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第54話:明るい地獄_幕間①

一九九七年七月・徳島


目を覚ました時、最初に感じたのは畳の匂いだった。


血の匂いではない。

雨に濡れた路地裏の匂いでもない。

死ぬ直前に嗅いだ、あの湿ったコンクリートの匂いでもない。


古い畳。

夏の湿気。

窓の外から聞こえる蝉の声。


俺は、自分の手を見た。


小さい。


白くて、丸くて、頼りない。


だが、血豆だらけの汚い手だった。


「……は?」


喉から出た声も高い。


慌てて腹や背中を触る。


刺されたはずの場所に、傷はない。


立ち上がる。

足が短い。

視線が低い。

机も棚も、記憶よりずっと大きい。


壁のカレンダーに目が止まる。


一九九七年。


「……平成の時代に帰ってきたのか。ラノベやアニメみたいに……」


笑いそうになった。

吐きそうにもなった。


二〇二六年。


俺は、三十五歳で死んだ。


掠奪種デポル


あいつらに奪われた。


好きになった人を守れず、自分も殺された。


なのに、今ここにいる。


小学二年生、七歳の久世恒一として。


鏡を見る。


そこには、まだ何も知らない子供の顔がある。


いや。


臆病で。

鈍臭くて。

人の顔色ばかり見て。


それでも最後の最後に守ろうとして、何も守れずに死んだ情けない男。


その男が、子供の体に入っている。


「……特典は、無さそう」


手を握る。


魔法は出ない。

美しい女神からのガイドもない。

身体は小さい。

知能も上がった感覚はない。


少し期待していた。


異世界転生みたいに、強い力があるとか。

一度見たものを忘れないとか。

身体能力が異常に高いとか。


そういうものは、何もない。


「……あれば嬉しかったけど」


しかし、前世の記憶があるだけでも、″強くてニューゲーム″だ。


思わず笑った。


笑えた自分に驚いた。


俺はまだ、完全には壊れていなかったのかもしれない。


まずは机に向かう。


ジャポニカ学習帳を開いた。


鉛筆を握る。


指が短い。


文字を書くだけで、少しもどかしい。


それでも書く。


掠奪種デポルを根絶する。


次に書く。


旧司法試験。


さらに書く。


金。

人脈。

政治。

法改正。


あまりに抽象的だった。

中学生が思いつくような、安直な考えだ。


文字は汚い。


前世でも汚かったが、子供の手ではさらにひどい。


それでも書く。


書けば、少しだけ現実に近づく気がした。


いや、逃避かもしれない。


俺は天才ではない。


前世では、ITセールスをしていた。


システムやホームページ、業務改善の提案をして、客先を回る仕事だ。


かっこよく言えば、顧客の課題を解決する仕事。


現実は、もっと泥臭い。


客は好き勝手言う。


安くしたい。

早く作りたい。

でも品質は落としたくない。

今の業務は変えたくない。

売上は伸ばしたい。

画面は簡単にしたい。

でも機能は全部欲しい。etc...


