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第55話:座標変位2_幕間②

一九九七年・徳島


吉田さおり頬擦り事件。


今思い返しても、名前だけならくだらない。


だが当時の俺にとっては、かなり大きな事件だった。


場所は図書館。


俺にとっては、家の次に長くいる場所。

いや、家より安全で、学校より静かで、法律に近づける唯一の場所だった。


その日も、いつもの席で六法全書を開いていた。


隣の机では、吉田さんが夏休みの宿題をしている。


吉田さおり。


よく図書館で声をかけてくる。

俺の法律の勉強を「変なの」と笑う。

けれど、それ以上踏み込んではこない。


「久世くん、またそれ?」


「またこれ」


「楽しいの?」


「楽しいかどうかで言えば、全然楽しくない」


「じゃあ、なんで読んでるの?」


「必要だからだよ」


吉田さんは首を傾げる。


子供らしい顔だった。


普通に生きている子供の顔。


俺が一度目の人生で、まともに持てなかったもの。


その時、少し離れた棚の向こうから笑い声が聞こえた。


男子の声。


一木。

木本。

本田。

田口。


同じ学校の連中だ。


四人とも、よく群れている。

強い奴について回る。

自分より弱い相手には、やたらと声が大きくなる。


嫌な匂いがした。


暴力の匂いというより、集団で一人を囲む時の湿った匂い。


一木が、こっちを見て笑った。


「吉田さんだ!」


吉田さんの肩が、少しだけ固まる。


俺は鉛筆を止めた。


「なあ、何読んでんの?」


「読書感想文の本……」


吉田さんは短く答える。


だが、一木たちは引かない。


木本が椅子を引いた。

本田が机の横に回る。

田口は入口の方をちらちら見ている。


囲んでいる。


「吉田さん、肌きれいだね」


一木が言った。


吉田さんは顔をしかめる。


「やめて」


「ちょっとだけ」


「やめてって」


一木の手が伸びた。


俺は立ち上がった。


「やめろ」


声は震えていた。


情けない。


止めに入ったはずなのに、膝が少し笑っている。


中身は三十五歳。


それでも、体は小学二年生だ。


相手は四人。


喧嘩はしたことがない。


一方的に殴られた経験と、一方的に奪われた経験だけだ。


勝てるわけがない。


一木がこちらを見る。


「久世。お前も触りたいんだろ?」


木本と本田が笑った。


田口は少し困った顔をしている。


でも、止めない。


「黙れ」


「怖っ」


一木が大げさに肩をすくめた。


その次の瞬間。


一木は吉田さんの頬に、自分の頬を押しつけた。


「いやっ!」


吉田さんの声が跳ねた。


机が鳴る。

椅子がずれる。


吉田さんは泣き出した。


その瞬間、頭の奥が真っ白になった。


二〇二六年の夜が重なる。


泣いている女の人。

笑っている加害者。

止められなかった俺。


またか。


また、俺の目の前でなのか。


俺は机の上の六法全書を掴んだ。


重い。


小学二年生には重すぎる。


だが、振り上げた。


一木が振り返る。


その頭へ、六法全書の角を叩きつけた。


鈍い音がした。


一木が崩れた。


図書館の空気が止まる。


俺の腕も痺れた。


だが、止まれなかった。


木本が掴みかかってくる。


怖い。


普通に怖い。


だが、何もしない自分が一番怖い。


俺は鉛筆を握った。


逃げるな。


逃げれば、また奪われる。


木本の手が胸ぐらを掴む。


俺は鉛筆を突き出した。


木本の腕に刺さる。


「いっ!」


浅い。


だが怯んだ。


本田の拳が飛んできた。


避けられない。


頬に当たる。


視界が揺れた。


そこからは、図書館の職員に止められるまでの間、殴り合いと取っ組み合いになった。


一木の耳を噛みちぎるつもりだった。


だが、七歳の咬合力では無理だった。


口の中に、血と汗と皮膚の味が広がる。


気持ち悪い。


けれど、離さなかった。


「吉田さんから離れろ……性犯罪者ども」


声は掠れていた。


「お前ら全員、デポルと同類だぜ。ゴミクズどもが」


一木が起き上がる。


額から血が出ている。


顔が真っ赤だ。


そしてこいつだけが、デポルという単語に反応した。


「……おいおい。そうだったのか」


