞬だけ白く光った。
黒く焦げた匂いが、換気扇の隙間から入り込んできた。
男は、もう動かなかった。
私は、その瞬間に信じてしまった。
いや。
信じたかった。
かなを救えるなら。
この世のデポルを全部殺せるなら。
私は、自分の手が汚れることも、魂が削れることも、どうでもよかった。
久世恒一に近づいたのも、純粋な善意ではない。
あいつを守った方が、かなを救う道に近づくと思ったからだ。
久世が生きて、デポルを殺し続ける。
メルが失敗しても、久世が残る。
久世が壊れても、目的に届くなら使う。
そう考えた。
情がないわけではない。
むしろ、湧いてしまった。
久世にも。
めぐみにも。
みずきにも。
あの厄介な連中に。
それでも、私は善人ではない。
かなのためなら、何を犠牲にしてでも、デポルは全滅させたい。
たとえメルの魔法が、自分とかな以外の誰かを貫いたとしても。
目的が達するなら、私は目を逸らしたかもしれない。
だから、メルだけを責める資格があるのか。
その問いはある。
だが、それとこれとは別。
「で」
私はメルを見た。
「私の身体に何をしたんや」
メルは少しだけ首を傾げた。
『何って?』
「とぼけんな」
声が低くなる。
「最近、身体の調子がおかしすぎる」
メルは笑ったまま、答えない。
代わりに、アステリアが手を上げた。
空中に、薄い円環のようなものが浮かぶ。
文字が走る。
数字が浮かぶ。
人間の寿命を、冷たい記号に変えたような光景だった。
めぐみが黙ってそれを見ていた。
見守るだけ。
口出ししない。
アステリアが告げる。
『契約開始時点から現在までの消費寿命を出す』
部屋の空気が止まる。
『四十年』
最初、意味が分からなかった。
四十年。
数字が大きすぎて、身体に入ってこない。
「……四十?」
声が掠れた。
・メルの雷撃。
・久世への治癒。
・身体情報の改ざん(リライト)。
・認識誘導。
アステリアの声は平らだった。
『それらに、お前の寿命が使われている』
メルが唇を尖らせた。
『だって、願いを叶えるには力がいるから』
「勝手にか」
私はメルを見る。
「契約の時に、私の寿命を使うって説明したか」
メルは笑った。
その笑みで、答えは分かった。
『ひとみ、この世に魔法はないからね』
メルは軽く肩をすくめた。
『少なくとも、この世界にはない。外から力を通すなら、対価がいるんだよ』
白々しく続ける。
『魔法と対になるもの。この世界で一番、魂に近いもの』
メルは、私の胸元を指さした。
『寿命』
息が止まった。
『雷を落とすのも、骨を繋ぐのも、血液型を変えるのも、都合の悪い認識をずらすのも、全部ただじゃないんだよ。魔法がない世界で魔法みたいなことをするなら、人間の寿命を燃やすしかない』
私は奥歯を噛みしめる。
「それを、説明せんかったんやな」
『いや、遠回しには言ったよ。時間をかけて、だけど』
メルは悪びれもせず言った。
『それに、ひとみちゃんは願ったでしょ。この世のデポルを全部殺してほしいって』
「……」
『私は、その願いに必要な燃料を使っただけ』
「燃料、やと」
『うん』
メルは笑う。
『寿命って、便利だよね。人間は持っているだけで、だいたい使い道を知らないんだから』
空気が、冷えた。
めぐみは無表情でこちらを見ている。
アステリアは呆れているように見える。
私は立ち上がった。
膝が少し震える。
それでも立った。
「契約内容を確認するで」
メルの笑みが、わずかに薄くなった。
「久世が二十五歳になるまで、時々あんたの指示に従う。その代わり、あんたは私の願いを叶える」
『そうだよ』
「願いは、この世のデポルを全部殺すこと」
『うん』
「やはり今思い返しても、寿命を使うとは聞いてへん」
メルは黙った。