そんな魔法みたいなご都合主義システムがあるか。


どうしようもない矛盾だらけの要望が飛んでくる。


それを聞いて、整理して、何が本当に必要なのかをまとめる。


それが要件定義だ。


俺はそれが得意だったわけではない。


ただ、やらなければ詰められるから、必死にやっていただけだ。


だから、今回も同じことをする。


自分の人生を要件定義する。


最終目的。

デポル根絶。


必要な要素。

法。

金。

腕力。

人脈。

情報。

地位。


制約条件。

子供。

金なし。

力なし。

家庭環境は最悪。

父親が邪魔。


一つずつ分解する。

一つずつ潰す。


世界を変える前に、まずはこの家で生き延びる。


その時、階段を上がってくる重い足音が聞こえた。


父、久世大毅。


俺が最初に、人生は地獄だと教わった相手。


ドアが乱暴に開く。


酒と煙草の匂いが流れ込む。


「恒一。何ぼうっとしてやがる」


身体が強張った。


中身が三十五歳でも、身体は覚えている。


殴られる前の空気。

怒鳴られる直前の沈黙。

逃げ場のない部屋。


大毅の手が、俺の頭を叩いた。


視界が揺れる。


痛い。


普通に痛い。


けれど、前とは違う。


痛みの中で、俺は考えていた。


この男は、システムだ。


バグだらけの、古いシステム。


プロ野球選手を一年で首になった男。

暴力の権化。


酒。

野球への未練。

支配欲。

息子を自分のやり直し用アバターだと思っている認識。


まとめるとーー

過去の栄光にすがるゴミクズ。


だから、要件定義をしよう。


この男は何を求めているのか。


答えは単純だ。


自分を認めてほしい。

自分の言うことを聞かせたい。

自分が父親として、指導者として、上に立っていると思いたい。


なら、そこを満たせばいい。


「お、お父さん」


俺は顔を上げた。


「練習メニューを考えてた」


大毅の眉が動く。


「練習メニューだと?」


「うん。うまくなりたいから」


野球がうまくなりたいわけではない。


身体を作りたい。


この小さい身体では、何も守れない。


大毅は鼻で笑ったついでに、俺を殴った。


これは機嫌がいい時のゲンコツだ。


機嫌が悪い時との違いは、脳が揺れないこと。


「お前みたいな鈍臭い奴が考えて何になる。俺の言う通りにやってりゃいいんだよ」


野球に対して、前向きな発言をしたからか。


大毅は満足したように鼻を鳴らした。


それから、俺は庭へ引きずり出された。


渡されたのは、子供には重すぎる木製バット。


手のひらが痛む。

肩が悲鳴を上げる。

腰が落ちる。


それでも振った。


右打席と左打席。

三百回ずつのスイング。


「なんだ。今日は泣かねえのか」


大毅が言った。


「泣いても、うまくならないので」


つい、敬語になった。


前世の癖だ。


大毅は少し変な顔をしたが、すぐに気を良くした。


「分かってんじゃねえか」


この日から、俺は大毅の暴力を利用することにした。


身体はこいつに作らせる。

知識は、隙間時間に積む。


人生で初めて、目的意識を持った瞬間だった。


それが、二度目の人生の始まりだ。



学校は、思ったより安全だった。


少なくとも、父はいない。


それだけで価値がある。


小学二年生の授業は退屈だった。


掛け算。

漢字。

音読。


周囲の子供たちは、それを世界のすべてのように受け止めている。


俺も一度目はそうだったのだろう。


今は違う。


先生を見ているふりをして、ノートの端に計画を書く。


旧司法試験。

刑法。

民法。

憲法。

商法。

訴訟法。


何から手をつければいいのか、正直分からない。


分からないが、分からないままでは進めない。


前世の仕事でもそうだった。


客が「何となく困っている」と言う。


その何となくを分解する。


売上が悪いのか。

問い合わせが来ないのか。

そもそも誰もホームページを見ていないのか。

見ているのに問い合わせ導線が壊れているのか。


困っている、という一言には、いくつもの要素が混ざっている。


なら、司法試験も同じだ。


難しい、という一言で終わらせない。


何が難しいのか。

知識量か。

論文か。

読解か。

記憶か。

時間か。

教材か。


一つずつ分ける。