「な、何がだよ」


「最初から言えよ」


俺は椅子を掴んだ。


振り上げる。


一木は頭を守って屈んでいる。


このまま振り下ろせば、少なくともただでは済まない。


だが、椅子は止まった。


「久世くん。椅子は友達に叩きつけるものじゃありません」


職員が、振り上げた椅子を掴んでいた。


子供の力は、あまりにも無力だった。


「ええ。この世に存在してはいけないものに、叩きつけるものですよね。知ってます」


俺の血走った目と気色の悪い言動に、職員は戸惑っている。


「なあ、お前ら」


自分でも驚くほど、声は軽かった。


一木が一歩下がる。


「次は、本気で殺せるかもしれない」


一木は、額と耳を押さえて泣きじゃくる。


木本と本田も、大声で泣き喚いている。


田口は呆然としていた。


周りから見れば、明らかに俺の方が怪我をしている。


負けた側だ。


それでも、性犯罪者たちに対する俺の怒りは収まらなかった。


「邪魔が入らない外で、続きをやろうぜ」


怒りは消えない。


けれど、これは精一杯の虚勢でもあった。


ここで引けば、吉田さんがまた狙われる。


「もういい、もう行こう……」


四人は逃げた。


俺は小さい背中を見送った後、床に座り込んだ。


息が荒い。


顔が痛い。

腹が痛い。

腕が痛い。

全部痛い。


でも。


勝った。


いや、勝ったと言っていいのか分からない。


向こうは逃げただけだ。


俺はボロボロだ。


それでも、吉田さんは無事だった。


頬を擦りつけられた。


泣かされた。


怖い思いをさせられた。


だが、それ以上は奪われなかった。


俺は、初めて自分の手で誰かを守れた。


勝手な高揚感が、俺の根幹を作り上げる。


自分の守れる範囲は、必ず守る。


「……久世くん」


吉田さんが、泣きながら俺を見ていた。


「大丈夫?」


「俺は大丈夫」


強がりだが、それ以外の言葉が思い浮かばない。


「吉田さんは?」


吉田さんは首を横に振った。


「怖かった」


「うん」


「でも、助けてくれた」


「……うん。助けられたのかな、これは」


何と言えばいいのか分からなかった。


三十五歳の一般男性だったはずなのに、女児の泣き顔を前にして、気の利いた言葉一つ出てこない。


営業なら、相手の課題を整理して言葉にできた。


でも、これは違う。


泣いている子に対して、要件定義の当てはめ方が分からない。


「怖かったら、助けてと言えばいいんだよ」


ようやく出たのが、それだった。


吉田さんは少しだけ驚いて、それからまた泣いた。


俺も泣いていた。


痛いからではない。


怖かったからでもある。


悔しかったからでもある。


でも、それだけではない。


誇らしかった。


命はかかっていなかった。


だが、一人の女の子を、性犯罪の入口から引き戻した。


恐らく守れた。


少なくとも今回は。


誇りを持て。


俺は、血の味がする口で笑っていた。



職員に怒られた。


六法全書で人を殴り、鉛筆を人の手に刺した。


耳も噛みちぎろうとした。


どう見ても加害者の一人だ。


だが、吉田さんが泣きながら説明してくれた。


一木たちが囲んできたこと。

頬擦りされたこと。

俺が止めたこと。


職員の顔色が変わった。


大人は、こういう時に急に真面目な顔をする。


なら、最初から見ておけ。


背景や状況を確認せず、自分の見たものだけが正しい情報だと誤認する。


こんな大人にはなりたくない。


そう思ったが、言わなかった。


面倒になる。


俺はハンカチで鼻血を押さえながら、机へ戻った。


吉田さんも横に座る。


「勉強、するの?」


「する」


「顔、腫れてるよ」


「うん。でも右手は動くしね」


吉田さんは、まだ泣きそうな顔で笑った。


俺は六法全書を開く。


さっき凶器に使ったせいで、ページがよれている。


法は、使い方次第で武器になる。


文字通り。


上手いことを言う。


などと、くだらないことを考えていた時、みことさんがやって来た。


少し息が上がっている。


「さおり!」


吉田さんが立ち上がった。


状況を見るに、職員がみことさんに顛末を話したのだろう。


「久世くんが、助けてくれた。前からずっと嫌がらせを受けていたんだ……」


俺は衝撃の事実を知る。


前から?


