第63話:隠匿_白日開示編⑥
大阪市役所の廊下は、妙に静かだった。
昨日の市営住宅には、生活の匂いがあった。
ここにあるのは、書類と手続きの匂いだけだ。
人を市民にする場所。
そして、誰かを見えなくする場所。
今日は、その入口を見る。
案内役の職員が、硬い顔で隣を歩いていた。
「本日は、住民記録と住宅支援の確認ということでよろしいでしょうか」
「はい」
短く答える。
「戸籍、住民票、住宅支援、生活支援、更生団体との連携記録。その接続を見たいです」
職員の足が、ほんの少しだけ遅れた。
「個人情報に関わるものが多いため、閲覧には範囲の確認が必要です」
「はい」
「担当部署ごとに確認が必要になるものもあります」
くどい。
どうやら、触れられたくないらしい。
受付窓口の前を通る。
午前の市役所は混んでいた。
高齢の男が、窓口で声を荒げている。
「前も同じこと言うたやろ。なんでまた来なあかんねん」
女性職員は、深く頭を下げていた。
「申し訳ありません。確認いたしますので、少々お待ちください」
声は落ち着いている。
慣れている。
怒鳴られることではなく、怒鳴る人間を処理することに慣れている。
そういう立ち方だった。
女性職員が、横の棚へ手を伸ばす。
髪が揺れた。
首元が見えた。
黒い痕。
一瞬だった。
足を止め、凝視する。
女性職員は、何もなかったように書類を探している。
高齢の男はまだ怒っている。
周囲の職員は見ない。
視線を横へずらす。
若い男性職員がいた。
二十代半ばくらい。
白いシャツ。
細い身体。
整った髪。
一見すれば、どこにでもいる市役所職員だった。
だが、目だけが違う。
鋭い。
市長を見る目ではない。
上司を見る目でもない。
こちらを測る目。
いや。
こちらが気づいたことに、気づいた目。
目が合う。
男はすぐに視線を落とした。
デポルか。
協力者か。
まだ断定はできない。
「市長?」
案内役の職員が、こちらを見た。
「すみません。行きましょう」
声は変えなかった。
まずは、履歴を見る。
住民記録課。
住宅支援課。
生活福祉の担当部署。
並べられた資料は、どれも整っていた。
転入。
転出。
生活再建支援。
就労支援。
更生支援団体との連携。
書式は正しい。
印もある。
日付も自然だ。
担当者名も並んでいる。
怪しくありません。
そう主張したいほど、綺麗に見える。
そして、特定の団体名が何度も出てくる。
同じ担当者。
同じ窓口。
別々の人物の記録なのに、流れが似すぎている。
その団体名の母体は、法曹協会。
俺やひとみ、播磨も所属している、弁護士団体。
偶然。
行政の効率化。
支援団体との連携実績。
そう言えるように作ってある。
「個別記録を見たいです」
案内役の職員が、わずかに息を止めた。
「……個別記録ですか」
「はい」
「目的と範囲を整理する必要があります」
「それは後で確認します」
職員の顔が揺れた。
「市長?」
「中身を今すぐ見せろとは言っていません。保管場所を聞いています。どの端末、どのフォルダにありますか」
声は荒げない。
だが、譲るつもりもなかった。
職員は少し迷い、端末へ視線を向けた。
その視線で、だいたい分かった。
近くにある。
「案内してください」
奥の端末席へ通される。
一般の窓口からは見えにくい場所だった。
職員は慣れた手つきで階層を辿った。
住民記録。
住宅支援。
生活再建支援。
更生団体連携。
似たような名前のフォルダが並ぶ。
その中に、一つだけ妙な名前があった。
分類番号だけのフォルダ。
説明文はない。
職員の手が止まる。
「これですか」
「……関連資料は、そこに集約されています」
「開いてください」
「できません」
「なぜ」
「ロックがかかっています」
画面には、認証を求める小さな窓が出ていた。
職員はそれ以上、手を動かさない。
「あなたは入れないんですか」
「はい」
「誰なら入れますか」
「課長級以上です」
課長級以上。
都合のいい階段だ。
「では、課長を呼んでください」
職員は黙った。
「どうしました?」
「本日、住民記録課の課長は出張です」
「副課長は」
「休暇です」
「部長は」
「外部会議に出ています」
「つまり、このフォルダに入れる人間が、今この場にはいないと」
「……はい」
職員は目を伏せた。
画面の中のロックされたフォルダを見た。
黒い痕のある職員。
鋭い目の若い職員。
法曹協会。
分類番号だけのフォルダ。
入口は、見つけた。
(十分だ)
「分かりました」
職員は、少しだけ安堵した顔をした。
俺は笑わなかった。
市長室へ戻る。
扉が閉まる。
部屋の静けさが、妙に白々しい。
机の上に、先ほどの資料を並べた。
証拠と呼ぶには弱い。
スマートフォンを取り、みずきに連絡する。
すぐに繋がった。
『どうしたの?』
「市役所の内部端末に、ロックされたフォルダがあってね」
『うわ。嫌な始まり方』
「職員が開けられないフォルダがある。今日中に中を確認したい」
電話越しに、みずきが爆笑している。
「聞いてる?」
『ごめんごめん。市長が言う言葉じゃなくて笑っちゃった。了解!』
みずきに聞かれた最低限の情報を伝え、通話が切れた。
このまま正面から進めば、記録は消される。
「市長になり、早速一つ目の違法作業だな」
みずきから連絡が来る前に、できることをしておく。
市民の記録。
支援の記録。
団体との接続。
膨大な履歴の中から、同じ形を探す。
・
・
・
同日の夜。
市長室の照明は落としていた。
窓の外では、大阪の街が光っている。
人間も。
人間ではないものも。
同じ顔で、同じ夜を歩いている。
スマートフォンが震えた。
みずきからだった。
『今からいうね』
「頼む」
英数字の短い羅列。
パスワード付きのフォルダは、あっけなく扉を開いた。
みずきに礼を言い、すぐ画面に食い入る。
昼間のフォルダの中身だ。
俺は画面を見たまま、しばらく動かなかった。
「さて。どうしてやろうか」
これは、内部調査で処理する話ではない。
静かに握り潰される前に、光に当てる必要がある。
ただし、俺は迂闊の代表格だ。
ここは、めぐみとひとみに話を通した方がいい。
そう思いとどまれただけ、少しは成長したのかもしれない。
まずはデータの整合性確認だ。
大阪市長としての初仕事に、ほんの少しだけ胸が躍った。