「久世を守るためやと思って、私は動いた。警察を止めたこともある。あんたの指示に従ったこともある」
胸の奥が熱くなる。
怒りだけではない。
自分への嫌悪も混じっている。
「でも、あんたは守るためだけに動かしてたわけやないな」
メルの目が、初めて少しだけ動いた。
『何の話?』
「久世が壊れる方へ持っていった。自分でも言ってたやんけ」
言葉にすると、部屋の温度が下がった気がした。
「みずきが酷い目に遭えば、久世はもっと壊れる。久世が間に合わなければ、もっと深く沈む。そう言うてたやんけ」
メルは笑った。
今度の笑みは、隠していなかった。
綺麗で、気持ち悪い笑み。
『さすが。弁が立つね』
「褒めんな。吐き気する」
『でも、久世くんは綺麗だよ』
メルの声が甘くなる。
『壊れていく時が、一番綺麗。守りたいものが増えるほど、孤独になる。孤独になるほど、刃が鋭くなる。私は、それを見ていたかっただけ』
めぐみの表情は変わらない。
だが、目が殺すと言っている。
どっかの馬鹿と同じ目だ。
アステリアは何も言わない。
私は、ゆっくり息を吐いた。
怒鳴りたい。
殴りたい。
だが、それでは足りない。
相手は女神だ。
暴力では届かない。
なら、言葉で縛る。
「あんた、願いを叶える立場やったな」
『そうだよ』
「契約者の寿命を無断で消費した」
メルは笑わない。
「契約者の願いを叶えるふりをして、自分の私欲を優先した」
一歩、詰める。
「久世を守る名目で、久世を壊す方向へ誘導した」
さらに一歩。
「契約期限は久世が二十五歳になるまで。今、久世は二十五歳や」
メルは無表情のまま。
「でも、あんたは願いを叶える気がなかったんやろ。初めから」
沈黙。
それが答えだった。
私はアステリアを見る。
「なあ、アステリアさん」
『なんだ』
「女神側から約束だの契約だのふっかけて、契約不履行を起こす。それって女神界のルール的にどうなん」
アステリアは、静かにメルを見た。
『重大な契約違反だ』
メルの肩が、小さく動いた。
『うんうん。そうだね。契約違反』
メルに焦りはない。
『大げさだよ。どうせ一年くらい、人間界に落とされるだけでしょ。なら別にいいよ。久世くんに近づけるし』
甘い。
まだ甘い。
この女神は、自分の罪を罰ではなく、ご褒美に変えようとしている。
アステリアの光が強くなる。
『裁定は次に下る』
部屋の空気が、さらに重くなった。
私は、ようやく息を吸った。
「アステリアさん。もう一個教えてくれや」
『なんだ』
「私の残りの寿命は」
聞きたくない。
でも、聞かないわけにはいかない。
アステリアは一瞬だけ、目を伏せる。
えらいもったいぶるな。
そんなないんか。
『本来の規約上、お前に伝える義務はない』
言葉とは裏腹に、淡々と数字が並んでいく。
『だが、そっちの女神が世話をかけた。詫びとして見せてやる』
言ってみるものだなと、感じた。
しかし同時に、後悔もつきまとう。
『残存寿命』
アステリアが告げる。
『五年』
五年。
今度は、意味が分かった。
分かってしまった。
かなを救うために差し出したもの。
久世を利用するために払ってきたもの。
メルに勝手に奪われたもの。
それらが、残高として目の前に置かれている。
怒りはある。
後悔もある。
だが、それ以上に、胸の奥で何かが静かになった。
五年。
なら、使い方を間違える暇はない。
私はメルを見た。
「ええわ」
声は、思ったより落ち着いていた。
「五年あるなら、まだ戦える」
メルの顔が歪んだ。
それが、少しだけ気分よかった。
めぐみが、何も言わずにこちらを見ている。
アステリアの光が、静かに揺れていた。
契約の残高は、出た。
「次は、取り立てる番やな」
メルを睨みつける。
まずは、この貧乏神を私から引き剥がす。
最も得意な方法で。




