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第57話:原点_幕間④

ーー井口フェーズ


俺の親が何者なのか。


それを正確に知っているのは、教員くらいだった。


俺、井口ゆうたは、自分を王様だと思っていた。


何をしても許される。


親が何とかしてくれる。


大人は自分を叱れない。


同級生たちは、俺の家をヤクザか何かだと思っていた。


実際には違う。


政治家の息子さ。


井口という名字は案外多い。


だからほとんどのやつは気にも留めない。


だが、質の悪さだけで言えば、大差なかったのかもしれない。


万引き。

暴行。

脅し。


何か起こしても、大ごとにはならない。


だから、勘違いした。


この学校で。

この街で。


自分は王様なのだと。


だが、それは間違いだった。


王様というのは、誰にも殴られない存在のはずだから。


しかしおかしい。


俺は今、猛烈に殴られている。


抵抗することさえできないほど、一方的に。


真口と外口も、派手にやられている。


それでも二人は、必死に俺を止めようとしていた。


俺を守るためか。


いや、違う。


本当に俺が死ぬと思ったからだ。


目の前に、本気で人を殺そうとしている人間がいる。


それを見た生き物としての本能が、死に物狂いで止めに入らせたのだろう。



ーー久世フェーズ


俺は、井口の左肩を掴んでいた。


逃がさないために。


固定するために。


血まみれになった拳で、井口の顔面を何度も殴る。


一度。


二度。


三度。


数えるのをやめた。


井口の顎が嫌な音を立てる。


鼻が潰れる。


肩が軋む。


井口の口から、意味のない声が漏れた。


「やめ……ろ」


「もういい!」


「久世、やめろ!」


真口と外口が叫ぶ。


両脇から組み付かれている。


それでも、俺の攻撃は緩まなかった。


不思議だった。


怖いのか。

怒っているのか。

楽しいのか。


自分でも分からない。


ただ、目の前のものを、この世から消したかった。


その時。


井口の首筋が、一瞬だけどす黒く滲んだ。


ほんの一瞬。


室内は薄暗い。


俺以外に見えたかは分からない。


血のせいかもしれない。

影のせいかもしれない。

錯覚かもしれない。


だが、俺には見えた。


あれは、人間だけの色ではない。


デポル。


少なくとも、その可能性がある。


そう思った瞬間、俺の中で最後の歯止めが外れかけた。


「お前らは」


拳を振り下ろす。


「やっぱり」


もう一度。


「この世から」


井口の意識が沈んでいく。


「消さなければ」


小便の匂いがした。


初めて、井口ゆうたは理解したはずだ。


暴力とは何か。


殺されるとは何か。


自分が他人に向けていたものが、どれだけ恐ろしいものだったのか。


だが、遅い。


遅すぎる。


俺はさらに拳を振り上げた。


その瞬間。


「久世くん!」


吉田さんの声が聞こえた。


泣き声だった。


恐怖で震えた声だった。


ほんの一瞬だけ、視界の端に吉田さんが映った。


椅子に縛られたまま、泣いている。


俺を見ている。


助けを求める目ではなかった。


俺を恐れる目に見える。


おかしい。


俺は守っているはずなのに。


何故、そんな目をするのか。




一瞬の静寂のあと、体育倉庫の扉が開いた。


光が差し込む。


教師の叫び声。


足音。


誰かが俺に掴みかかる。


俺はそこで、ようやく止まれた。



あとになって、現実が戻ってきた。


やり過ぎた。


何のための転生だ。


ここで俺の野望は終わりか。


俺が、犯罪者だ。


脳内で、意味のない言葉がぐるぐる回った。


現実逃避しないとやっていられないほど、冷静と混乱が同時に押し寄せてきた。


だが、この事件は警察沙汰にはならなかった。


三人が、被害届を出さなかったからだ。


しかしーー最後まで井口ゆうたがデポルかどうかは分からなかった。


どちらにしても、俺は殺すつもりで暴力を行使した。