一つずつ潰す。


この考え方だけは、前世から持ってきてよかったと思う。


放課後、俺は図書館に通い始めた。


図書館なら冷房がある。

法律の本もある。


十八時には帰らないと、お得意の暴力が飛んでくる。


それだけ気をつければいい。


完璧ではないが、悪くない逃げ場だ。


小学生の足で走るには遠かったが、走れば体力もつく。


一石二鳥。


そう言い聞かせて、毎日走った。


図書館の社会科学の棚には、分厚い六法全書があった。


初めて手に取った時、重すぎて少し落としかけた。


「……これ、読むのか」


泣きそうになった。


魔法もない。

チートもない。

集中力もない。


だが、泣き言ばかり並べても仕方がない。


力がないなら、時間と執念で殴るしかない。


机に六法全書を置き、ジャポニカ学習帳を開いた。


周りでは、子供たちが絵本を読んで笑っている。


正直、うるさい。


でも、それは俺の集中力が足りないだけだ。


一つずつ。


焦るな。


いや、焦れ。


そんな意味不明なことを自分に言い聞かせながら、鉛筆を走らせた。


刑法。


暴行。

傷害。

脅迫。

強制わいせつ。

強姦。


文字を追うたびに、胸の奥が熱くなる。


法律は、誰かを守るためにある。


そう信じたい。


だが、俺の記憶にある未来では、法律に意味はなかった。


守るべき人が奪われた。


加害者は笑う。


社会は鈍かった。


だから、俺は法律を知る。


知った上で、変える。


今はまだ、小学生の汚い字で条文を書き写すことしかできない。


それでも、書く。


一行ずつ。



図書館に入り浸り始めてから、夏休みに入った。


吉田さおりと最初にまともに話したのは、図書館だった。


同じクラスの女子。


前世では、ほとんど話した記憶がない。


黒髪の、静かな子だった。


俺が六法全書を開いていると、背中から声をかけられた。


「久世くん。何してるの?」


振り返ると、吉田さんが立っていた。


彼女の手には、児童書が数冊ある。


「自主的な宿題だね」


「変なの」


吉田さんは少し笑った。


それだけの会話だった。


けれど、その笑顔は妙に記憶に残った。


子供の声。

普通の会話。

普通の図書館。


二〇二六年の夜から戻ってきた俺には、普通のものほど眩しかった。


その日から、吉田さんは時々俺に声をかけるようになった。


「また難しい本読んでる」


前世でも、女子に話しかけられることは稀だった。


だから最初は嬉しかったがーー


そろそろ集中したい。


そう思い始めた頃。


吉田さんは姉を連れてきた。


吉田みこと。


大学生。

法学部。


黒髪を後ろで束ねた、清潔感のある人だった。


最初に見た時、俺は少し固まった。


綺麗な人だったからだ。


「あなたが久世くん?」


「はい」


「さおりから聞いたよ。図書館でずっと法律の本を読んでる変な子がいるって」


「紹介の悪意がすごいですね」


吉田さんが横で笑う。


みことさんは俺のノートを覗き込んだ。


その表情が変わる。


それはそうだ。


小学生のノートにあるべき文字ではない。


強姦罪。

暴行、脅迫。

保護法益。

量刑。

現行法の不備。


みことさんは少し黙った。


「これ、君が一人でやってるの?」


「はい。おかしなところがあれば教えてください」


「おかしなところというか、全部おかしいんだけど」


「全部ですか……」


独学なりにやれている方だと思い込んでいた。


やはり、そうではなかったらしい。


「小学生がこれを書いてる状況が、まずおかしい」


そっちかい。


そういうのは、もういいんだ。


勉強の仕方。

法律の考え方。

何がどうおかしいのか。


それを教えてほしい。


俺には余裕がない。


異常だと思われることより、何も知らないまま奪われることの方が怖い。


みことさんは、しばらくノートを見た後、隣に座った。


「ここ、少し違うかも」


それが始まりだった。


みことさんは、俺に法学の考え方を教えてくれた。


条文の読み方。

判例の見方。

文言だけでなく、何を守ろうとしているのかを見ること。

自分の怒りと、法律の解釈を分けること。


「保護法益から考えるの。何を守るための条文なのか。あっ、保護法益っていうのはーー」


