第60話:宣戦布告_白日開示編③
投票日の朝。
黒瀬麗奈が仕掛けたものは、予想より早く届いた。
スマートフォンの画面に、いくつもの見出しが並ぶ。
若き候補者に危険思想か。
被害者支援の名を借りた排除。
加害者更生を否定する大阪市長候補。
久世恒一氏、過去発言に疑問の声。
本人が直接出ている番組ではない。
ネット記事。
朝の情報番組。
切り抜き動画。
識者の短いコメント。
それらが、同じ方向へ一斉に流れていた。
イヤホンの向こうで、みずきの声がした。
『まずいよ。めちゃくちゃ邪魔しにきてるよ!』
みずき、山上、あさみは事務所側に残っている。
ホテルの控室では、ひとみが記事の文面を読み、眉間に皺を寄せていた。
「ようできてるわ。断定はしてへん。けど、読んだ人間が勝手にそう思うように作ってる」
播磨は、少し離れた位置で画面を見ていた。
「これは酷いな……」
それだけ呟いて、黙った。
めぐみは、隣で画面を眺めていた。
案の定、笑ってる。
「恒一、怒ってる?」
「いや、事実だなと」
正直に答えた。
めぐみが笑った。
「だよね。加害者更生なんて、恒一は微塵も考えてないもんね」
「うむ。過去発言は知らないけど。ほぼ事実だから、でっち上げとしてはレベル高いなと」
二人で、少しだけ笑った。
控室の空気が止まった。
イヤホンの向こうで、みずきが沈黙する。
ひとみが、ゆっくりこちらを見た。
播磨も、画面から目を上げた。
「……あんたら、さすがやな」
ひとみが呆れている。
恐らくみずきもだろう。
溜め息が聞こえた。
播磨は、疲れたように目元を押さえている。
「君たちは本当に……」
言葉は最後まで出てこなかった。
といっても、選挙当日に何かされたとしても、今更何をしろというのか。
こんな瑣末なこと、これまで命のやり取りをしてきたことに比べればどうということはない。
当選できなければできないで、別の道を探すだけだ。
そもそもデポルなら殺すべきだと思っているし、性犯罪の加害者もデポルと変わらないから死ねと思っている。
それは、今も変わっていない。
ただし、それを選挙の言葉にしてはいけない。
政治家になる人間は、本音を叫ぶために壇上へ上がるのではない。
本音を通すために、言葉を選ぶ。
『対応は?』
みずきが聞いた。
「しない」
『しないの?』
「投票はもう始まってるし、もういいよ。カメラの前では清廉潔白な笑顔を振り撒くだけさ」
『…できるの』
やるさ。
そのくらい。
前世のITセールスで、どれだけ愛想笑いをしてきたと思っている。
めぐみも頷く。
「これで落ちるなら、最初から勝てない街だったってことだよ」
その言葉は冷たい。
だが、正しい。
大阪の人間が本当に加害者に怒っているなら、票は残る。
怒りより恐怖が勝つなら、ここまでだ。
試されているのは、俺だけではない。
大阪そのものでもある。
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開票会場は、久世事務所ではなくホテルにした。
事務所は狭い。
資料も多い。
見せたくないものもある。
報道陣を入れるなら、ホテルの宴会場の方がいい。
めぐみの判断だった。
白い壁。
高い天井。
並べられた椅子。
報道陣用の区画。
支援者席。
逃げ道も複数ある。
それだけで、少しだけ信用できる場所だった。
午後八時。
投票箱が閉じられた。
それから数分も経たないうちに、会場がざわついた。
大型モニターに速報が映る。
久世恒一、当選確実。
歓声が遅れて広がった。
支援者が立ち上がる。
