第56話:愚か者_幕間③
二〇〇一年・五月
二度目の中学生生活が始まっている。
みことさんは、大学院へ進学した。
彼女は彼女で、自分の人生を必死に進めている。
貧しい家。
母親。
妹。
弁護士になるという目的。
そのために勉強している。
俺とは違う。
俺は復讐のため。
根絶のため。
前世で奪われたものを、二度と奪わせないためだ。
法律を変えて、デポルを消す。
みことさんの目的は、もっと柔らかい。
それなのに、芯がある。
吉田さおり。
頬擦り事件の後、俺と吉田さんの距離は少し変わった。
あの日から、吉田さんは俺の近くに座るようになった。
何かを話すわけではない。
ただ、そこにいる。
一人で居るのが怖かったのかもしれない。
もしかすると、俺のことが好きなのかもしれない。
満更ではない。
だが、困る。
しかし、嫌ではない自分に少し戸惑った。
俺は、復讐のために戻ってきた。
デポルを根絶するために戻ってきた。
なのに。
この時間は、前世では持てなかったものだった。
図書館。
法律。
吉田姉妹。
少しの笑い。
俺は、まだ信じていた。
積み上げれば届く。
法を学び、金を作り、人脈を作り、政治に入る。
暴力ではなく、仕組みで変える。
誰かを守るために、社会の側を変える。
その道は長い。
だが、不可能ではない。
そう思っていた。
それが甘さだったと知るのは、これから起きる事件だ。
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放課後。
俺は、吉田さんと図書館へ向かうつもりだった。
その前に、吉田さんが教室に忘れ物をしたと言って戻った。
俺は校門前で待っていた。
五分。
十分。
遅い。
嫌な予感がする。
頬擦り事件の時と同じだ。
集団で一人を囲む時の、あの湿った匂い。
俺は校舎へ戻った。
廊下は静かだった。
放課後の校舎には、妙な空白がある。
誰かの笑い声。
遠くの運動部の声。
床を擦る上履きの音。
その中に、異物のような声が混じっていた。
「いいだろ、少しだけ」
男子の声。
知らない声ではない。
同じクラスの井口ゆうた。
周囲の大人は、面倒を避ける。
教師も強く言えない。
同級生も逆らわない。
一木たちとは違う。
あいつらは小物だった。
井口ゆうたは、守られている小物。
噂によると、親が政治家だとか、ヤクザだとか。
どちらにせよ、守られている分、厄介だった。
声のする方へ走る。
空き教室。
扉は半分だけ閉まっていた。
中を覗く。
吉田さんが、机に押しつけられていた。
「やめて!」
声が震えている。
井口ゆうたは笑っていた。
取り巻きが二人。
見張り、いや腰巾着だ。
フラッシュバックする。
前世で無惨に殺された。
冴子さんを守れず、大勢にやられたあの日を。
「こんにちは」
俺は教室へ入った。
全員がこちらを見る。
井口ゆうたが、面倒そうに顔を歪めた。
「何だよ、久世」
「汚い手で吉田さんに触るなよ」
「お前、吉田の何なの?」
「自称、ボディガードだな」
「うぜえな」
井口が吉田さんの腕を強く掴む。
その瞬間、俺は走り出した。
気づいたときには、腰巾着の一人が真横にいた。
金属バットが振り下ろされる。
後頭部に、鈍い衝撃。
視界が白く弾ける。
意識を失う寸前、俺は内ポケットに手を入れた。
不甲斐なさ。
前世から少しは成長したと思い込んでいた慢心。
自分への怒りが脳内で渦巻いたまま、意識が飛んだ。
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「俺が右腕持つわ」
「じゃあ俺、左腕な」
下卑た笑い声で意識が浮上する。
光の入らない、埃とカビの臭い。
体育倉庫だろう。
前世の野球部時代、先輩からのしごきで何度も閉じ込められ、暴行を受けた場所だ。
制服は脱がされていない。
左胸のポケットに、確かな感触がある。
起動できていればいいが。
後頭部と腕が、焼けるように痛む。
拘束はされていない。
地面に転がされている。
そして、腰巾着二人に起こされそうだ。
これが現状把握した上での情報。
人数と配置を確認するために顔を上げると、正面にニヤついたゴミ野郎がいる。
そいつが井口だ。
俺の腕を掴んでいらのが、別クラスの真口と外口。
前世の記憶にある。
「もう誰も助けに来ないぜ?」
返事をする代わりに肺の空気を整えようとすると、間髪入れずに腹を蹴られた。
「返事しろよ。立場が分からねえのか?」
息ができない。
部屋は暗い。
けれど、徐々に目が慣れてくる。
そして、それが視界に入った瞬間。
俺の全身の血が、限界を超えて沸騰した。
口元に布を巻かれ、声も出せずに涙を流している吉田さんが、パイプ椅子に縛り付けられていた。
ああ。
デジャヴだ。
前世の最期。
何も本気で取り組まず、周りに合わせて自分を殺し、ただ漠然と生きて、守りたいと思った人も守れずに殺された。
あの無様な場面。
二度とあんなことは起こさないと、必死に自分を研磨してきたつもりだった。
俺は頑張っている。
だからもう大丈夫だ。
そんな甘い自己満足に酔っていた自分を、今すぐ殺してやりたい。
駄目だ。
抑えられない。
自分が怖くなってくる。
このやり直しの世界で、唯一普通に、そして優しく接してくれたのは、吉田姉妹だけだった。
彼女たちは、俺の大切な人リストの最上位に書き込まれてしまっている。
また失うのか。
また、踏みにじられるのか。
そう考えた瞬間、目から涙が溢れた。
「ようやく見えたみたいだな」
井口たちが笑う。
「そうだな。お前が嫌がることをやってやるよ」
井口が、吉田さんの猿ぐつわを外す。
吉田さんの呼吸が乱れる。
「やめて……」
震えた声。
井口は楽しそうに、吉田さんの顎を掴んだ。
顔を近づける。
彼女の絶叫が、倉庫に響いた。
だが、次の瞬間。
井口たちの動きが、ピタリと止まった。
何事かと思ったのだろう。
すぐに理解した。
俺が、大笑いしていたのだ。
大爆笑だ。
腹を抱え、床でのたうち回りながら。
人生で、これほどまでに笑ったことがあっただろうか。
十秒か。
二十秒か。
腹の底からこみ上げる哄笑が、暗い倉庫の中に響き渡る。
「……ふぅーーーーーー……」
ゆっくりと地面を踏み締め立ち上がる。
笑い終わる頃には、既に涙は枯れていた。
同時に、人を殺す覚悟も決まっていた。