今回でしばらく様子を見るつもりだったが、話が変わってくる。


みことさんは俺を見る。


俺の顔。

鼻血。

腫れた頬。

破れた服。

赤くなった六法全書。


そして、涙を浮かべた。


「ありがとう」


そう言って、俺を抱きしめた。


思考が止まった。


柔らかい胸の感触。


温かい。


いい匂いがする。


石鹸。

髪。

肌。


痛みで焼けていた身体の中に、別の熱が走った。


前世では、ほとんど知らなかった温もり。


誰かに心配される。

誰かに抱きしめられる。

誰かの涙が、自分のために落ちる。


そんなものを、俺は知らなかった。


知らないまま、三十五歳まで生きて、死んだ。


「本当に、ありがとう」


みことさんの声が耳元で震える。


俺は返事をしようとした。


「いえ、こちらこそ……」


そこで身体が勝手に反応した。


痛みとは違う。


恐怖とも違う。


情けない、生理現象。


この状況で。


俺は、自分の身体を呪った。


中身は三十五歳。

身体は子供。

抱きしめてくれている相手は女子大生。


これは事故だ。


でも。


ほんの一瞬だけ。


俺は、女性の温もりを知った。


前世で得られなかったものを、二度目の人生で知った。


頬は痛い。

腹も痛い。

全身がズキズキする。


それでも、この瞬間だけは痛みが遠のいた。


助けたことへの礼か。

抱きしめてもらったことへの礼か。

それとも、生き直していることへの礼か。


分からない。


ただ、思った。


この人生は、地獄だけではない。


少なくとも今は。


そう思えるくらいには、俺はまだ甘かった。



この事件から、四年が経過した。


二〇〇一年一月。


俺は小学六年生になっていた。


身長は伸びた。


父譲りの体格が、皮肉にも俺を助けた。


身長は百七十センチ。

体重は六十一キロ。


小学生としては、かなり大きい。


筋肉もついた。

握力も上がった。

走り込みにも慣れた。

素振りも、筋トレも、難なくこなせる。


大毅のしごきは、相変わらずだった。


だが、俺の身体はそれに適応した。


人体の本も読み込んだ。


筋肉。

骨。

関節。

急所。

重心。


どこを殴れば人は動けなくなるのか。

どこを押せば力が抜けるのか。

どうすれば体格差を少しだけ埋められるのか。


法学と同じだ。


分解する。

理解する。

使う。


当然、司法試験の勉強も続けている。


憲法。

民法。

刑法。

商法。


何度も詰まった。


何度も吐きそうになった。


小学生の脳と身体でやる勉強量ではない。


それでも、前に進んでいる感覚はあった。


みことさんは、時々俺のノートを見てくれた。


もう、完全に小学生相手の教え方ではない。


普通に叱られる。


「ここ、論理が飛んでる」


「はい」


「怒りで書かない」


「はい」


「結論が先に来すぎ」


「はい」


「返事だけはいいね」


吉田さんとは、図書館でよく会った。


彼女は少しずつ背が伸び、顔立ちも変わっていった。


俺の予想通り、美少女に覚醒した。


彼女は、俺の勉強を邪魔しない。


俺が大毅に暴力を振るわれた翌日には、妙な話を振ってくる。


そして、気づけば少しだけ気分が軽くなる。


あの姉妹は、俺の二度目の人生における光だった。


本当に。


だが、光があるからといって、地獄が消えるわけではない。


中学入学を前にして、大毅が言った。


「中学では野球部に入れ」


当然のような顔だった。


分かっていた。


前世でもそうだったから。


このままでは終わらない。


野球部に入れば、時間を奪われる。


朝練。

放課後。

休日。

大会。

父の自主練。


司法試験の勉強が潰れる。


図書館へ行けなくなる。

みことさんに教わる時間も減る。

俺の計画そのものが崩れる。


それは許せない。


父が怖い。


それは変わらない。


今でも、階段を上がる音だけで身体は萎縮する。


怒鳴り声を聞けば、心臓が跳ねる。


あの手が上がれば、体が反射で縮む。


中身が三十五歳でも、恐怖は消えない。


前世から続いている。


七歳の頃から。