仮にも司法を目指す人間が、暴力で解決。


笑える。


いや、笑えない。


もし警察が介入していれば、俺に下る判断は五分五分といったところだっただろう。


正当防衛で押し切るには、相手側の被害があまりに大きすぎた。


日本の裁判所は、正当防衛の成立に厳しい。


相手が戦意を喪失した後も執拗に攻撃を続けた事実は、法的には過剰防衛、あるいは別個の傷害とみなされるリスクが高い。


未成年を監禁し、少女を拉致し、暴行しようとした相手を黙らせるのに、やりすぎという言葉が存在する。


本当に、くだらない法律だ。


この事件を警察に持ち込めば、泥沼の相打ちになる。


俺や吉田さんは、監禁と暴行、未遂事案の被害者として被害届を出せる。


だが同時に、井口たち三人も俺を傷害で訴える権利がある。


そうなれば、俺もただでは済まない。


俺のクリーンな経歴も終わる。


教員たちは、自身の監督不行届を恐れていた。


学校の名前。

教育委員会の顔色。

保護者対応。

報道。


連中は、生徒の心配より先に、それらを計算していた。


加害者の三人が被害届を出さない方針だと分かると、教員たちは分かりやすく胸を撫で下ろした。


俺はその隙を突いた。


こちらも被害届を出さない条件として、井口たちの住所、家族構成、保護者の連絡先を教師から引き出したかった。


だが、圧力がかかったのか、すべては無理だった。


監禁事件の後、俺たちは全員病院へ運ばれた。


処置が終わった後、俺は胸ポケットのICレコーダーを確認する。


録音は残っている。


音は少し悪い。


だが、井口の声。

吉田さんの声。

監禁の状況。

脅し。


必要なものは入っている。


俺はそれを何度も確認し、井口側の人間を待った。


待合室に戻ると、井口の母親らしき女がいた。


驚くほど美しく、冷たい目をした女だった。


彼女は看護師に何かをまくし立てていた。


俺は、その会話に割り込んだ。


「こんばんは。井口先輩に監禁、暴行、集団リンチを受けた、久世恒一と申します」


丁寧に。


しかし、子供らしくない挨拶を済ませる。


女は俺を見る。


「……で、何? あんたがうちの息子をあんなにしたの?」


なるほど。


親がクズなら、子もクズになる。


蛙の子は蛙。


トンビが鷹を産む実例に、俺はまだ遭遇したことがない。


俺の父親と俺が、そうであるように。


彼女はそこから、すべてはお前や周りの生徒のせいだとまくし立ててきた。


その時だった。


中肉中背の、黒いスーツの男が歩いてきた。


鮮やかな青のネクタイ。


表情は薄い。


だが、空気は硬い。


井口家の誰か。

あるいは、井口家に雇われた代理人。


男は、井口の母親を見た。


「奥様。こちらは私が」


その一言で、女は口を閉じた。


よほど信頼されているのか。

あるいは、命令に逆らえないのか。


男は俺に向き直り、深く頭を下げた。


「この度は、本当に申し訳ないことをしました」


父親ではない。


なのに、家の代表として謝罪している。


俺はその違和感を飲み込んだ。


「あなたは?」


「井口家の代理の者です」


「本人は来ないんですね」


「先生は所用で動けません」


先生。


当時の俺は、井口おさむという名前までは知らなかった。


テレビを見る時間も、政治家の顔を覚える余裕もなかった。


だが、分かった。


この家は普通ではない。


「親御さんにも謝罪したい。医療費、通院費、衣類の破損、その他必要な費用はすべてこちらで持ちます」


男は、営業の教科書に載るような丁寧さで言った。


俺は背筋を伸ばす。


体は痛い。


だが、ここで折れるわけにはいかない。


「親への謝罪は必要ありません。井口ゆうたさん親子と同じく、いい関係ではありませんから」


男の眉が少し動いた。


「それと、医療費をその都度請求する形式だと、あなたやご子息と継続的に関わりを持つことになります。こちらとしては非常に恐怖を感じ、ストレスになります」


言葉が早くなる。


相手の空気に押されているのが分かった。


だが、止めない。


