第57話:原点_幕間④
ーー井口フェーズ
自分は王様だと思っていた。
親が何とかしてくれる。
教師は叱れない。
同級生も逆らえない。
万引きも、暴行も、脅しも、大ごとにはならない。
だから、何をしても許されると思っていた。
だが、王様なら。
なぜ俺は今、久世恒一に殴られている。
抵抗もできないほど、一方的に。
取り巻きの二人が、必死に久世を止めている。
俺を守りたいからではない。
このままでは、本当に俺が殺される。
それを理解したからだ。
目の前にいるのは、同じ中学生ではない。
本気で人を殺そうとしている、何かだった。
・
・
・
ーー久世フェーズ
井口の肩を掴み、逃げられないように固定する。
顔へ拳を打ち込む。
何度殴ったかは、途中で数えるのをやめた。
取り巻きが両脇から止めようとしている。
それでも、腕は止まらない。
怖いのか。
怒っているのか。
自分でも分からない。
ただ、目の前のものを消したかった。
井口の首筋が、赤黒く滲んだ。
薄暗い倉庫。
血か、影か、錯覚かもしれない。
それでも、俺にはデポルの色に見えた。
最後の歯止めが外れる。
「お前らは」
拳を振り下ろす。
「やっぱり」
井口の意識が沈んでいく。
「この世から、消さなければならない」
さらに拳を上げた時、吉田さんの声が聞こえた。
「久世くん!」
泣いている。
縛られたまま、俺を見ていた。
助けを求める目ではない。
俺を恐れているように見えた。
俺は、守っているはずなのに。
倉庫の扉が開き、教師たちが駆け込んできた。
そこで、ようやく手が止まった。
・
・
・
警察沙汰にはならなかった。
井口たちが被害届を出さなかったからだ。
俺たちが監禁と暴行を訴えれば、井口たちも傷害で訴えられる。
正当防衛で押し切るには、俺の攻撃は長すぎた。
戦意を失った相手へ殴り続ければ、過剰防衛になる可能性がある。
法律を目指す人間が、暴力で解決した。
笑えない。
学校側も、事件が表へ出ることを恐れていた。
教育委員会。
保護者。
報道。
生徒の心配より先に、自分たちへ向く責任を考えている。
処置を終えた後、胸ポケットのICレコーダーを確認した。
音は悪いが、井口の脅しも、吉田さんの声も入っている。
病院の待合室には、井口の母親がいた。
美しく、冷たい目をした女だった。
「こんばんは」
俺は頭を下げた。
「井口ゆうたさんに監禁され、集団で暴行された久世恒一です」
女がこちらを睨む。
「あんたが、うちの子をあんな目に遭わせたの?」
そこへ、黒いスーツの男が現れた。
鮮やかな青いネクタイ。
井口家の代理人だという。
男は深く頭を下げた。
「この度は、本当に申し訳ありませんでした」
「親御さんにも謝罪したい。医療費や衣服の損害も、すべてこちらで負担します」
「父への謝罪は不要です」
俺は答えた。
「それから、今後も費用を請求する形では、井口さん側との関係が続きます。こちらは恐怖とストレスを感じます」
言葉が少し早くなる。
相手の空気に押されていた。
それでも、止めない。
「早く関係を断ちたいので、弁護士を入れた上で一括の支払いを求めます。吉田さんにも同じ対応をしてください」
金額はこちらから指定しない。
不当に吹っかければ、恐喝として利用される。
相手に誠意を示させる。
男は数秒黙った後、頷いた。
「早急に手配します」
井口の母親が口を挟んだ。
「どうして、うちがそこまで――」
「奥様。黙ってください」
それでも止まらない女の頬を、男が平手で打った。
待合室が凍りつく。
男は、何事もなかったように俺へ頭を下げた。
「失礼しました。後日、弁護士から連絡いたします」
俺は何も言えなかった。
公共の場で、当然のように使われる暴力。
俺が井口へしたことも、これと同じなのか。
違うと言い切る根拠は、まだなかった。
後日、井口ゆうたは転校した。
事件そのものも、なかったことにされた。
俺は証拠を取り、法を使い、慰謝料という軍資金を得た。
それでも、吉田さんを救ったのは法律ではない。
体育倉庫に法律はなかった。
あったのは、恐怖と暴力だけだった。
俺が井口を殴り潰したから、吉田さんは助かった。
井口がデポルだったのかは分からない。
あの赤黒い色も、錯覚かもしれない。
だが、俺の中には一つの判断が残った。
デポルかもしれない。
なら、殺す。
七歳で書いた「デポルを根絶する」という言葉の意味が変わった。
法で根絶する。
それだけではない。
法が届く前に、奪う側を壊す。
その考えが、俺の中へ根を張った。
吉田さんは図書館へ来なくなった。
みことさんは勉強に付き合ってくれたが、会う回数は減った。
それでいい。
大切だからこそ、近くへ置かない。
守るために、俺から離す。
その考えも、この頃から始まった。
・
・
・
二〇〇五年。
中学三年の俺は、旧司法試験を受けるため大阪へ向かった。
一度目は落ちた。
二度目は、前より戦える。
試験を終えた夕方。
路地裏から、短い悲鳴が聞こえた。
考える前に身体が動く。
スーツ姿の女性が、三人の男に囲まれていた。
首筋。
手の甲。
耳の裏。
肌が赤黒く変色している。
デポル。
今度は錯覚ではない。
法律は、この瞬間には間に合わない。
俺は鞄を下ろし、三人へ向かった。
全員を倒すことはできなかった。
こちらも酷く殴られた。
それでも、男たちは逃げた。
女性が乱れた髪を直しながら、俺を見る。
「ありがとうな。あんたのおかげで命拾いしたわ」
関西弁。
口元には血が滲んでいる。
それでも妙に落ち着いていた。
「水谷ひとみや。あんたは?」
胡散臭い。
それが最初の印象だった。
だが、水谷ひとみとの出会いによって。
俺のデポル根絶は、計画から実行へ変わった。
法だけでもない。
暴力だけでもない。
俺はここから、その両方を使い始めた。