いや、一度目の人生のもっと前から。


この男は、俺の最初の地獄だった。


だから、入学前に決着をつける。


中学に入る前に。


俺は、この因縁を断ち切る。



同日、夜。


いつもの近所の公園。


冬の空気が、やけに冷たい。


大毅は酒を飲んでいた。


機嫌は悪い。


こういう日は、暴力祭りだ。


七歳の頃、一日六百回だった素振りは、今では千回がノルマになっている。


この四年間、俺は徹底して二重生活を貫いた。


表向きは、父・大毅の命じるままに泥臭いトレーニングに励む従順な息子。


その裏では、放課後や長期休みのたび、みことさんから法学を盗み取り続けた。


みことさんは、出会った頃よりもずっと鋭い顔つきになっていた。


「久世くんに負けてられないから」


そう言って笑う彼女は、片親の家計を支え、母を楽にするために弁護士を目指しているらしい。


彼女のその目的に、俺は静かな敬意を払っていた。


だが、俺の日常には、いよいよ決定的な変更が必要な時期が迫っていた。


「そろそろ体作りだけじゃなく、野球の頭も叩き込んでやる。暗くなっても関係ねえ。夜通し座学だぞ」


酒で膨れた腹を揺らし、大毅が笑う。


土木作業の疲れを酒で紛らわす男。


かつての肉体美は崩れ始めている。


対して俺は、公園のブランコを懸垂バーに、鉄棒をフットワークの障害物に見立て、四年間一日も欠かさず自分を削ってきた。


今の俺は、一キロの木製バットを、鋭く振り切ることができる。


夜通しの座学。


それは、俺の司法試験対策の時間を物理的に奪う。


これまでは、暗くなったら終わりという不文律を盾に、夜の時間を確保してきた。


そのルールが崩れれば、計画が崩れる。


俺は大毅の背中を見た。


今の俺の筋力なら。


このバットで膝を狙えば、病院送りにできる。


頭を狙えば、黙らせることもできるかもしれない。


そんな考えが、自然に浮かぶ。


怖いほど自然に。


体が大きくなるにつれ、殴られる回数も増えた。


だが、殴られても幼少期ほど痛くはない。


大毅の拳は、鍛え上げた俺の筋肉と骨格の前では、絶対ではなくなっていた。


暴力の記録も、四年分ある。


隠したノートには、大毅がいつ、どこで、どんな暴言を吐き、どの程度の暴力を振るったかを書き続けている。


細かく。

執念深く。

証拠として使えるように。


だが。


今ここで必要なのは、証拠ではない。


俺自身が、この男に負けていないと証明することだ。


「おい、聞いてんのか恒一! 返事ぐらいしろ!」


大毅の手が、俺の肩を掴む。


かつては恐怖そのものだった大きな手。


今は、無防備に見えた。


やるか。


それとも、まだ交渉の余地を残すか。


迷う俺の指先が、バットのグリップに吸い付く。


冬の公園。


蝉の声はない。


代わりに、冷たい風が耳を切る。


俺と大毅の力の天秤が、音もなく傾こうとしていた。


親権が母親側にいくのが当然だった平成初期。


にもかかわらず、なぜ俺はあんな立派な実家を持つ母親ではなく、このろくでなしの父親に引き取られたのか。


そこには、俺がまだ知らない何かがあったのかもしれない。


この男すら抱えきれなかった何か。


だが、そんな感傷は、頬を打つ硬い拳の衝撃で吹き飛んだ。


「……ッ!」


いつもより重い。


酒のせいで膨れた体格が、そのまま質量となって襲いかかる。


だが、今の俺は、かつての無力な子供ではない。


「……お父さん」


俺は顔を上げた。


「今の、グーだったね。痛いよ」


俺は低く沈む。


人体工学に基づいた最短ルートで拳を突き出した。


狙うは肝臓。


肋骨の隙間を縫い、肝臓に拳を叩き込む。


「が、はっ……!?」


大毅の顔から血の気が失せる。


飲み干したばかりのビールと、未消化のつまみが地面にぶちまけられた。


元プロのスポーツ選手。


だが、今はただの、酒に溺れた三十七歳の男だ。


鍛え上げた小学六年生の拳は、すでに大人を止めるだけの出力を備えていた。


「立ちなよ」


俺は膝をつく大毅を見下ろす。


「これ、親子喧嘩だろ?」


大毅の目が血走る。


「この……ガキがぁ!」


立ち上がりざま、大毅の右アッパーが俺の顎を跳ね上げた。