「極力早急に関係を断ちたいので、一括での支払いを求めます。金額はお任せします」


さらに続ける。


「ただし、必ず弁護士を入れ、公正証書として残したいです。監禁被害に遭った吉田さんに対しても、同様です」


不当な金額を吹っかければ、恐喝などの足枷になる。


だから、金額は相手に委ねる。


その誠意を試す。


男は数秒、黙っていた。


「分かりました。早急に手配します」


男は短く答えた。


その瞬間。


井口の母親が、また口を開いた。


「何でこっちがそこまでしなきゃいけないのよ。うちの子の方がひどい怪我してるのに」


男が、ゆっくりと彼女を見る。


「奥様」


声は低かった。


「黙ってください」


それだけで、場の温度が下がった。


だが、女は止まらない。


「だってそうでしょう。こんな子供に、ゆうたがあんな姿にされて」


その次の瞬間。


男の平手が、井口の母親の頬を打った。


乾いた音が、病院の待合室に響いた。


女はよろめき、椅子に倒れ込む。


周囲が凍りついた。


看護師が息を呑む。


俺も言葉を失った。


親でもない。


代理の男。


それでも、井口家の中でこの女を黙らせる権限を持っている。


そういうことだ。


病院という公共の場で、あまりにも当然のように暴力が使われた。


「失礼しました」


男は、何事もなかったように俺へ頭を下げた。


「後日、弁護士より連絡いたします」


俺は何も言えなかった。


目の前で暴力を見るというのは、なかなかショッキングなことだった。


俺がやったことも、これと同じなのか。


いや、違う。


違うはずだ。


でも、違うと言い切る根拠は、まだ俺の中にない。


吉田さんも、同じ気持ちだったのかもしれない。


俺が井口を殴り続けていた時。


彼女は、俺をどう見ていたのだろう。


ポケットの中で、ICレコーダーが静かに眠っている。


日の目を見ることはなかった。


この時、俺は知らない。


病院での会話。

教師から引き出そうとした情報。

そして、井口ゆうたを全治十ヶ月にした少年の名前。


久世恒一。


その報告書が、後に井口おさむの手元へ届くことを。



後日。


井口ゆうたは転校した。


表向きは、家庭の事情。


実際には、これ以上学校に置けなかったのだろう。


全治十ヶ月。


命は残った。


だが、井口ゆうたの中にあった王様気分は、この日で終わったはずだ。


少なくとも、俺の前では。


真口と外口も、しばらく学校に来なくなった。


事件はなかったことになった。


学校は平穏を取り戻した。


先生方は、安心した顔をしていた。


吉田さんは助かった。


みことさんは、何度も礼を言った。


でも俺の中では、何も終わっていなかった。


俺は、法で戦うつもりだった。


証拠を取った。


事実を整理した。


公正証書まで要求した。


慰謝料という名の軍資金も手に入れた。


法律を学んできた成果はあった。


だが、本当に吉田さんを守ったのは、法ではなかった。


俺が井口を殴り潰したからだ。


あの瞬間、法律は体育倉庫にはなかった。


あったのは、恐怖と暴力と、縛られた吉田さんの涙だけだった。


俺は、井口ゆうたを殺さなかった。


殺せなかった。


ただ、あの瞬間。


俺は確かに殺すつもりだった。


その事実だけは、消えない。


井口ゆうたがデポルだったのかは、最後まで分からない。


薄暗い倉庫で見た、首筋のドス黒い滲み。


錯覚だったのかもしれない。


血と影がそう見えただけかもしれない。


だが、俺の中では、もう十分だった。


デポルかもしれない。


なら、殺す。


この考えが、俺の中に根を張った。


俺は甘かった。


法律を変えればいいと思っていた。


社会を変えればいいと思っていた。


仕組みを作れば、理不尽は減らせると本気で思っていた。


違う。


理不尽は、待ってくれない。


法が届く前に、誰かを奪っていく。


なら。


届く前に止める力がいる。


止まらないなら、壊す力がいる。


その日から、吉田さんは、図書館には来なくなった。