「なるほど。文言だけじゃなくて、目的から逆算するんですね」


「そう。飲み込み早いね」


褒められた。


三十五歳にもなって、小学生の姿で女子大生に褒められている。


情けない、とは思わない。


年上や年下。


そんなもの関係ない。


できる人には頭を下げて頼む。


それだけだ。


「お姉さん。もっと教えてください。隅々まで。何度でも」


「……えっ、ええ。まあ、時間のある時はね」


みことさんも、俺に説明することで自分の理解が深まるらしい。


俺たちは、奇妙な勉強仲間になった。


吉田さんは少し離れたところで宿題をしていた。


時々こちらを見る。


俺とみことさんが難しい話をしていると、つまらなそうに頬を膨らませていた。


彼女はきっと、美少女に覚醒するだろう。


そう思った直後、自分で少し引いた。


中身三十五歳の男が、小学生相手に何を考えているのか。


最低限の倫理は守れ。


けれど、姉妹揃って美しいのは事実だった。


二度目の人生にも、こういう時間があるのかと思った。


父に殴られる。

庭でバットを振らされる。

学校で条文を書く。

図書館でみことさんに教わる。

吉田さんと少し話す。


前世では、地獄の幼少期のはずだった。


しかし、やり直しの今世では、少しだけ明るかった。


本当に、少しだけ。



小学生の俺は、残念ながら順調ではなかった。


何度も父に殴られた。


油断して、法律の勉強をしていることがバレかけた。


そんなことをする暇があるならバットを振れと、鉄拳のおまけ付きで時間を奪われるところだった。


その時は、人体の本を見せて誤魔化した。


身体の構造を勉強している。


野球に活かしたい。


ついでに、夏休みの読書感想文だと。


なんとか逃げ切った。


生きた心地はしなかった。


「お父さんに認められるために、体を強くする方法を調べていました」


吐き気がするほど気持ち悪いセリフだった。


だが、弱めのゲンコツで済んだ。


といっても、右目の上は青痣となっているが。


大毅は、俺にバットを振らせた。

走らせた。

公園の遊具を使って筋トレをさせた。


決まった回数を、決まったフォームで、決まった時間内にできなければゲンコツ。


児童虐待を、本人だけが英才教育だと思い込んでいる。


日に百回は殴られている。


それを毎日メモし続けた。


何月何日に何を言われ、何をされたか。


細かく。

細かく。


それでも、身体は作られた。


父の暴力は嫌いだった。


けれど、得られるものは得る。


俺はそう決めて、食いしばって耐えた。


図書館では、みことさんの指導で少しずつ法学の形を覚えていった。


最初は条文の意味を追うだけで精一杯だった。


やがて、事案を読むようになった。


誰が。

何を。

どのように。

なぜ。


それを分解する。


そういう曖昧な話から、原因を拾う。


事案も同じだ。


怒りや感情の前に、事実を拾う。


誰が何をしたのか。

どこから違法になるのか。

何を立証しなければならないのか。


一つずつ。


そうやって考える癖がついた。


それは、俺にとって大きかった。


焦りは消えない。


十五歳で司法試験を突破する。


法を武器にして、正攻法で国を変える。


そんなもの、普通なら正気ではない。


だが、俺は普通に生きるために戻ったのではない。


奪われないために戻った。


奪わせないために戻った。


なら、やるしかない。


そして、次の日。


ある事件が起きる。


家では暴力。

隙間時間には法律の勉強。


俺の二度目の小学生生活は、地獄のくせに忙しかった。


その忙しい毎日に、絶対に許せない出来事が起きる。


吉田さおり頬擦り事件。


今思えば、くだらない。


だが当時の俺にとっては、世界の秩序を揺るがす大事件だった。

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ここまで読んでいただきありがとうございます。 この物語は 「正義と暴力の境界」 「人間と異種の曖昧さ」 をテーマに進んでいきます。 少しでも続きが気になれば、 ブックマーク・評価で応援いただけると嬉しいです( ^ω^) #現代バトル #社会問題 #ダークヒーロー #復讐 #高校生主人公
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