視界が火花を散らす。


脳が揺れる。


やはり重い。


野球に本気で取り組んでいた名残なのか。

土木仕事で鍛えられた腕なのか。


腕力はすごい。


恐怖はある。


しかし、この四年間。


いや、前世を含めた数十年分の鬱憤が、血管を駆け巡っていた。


テンションが上がってくる。


自分でも分かる。


感情的にならないように自分を押し殺し、無惨に殺された前世の自分が、脳裏を過ぎる。


もう、押し殺すだけでは終わらない。


「さあ、お父さん!」


俺は笑った。


「生まれて初めての親子喧嘩、楽しんでいこう!!」


夜の公園。


街灯の下。


百七十センチの少年と、崩れかけの巨漢が正面から衝突する。


人体に基づいた精密な打撃。


粗削りだが、圧倒的な質量による暴力。


鈍い打撃音。

荒い呼吸。

地面を擦る靴音。


法でも理屈でもない。


拳一つで、父親という巨大な不条理と対峙していた。


それは、俺がこの人生で自分の足で立つために避けては通れない、血の儀式だった。



二十一時。


夜の静寂を切り裂いていた打撃音と荒い呼吸が、ようやく止んだ。


街灯の下。


血まみれの父と子が、泥だらけになって地面に座り込んでいた。


俺の膝蹴りで、大毅の鼻は潰れた。


俺の顔も腫れ上がり、視界の半分が塞がっている。


客観的に見れば、ただの凄惨な家庭内暴力の現場だろう。


いつ通報されて警察が来てもおかしくなかった。


だが、俺の胸の内は、驚くほど澄んでいた。


「……お父さん」


掠れた声で呼びかける。


「こんなものでは足りないけれど、昔よりは、少し気持ちが楽になったよ」


感情を爆発させ、全力でぶつかり、本音を拳に乗せて叩き込んだ。


ふと見ると、大毅が肩を震わせていた。


嗚咽を漏らしている。


かつてのプロ野球選手としてのプライドが折れた音か。


息子に負けたことへの絶望か。


あるいは、俺と同じように、この家族という歪な形に苦しんでいた証なのか。


分からない。


この喧嘩の結果、父は肋骨や指など、合計四ヶ所に骨折やヒビを負った。


三十七歳の大人が、十二歳の小学生に、骨を折られるまで追い詰められたのだ。


とはいえ、俺も酷かった。


全身に打撲。

顔は腫れ、口の中は切れ、左目は半分塞がっている。


身体がとにかく重い。


それから数ヶ月。


家の中に、奇妙な沈黙が訪れた。


大毅は俺を殴らなくなった。


それどころか、俺と目を合わせることすら避けるようになった。


支配関係が崩れた。


あの男は俺の中に、理解できない、制御不能な何かを見て、本能的に距離を置いたのだろう。


しかし、俺は習慣を崩さなかった。


夜。


父の影が消えた庭で、俺は一人バットを振り続けた。


それは父への従順ではない。


自分の肉体を鍛え上げるための、俺自身のルーティンだった。


風を切る音だけが、闇夜に鋭く響く。


拳でぶつかった時間は、確かに和解の第一歩だったのかもしれない。


だが、俺が目指す頂までの道のりに、この男は必要ない。


そして和解に踏み込んでいくほどの余裕も、まだ俺にはなかった。


ふいに訪れた父との沈黙。


その空白の時間が、俺の旧司法試験突破へ向けた、最大の加速期間となる。


俺は、前へ進める。


そう思っていた。


暴力の支配から抜けた俺は、法を学び、積み上げれば届くと信じていた。


人と関わり、努力し、必要なものを一つずつ揃えれば、いつか理不尽に届く。


まだ、そう信じていた。


だが次に起きる事件で、俺はそれを改めることになる。


法律だけでは、間に合わない夜がある。


そのことを、俺はようやく理解することになる。

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ここまで読んでいただきありがとうございます。 この物語は 「正義と暴力の境界」 「人間と異種の曖昧さ」 をテーマに進んでいきます。 少しでも続きが気になれば、 ブックマーク・評価で応援いただけると嬉しいです( ^ω^) #現代バトル #社会問題 #ダークヒーロー #復讐 #高校生主人公
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