第55話:座標変位2_幕間②
ーー久世フェーズ
一九九七年・徳島。
図書館は、家より安全で、学校より静かだった。
その日も、俺は六法全書を開いていた。
隣では、吉田さんが夏休みの宿題をしている。
「久世くん、それ読んでて楽しいの?」
「全然」
「じゃあ、なんで読むの?」
「必要だからだよ」
吉田さんが首を傾げた。
その時、棚の向こうから男子の笑い声が聞こえた。
同じ学校の一木、木本、本田、田口。
四人とも、強い相手には従い、弱い相手には声が大きくなる。
一木が吉田さんを見つけた。
「肌、きれいだね」
「やめて」
吉田さんの声が硬くなる。
木本と本田が、机の左右へ回った。
一木の手が伸びる。
「やめろ」
立ち上がった俺の声は震えていた。
中身が三十五歳でも、身体は七歳。
相手は四人。
勝てるはずがない。
それでも、止めなければならない。
一木は俺を見て笑った後、自分の頬を吉田さんの頬へ押しつけた。
「いやっ!」
吉田さんが泣いた。
その声に、二〇二五年の夜が重なった。
泣いている人。
笑っている加害者。
何もできなかった俺。
また、目の前で奪われる。
机の上にあった六法全書を掴んだ。
一木の頭へ、その角を叩きつける。
木本が胸ぐらを掴んできた。
俺は鉛筆を腕へ突き刺した。
本田の拳が頬に当たり、視界が揺れる。
怖い。
痛い。
それでも、何もしない自分に戻る方が怖かった。
職員に止められるまで、殴り合った。
一木の耳へ噛みついた。
口の中に血の味が広がっても離さなかった。
「吉田さんから離れろ」
椅子を振り上げる。
「お前ら全員、デポルと同じだ」
職員が椅子を掴んだ。
「久世くん! 椅子は友達へ叩きつけるものじゃありません!」
「こいつらは、友達じゃない」
一木たちは泣きながら逃げていった。
俺は床へ座り込んだ。
顔も腹も腕も痛い。
勝ったのかは分からない。
だが、吉田さんはそれ以上傷つけられなかった。
一人を守れた。
初めて、自分の手で。
「……久世くん」
吉田さんが泣きながら俺を見ていた。
「大丈夫?」
「俺は大丈夫。吉田さんは?」
「怖かった」
「うん」
「でも、助けてくれた」
どう返せばいいのか分からなかった。
「怖かったら、助けてって言っていいんだよ」
ようやく出たのは、それだけだった。
俺も泣いていた。
痛かった。
怖かった。
それでも、少し誇らしかった。
自分の守れる範囲だけは、必ず守る。
その高揚と決意が、俺の根に残った。
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吉田さんの説明により、職員は俺だけを責めることをやめた。
一木たちは以前から嫌がらせを続けていたらしい。
なら、もっと早く大人が気づくべきだった。
騒ぎを聞いたみことさんが、図書館へ駆け込んできた。
俺の腫れた顔を見て、涙を浮かべる。
「ありがとう」
そして、強く抱きしめられた。
誰かに心配されること。
自分のために涙を流してもらうこと。
そんな温もりを、俺は一度目の人生でほとんど知らなかった。
この人生は、地獄だけではない。
当時の俺は、まだそう思えた。
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五年半後。
二〇〇三年一月。
小学六年生になった俺は、身長百七十センチ、体重六十一キロまで成長していた。
父のしごきと、自分で続けた鍛錬。
身体の構造や急所も学んだ。
法律の勉強も続けている。
みことさんは、怒りと法解釈を混ぜるなと何度も俺を叱った。
吉田さんも、変わらず図書館へ来ていた。
あの姉妹は、俺にとって数少ない光だった。
だが、中学入学を前に、父が命じた。
「中学では野球部へ入れ」
野球部へ入れば、朝も放課後も休日も奪われる。
司法試験の勉強も、図書館へ通う時間も失う。
それは許せない。
父への恐怖は、今も消えていない。
階段の音だけで身体が強張る。
あの手が上がれば、反射的に身を縮める。
それでも、力関係は変わっていた。
冬の夜。
公園で素振りをしている俺へ、父が拳を振るった。
「……今の、握ってたね」
頬の内側が切れていた。
俺は腰を落とし、父の肝臓へ拳を打ち込んだ。
父が膝をつく。
吐瀉物が地面へ落ちる。
「立ちなよ」
俺は父を見下ろした。
「これ、親子喧嘩だろ?」
父が怒鳴りながら立ち上がった。
拳が顎へ当たり、視界に火花が散る。
やはり怖い。
だが、もう一方的に殴られるだけではない。
「お父さん」
俺は笑った。
「生まれて初めての親子喧嘩だ。最後まで付き合ってよ」
街灯の下で、父と殴り合った。
法でも、証拠でもない。
この男に負けていないと、自分へ証明するための暴力だった。
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父は肋骨や指を折った。
俺も顔を腫らし、全身に打撲を負った。
その日から、父は俺を殴らなくなった。
目を合わせることさえ避けるようになった。
支配関係は壊れた。
それでも俺は、一人でバットを振り続けた。
今度は命令ではない。
自分で選んだ鍛錬だった。
父から時間を取り戻した俺は、法律を学び続ければ理不尽へ届くと信じた。
だが、次の事件で知る。
法律だけでは、間に合わない夜がある。