カメラの赤いランプが、一斉にこちらを向く。
ひとみは小さく息を吐いた。
播磨は、数字を見たまま黙っている。
めぐみだけが、最初から分かっていたような顔で画面を見ていた。
イヤホンの向こうで、みずきの声がした。
『票差、大きいね。かなり』
接戦ではない。
圧勝だった。
朝の報道は、効かなかったわけではない。
危険思想という言葉は確かに広がった。
それでも、票は残った。
いや、残ったのではない。
増えた。
「大阪の人間も、怒ってたんだね」
めぐみが言った。
「口にしなかっただけで」
その通りだと思った。
大阪市民の全員が、被害者のために立ち上がったわけではない。
正義に燃えていたわけでもない。
ただ、溜まっていた。
加害者に甘い社会。
被害者が黙らされる空気。
何かが起きても、行政は遅く、法は無関心で、報道は騒いで去っていく。
その苛立ちが、票になった。
俺に期待したのではない。
自分たちを守る壁がほしかった。
理由が美しくなくても、票は票だ。
壇上へ向かう。
拍手が広がる。
フラッシュが光る。
目の奥に白い残像が焼きつく。
マイクの前に立った。
「ありがとうございます」
会場が静かになる。
「大阪市長選において、多くの票を預かりました。これは、私個人への評価ではなく、大阪を変えろ、良くしろ、という命令だと受け止めています」
言葉は整えてある。
ひとみとめぐみが通る形にした。
本音をそのまま出せば、選挙は壊れる。
俺の語彙力では、一秒で炎上しただろう。
「この国は、加害者に対して甘すぎます」
記者席の空気が、少しだけ張った。
「もちろん、法は守られなければなりません。行政は冷静でなければなりません。ですが、被害者が泣き寝入りし、加害者が制度の隙間を使って逃げる社会を、私は正常だとは思いません」
ペンが走る音がした。
「大阪市では、被害者支援の窓口を強化します。被害が出てから動くのではなく、被害が出ない仕組みを作ります」
防犯カメラ。
街灯。
通学路。
繁華街。
商店街。
企業と学校と地域団体。
言葉にすれば、どれも地味だ。
だが、奪う側は地味な隙間から入ってくる。
「私が立ち上げてきた会社には、警備や防犯のノウハウがあります。そこに癒着の懸念があるというなら、全国から事業者を募ります。専門家も入れます。選定過程も契約も、透明な形で進めます」
一拍置いた。
「すべてはーー大阪を守るためです」
拍手が起きた。
声を荒げる必要はなかった。
「誰かが奪われてから動くのでは遅い。奪われない仕組みを作る。それが、私が大阪市長として最初にやる仕事です」
拍手は、さっきより大きくなった。
守る。
支える。
寄り添う。
どれも正しい言葉だ。
だが、その奥に別の言葉が沈んでいる。
奪う側を、根絶する。
それを言わないために、政治家の言葉がある。
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記者会見は、想定より長引いた。
財源。
議会運営。
若さへの不安。
企業との距離。
井口おさむとの接点。
質問は多かった。
だが、ほとんどは想定内だった。
会見が終わりかけた頃、記者席の一角が少しだけ動いた。
黒瀬麗奈が立っていた。
道理でテレビで見なかったわけだ。
遠路はるばる俺の顔を見にきてくれたらしい。
近くで見ると、独特のオーラを感じる。
美しい。
それは間違いない。
だが、それだけではない。
報道局プロデューサー兼キャスター。
画面の向こう側にいた女が、こちら側に来た。
(さて、あなたはデポルなのか?)
