第53話:黒い簒奪者_黒の祝福編⑤
ーーめぐみフェーズ
徳島・防緑総合病院。
徳島に来て、六日目。
山上は大阪へ移る準備を進めている。
あさみも、ジムを休止する方向で動き始めた。
表の収穫は十分だ。
残るのは、母のことだけ。
面会室へ入ると、母は自分から私の名を呼んだ。
「めぐみ」
最初の日より、目の焦点が合っている。
抱えているノートにも変化があった。
守っているのではない。
渡すかどうか迷っている手だ。
「昨日、考えたの」
母がノートの表紙を撫でる。
「あなたには、知らないといけないことがある」
「そうだね」
「私が隠していたこと。クラウスが残してくれたこと」
擦り切れた表紙には、薄く名前が残っている。
Klaus Kato.
父の名前だ。
母が震える手でノートを差し出した。
「読んで」
受け取って、ページを開く。
日本語の中に、時折ドイツ語が混じっている。
そこに書かれていたのは、父の日記だった。
母と出会った日。
母が自分をデポルだと告白したこと。
奪う衝動を恐れていたこと。
人間として生きたいと願っていたこと。
父はこう書いていた。
英子は、自分を怪物だと言った。
けれど、怪物は自分の行いを怖がらない。
ページをめくる。
父は、母を救おうとしたわけではない。
正しい道へ導こうとしたのでもない。
奪うことを嫌い。
傷つけることを恐れ。
それでも生きたいと願う母を、美しいと思った。
そう書いてあった。
ため息が出た。
感動ではない。
呆れた方だ。
「私は、あの人がいたから人でいられた」
母が呟く。
「事情は分かったよ。お父さん、すごいね。ラブストーリーだね」
母の目から涙が落ちた。
「それから、お父さんを殺したのはお母さんじゃない。別のデポルだよ。私は、本人から聞いたから」
母の唇が震える。
「だから、もう自分を責めなくていいんじゃない?」
母が泣き出した。
傍から見れば、親子の和解に見えるのかもしれない。
けれど、まだ終わっていない。
「私も、全部つながってすっきりしたよ」
「めぐみ、これから――」
「父と母は大恋愛をして結婚」
母の言葉を遮る。
「娘には何も教えないまま、父はデポルに殺された」
母の顔が凍る。
「母は怒りも恐怖も全部、何も知らない娘へぶつけた」
ノートを机へ置いた。
「よかったね。事情が分かって」
面会室が静まり返る。
「千二百回」
母の目が揺れた。
「何、その数字……」
「お母さんが、一年間で私を殴った回数」
毎日、数えた。
忘れないために、ノートへ書いた。
母が泣きながら謝罪を繰り返す。
殴ったこと。
怒鳴ったこと。
刃物で傷つけたこと。
怖がらせたこと。
私は最後まで聞いた。
許すためではない。
何をしたのか理解した上で、自分の口から謝るところを見たかった。
父の日記には、続きがあった。
いずれ、めぐみには伝えなければならない。
隠すことは、守ることではない。
デポルであっても、人として生きる道はある。
私は、その行を長く見た。
父は、私へ話すつもりだったらしい。
だが、間に合わなかった。
理不尽に。
唐突に。
すべてを奪っていく。
それがデポルだ。
前に、恒一の記憶が私へ流れ込んだことがある。
あの時には理解できなかった怒りが、今なら分かる。
例外などない。
デポルは、根絶すべきだ。
ノートを閉じる。
「お母さん」
母が怯えた目でこちらを見る。
「同情はするよ」
それだけは本当だ。
「次に会うのは、きっとここから出た時だね」
「……え?」
「ちゃんと元気になって」
私は笑った。
「その時は、全部返すから」
刃物。
怒鳴り声。
殴打。
リモコン。
全部覚えている。
「千二百回。勝手に死んで逃げないでね」
母の顔から血の気が引いた。
私は父のノートを持ち、面会室を出た。
・
・
・
山上の車で、大阪へ向かう。
助手席では、あさみが竹ちくわの袋を抱えていた。
荷物の整理が終わらなかったと騒いでいる。
山上は静かに運転していた。
二人とも、まだ何も知らない。
それでいい。
表の仕事をする人間へ、裏側を見せる必要はない。
後部座席で、父の日記を思い返す。
母はデポルだった。
なら、私にもその血が流れている。
疑いではなく、事実だ。
恒一は、恐らく気づいている。
それでも、私を隣に置いている。
理由は簡単だ。
恒一は、私がいなければ困る。
そうなるように仕向けてきた。
私がデポルだと告げた時、恒一はどんな顔をするだろう。
そのカードを切るのは、今ではない。
恒一が私から逃げられない時。
私だけを見なければならない時。
そこまで取っておく。
もし、嫌われたら。
もし、見る目が変わったら。
もし、離れていったら。
胸の奥で、黒いものが揺れた。
馬鹿らしい。
そんなことは、ありえない。
恒一の野望は、私が完成させる。
命を救ってくれたあの人に殺されるなら。
それも、本望なのかもしれない。
手首の黒いシュシュを握る。
花びらを閉じた黒薔薇のようだった。
私はそれを離さないまま、大阪へ帰った。