みことさんは何も言わずに、勉強に付き合ってくれた。

ただし頻度は落とした。


それでいい。


大切だから、近すぎてはいけない。


俺が何かを壊す時、彼女たちも巻き込まれるかもしれない。


図書館の光は、まだそこにあった。


だが、俺はその光から一歩下がった。


そして、自分に言い聞かせた。


俺は、愚かだ。


デポルも。

法も。

放置する国家も。


全部を甘く見ていた。


法律だけで守れると思っていた。


努力すれば間に合うと思っていた。


積み上げれば、理不尽を押し返せると思っていた。


馬鹿だった。


本物の馬鹿だ。


掠奪種デポルを根絶する。


七歳の時に書いたその言葉の意味が、少しだけ変わった。


法で根絶する。


だけではない。


奪わなければならない。


奪われる前に。


そういう意味に変わった。



それでも、表向きの計画は止めない。


むしろ、加速させた。


中学三年。


俺は大阪へ向かった。


二度目の司法試験。


一度目は落ちた。


当然だ。


それでも、手応えはあった。


論文の型。

問題文の読み方。

時間配分。

自分の弱点。


全部持ち帰った。


二度目は、前より戦える。


そう思っていた。


大阪は、徳島とは違う。


人が多い。

音が多い。

匂いが濃い。


駅前を歩くだけで、情報が多すぎる。


ビル。

看板。

車。

人。

ネオン。


明るい場所の横に、すぐ暗い場所がある。


試験を終えた夕方。


俺は疲れていた。


頭の芯が痺れている。


だが、悪くない疲れだった。


前に進んでいる。


そう思えた。


その時、路地裏から声が聞こえた。


女の声。


短い悲鳴。


身体が動く。


考えるより先に、路地へ入った。


薄暗い路地。


壁に追い詰められた女の人。


スーツ姿。

髪は乱れている。

口元に血が滲んでいる。


彼女の前には、男が三人いた。


人間の顔。


人間の服。


だが、空気が違う。


首筋。

手の甲。

耳の裏。


赤黒く滲む肌。


井口ゆうたの時に見たものより、ずっとはっきりしていた。


ああ。


これだ。


こいつらだ。


前世で俺から奪ったもの。


人に混ざり、人の顔をして、人を奪う種。


掠奪種。


男の一人が振り返る。


「ナンダ、クソガキ」


俺は鞄を下ろした。


もう分かっている。


法律は、今この瞬間には間に合わない。


だから、叩きのめした。


正確には、追い払えた。


こちらも酷くやられたが、ひとまず勝ちでいいだろう。


手足が震えている。


認めたくはないが、恐怖だ。


この時の縁から、水谷ひとみと共に行動するようになる。


ただ、今思い返しても。


デポル三人に囲まれているにしては、ひとみは妙に冷静に見えた。


気のせいではない気がする。


ひとみが、俺に話しかけてくる。


「ありがとうな。助けてくれて。あんたのおかげで命拾いしたわ」


うさんくさい。


その第一印象は、後にそれほど間違っていなかったと知る。


そんな彼女との出会いから、ビジネスもデポル狩りも大きく進展していくことになる。


帰り道、俺は何度も思い返していた。


殺しきれなかった。


まだ弱い。


しっかり殺しきれるようにならなくては。


二度と奪わせないために。


俺の周りの大切な人を守れるように。


殺して。

殺して。

殺して。

殺して。


命にかえても、全部殺しきってやる。


デポルをこの世から消し去る俺の物語が、ようやく幕を開けた瞬間だった。

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ここまで読んでいただきありがとうございます。 この物語は 「正義と暴力の境界」 「人間と異種の曖昧さ」 をテーマに進んでいきます。 少しでも続きが気になれば、 ブックマーク・評価で応援いただけると嬉しいです( ^ω^) #現代バトル #社会問題 #ダークヒーロー #復讐 #高校生主人公
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