「黒瀬麗奈です。当選、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
マイクを向けられる。
黒瀬は笑っていた。
祝福の顔だった。
「圧倒的な勝利でした。大阪市民は、久世さんに何を託したとお考えですか」
「安心だと思います」
「安心」
「はい。怒りだけでは人は投票しません。不安があり、それを変えてほしいという意思があったのだと思います」
黒瀬は頷いた。
「被害者支援と治安改革。この二つが、今回の当選の大きな理由だと?」
「そう受け止めています」
最初の質問は柔らかい。
だが、黒瀬の目は笑っていない。
「久世さんは、加害者に甘い社会を変えるとおっしゃいました。一方で、加害者の更生を支援する団体からは、排除の思想ではないかという声もあります」
言葉を選ぶ。
「更生を否定しているわけではありません」
視界の端に、ひとみが入った。
言い過ぎるな。
そういう顔に見える。
「ただ、更生という言葉が、被害者の沈黙を前提にしてはいけないと考えています」
黒瀬は少しだけ目を細めた。
「では、被害者保護を優先するということですね」
「被害が出ない仕組みを優先します」
「かなり強い治安政策になるのでは?」
「必要な範囲で、透明にやります」
黒瀬は引かなかった。
「久世さんは、ご自身でも防犯や警備に関わる企業を運営されています。市政と民間事業の距離について、不安の声も出そうですが」
「当然の指摘です」
「当然?」
「はい。だからこそ、公開します。選定過程も、契約も、外部の専門家も入れます。私の会社だけでやるつもりはありません」
「全国から募ると?」
「はい、先ほどの会見でもお伝えしました通りです」
黒瀬は微笑んだ。
「大阪に来て七年で、弁護士、企業経営、被害者支援、そして市長です。かなり速い階段を上がっておられる」
褒め言葉ではない。
そう聞こえるように作られた針だった。
「そういう見方にも見えるのかもしれませんね」
一瞬だけ、黒瀬の笑顔が浅くなった。
質問を変えてきた。
「ところで、先ほどから近くにいらっしゃる金髪の美しい女性。久世さんの会社の取締役副社長の加藤めぐみさんですね」
めぐみの名前が出た瞬間、会場の空気がわずかに動いた。
黒瀬は続ける。
「選挙戦でもかなり近い位置にいらっしゃいました。久世さんにとって、どういう存在なのでしょうか」
露骨だった。
政策から外れた。
関係性を突きに来た。
めぐみは微笑んでいる。
楽しんでいる顔だった。
「重要な仲間です」
「それだけですか」
「それ以上を、選挙会場で説明する必要がありますか」
黒瀬が笑った。
「失礼しました。視聴者の関心も高いものですから」
「市民の関心は、大阪が安全になるかどうかだと思います」
言ってから、少しだけ強かったかと思った。
だが、黒瀬は不快そうにはしなかった。
むしろ楽しそうだった。
「最後にもう一点だけ」
黒瀬の声が、さらに柔らかくなった。
「久世さんは、デポルという存在について、どのようにお考えですか」
会場の音が消えた気がした。
ひとみがこちらを見ている。
めぐみは、試すように見る。
俺を。
イヤホンの向こうで、みずきが息をのむ。
黒瀬は待っていた。
東京側は、俺が何をしてきたかまでは知らないーーはずだ。
だが、井口との接点。
二階堂の件。
被害者支援。
治安政策。
点を並べれば、そこへ行くのかもしれない。
「現時点で、行政の長として語るには、定義が曖昧すぎます」
そう答えた。
「定義が曖昧?」
「はい。だからこそ、恐怖だけで語るべきではない。逆に、存在しないものとして片づけるべきでもない。必要なのは、被害の実態を確認し、制度として扱える形にすることです」
嘘ではない。
黒瀬は、ほんの少しだけ笑みを深めた。
「慎重なお答えですね」
「市長としては、そうあるべきだと思います」
「個人としては?」
質問が鋭くなる。
「個人の怒りで行政を動かすつもりはありませんよ」
答えた瞬間、ひとみがほんの少しだけ息を吐いた。
合格か。
ぎりぎりか。
どちらでもいい。
本当は、全部ぶち殺す。
と、言いたいところだが、それを出さなかっただけ及第点だろう。
黒瀬はマイクを下げた。
「ありがとうございました。今後の市政に注目しております」
「ありがとうございました」
黒瀬は去っていく。
その背中を見ながら、嫌な感覚だけが残った。
負けたわけではない。
失言もしていない。
だが、測られている。
反応。
痛点。
近くにいる人間。
黒瀬麗奈は、報道をしているだけではない。
相手も。
そして俺も、お互いに明確な敵と認識した。




