第53話:黒い簒奪者_黒の祝福編⑤
ーー徳島・病院
徳島に来て、六日目。
山上は大阪へ行く準備を進めている。
あさみも、ジムを一時休止する方向で動き始めた。
表の収穫は十分だ。
営業。
法人向け護身研修などなど。
大阪へ戻れば、やることは増える。
悪くない。
さあーー
この件を終わらせよう。
受付で名前を告げる。
もう看護師も私に慣れたのか、余計な説明はなかった。
「今日は、少し落ち着いています」
「そうですか」
「ただ、長時間は難しいと思います」
「分かりました」
面会室の扉が開く。
母は椅子に座っている。
最初に会った日より、目の焦点は合っている。
母は私を見る。
「めぐみ」
はっきり呼んだ。
それだけで、前よりは進んでいる。
私は向かいに座る。
母はノートを抱きしめていた。
それでも、今日は少し違った。
守るように抱えているのではなく、渡すかどうかを迷っている手だった。
「昨日、考えたの」
母が言った。
「あなたには、知らないといけないことがある」
「そうだね」
「私が、隠していたこと」
「クラウスが、残してくれたこと」
母の指が、ノートの表紙を撫でる。
擦り切れた茶色の表紙。
端には、薄くアルファベットが残っていた。
Klaus Kato.
加藤クラウス。
父の名前。
ドイツで生まれ、日本で生きると決め、帰化して加藤姓を名乗った男。
母は、震える手でノートを差し出した。
「読んで」
私は受け取る。
母が何年も手放せなかったものだ。
重いのは、紙ではない。
中身だ。
ページを開く。
字は丁寧だった。
日本語と、ところどころにドイツ語が混じっている。
父の字。
私は父の字を、ほとんど覚えていない。
でも、不思議とすぐに分かった。
そこに書かれていたのは、父の日記だった。
母と出会った日のこと。
母が自分をデポルだと告白したこと。
奪う衝動があること。
誰かを傷つけることが怖いこと。
人間のふりをしている自分が嫌いなこと。
でも、人間として生きたいと願っていること。
父は、それを聞いていた。
そこに、短く書かれている。
「英子は、自分を怪物だと言った」
次の行。
「けれど、怪物は自分の行いを怖がらない」
私は、そこで少し手を止めた。
さらに読み進める。
父は、母を救いたかったわけではないらしい。
正確には、救うという言葉を嫌っていた。
母を哀れんだのではない。
正しい道へ導こうとしたのでもない。
自分が善人になりたかったわけでもない。
ただ、母が必死に抗っている姿を見ていた。
奪ることを嫌い。
傷つけることを恐れ。
それでも生きたいと願っている。
その姿を、美しいと思った。
父は、そう書いていた。
溜め息が出た。
もちろん、ガッカリの方の。
母がポツリと話し始めた。
許可を出した覚えはないが。
「私は、あの人がいたから人でいられた」
どこか懐かしむような顔をして呟く母。
「事情は分かったよ」
私は続ける。
「お父さん、すごいね。ラブストーリーだね」
母の目から涙が落ちる。
「あとさっきから言ってるお母さんが殺したってやつ。違うよ。私たちとは違う別のデポルが殺したんだよ。私は直接聞いたから」
母の唇が震える。
「だから、これ以上自分を責めなくてもいいんじゃない?」
母は泣き出す。
看護師は笑顔で近づき、母の背中をさすっている。
…?
赤の他人から見ると、親子愛の物語にでも聞こえるのかな。
「私もスッキリしたし、よかったよ。わざわざここまできてよかった」
「めぐみ…これからーー」
母の言葉を遮る。
「父と母は大恋愛をして晴れて結婚」
「娘にダンマリしてる間に、デポルに殺された哀れな父」
「何故かそれを娘のせいにする母親」
「被害者ヅラからの勝手な解放」
母の顔が凍った。
私はノートを机に置いた。
「よかったよかった。全部が繋がった」
母は、何も言わない。
いや、言えない。
私に気圧されているのが伝わる。
私は今どんな顔をしているのだろう。
私は母を見る。
「千二百回」
声は、思ったより静かだった。
「な、何その数字」
「″あなた″がたった一年間で、私を暴行した回数」
母は目を見開く。
「毎日数えてノートに書いてたんだ。忘れないように。きちんと返せるように」
母が狂ったように叫び出す。
「殴って、ごめんなさい。怒鳴って、ごめんなさい。刃物で傷つけて、ごめんなさい。あなたを怖がらせて、ごめんなさい」
母は何度も謝る。
頭を下げて、涙を流して、喉を震わせていた。
看護師は部屋の隅へ移動し固まっている。
私は、その謝罪を最後まで聞いた。
別に許すためではない。
聞く必要があったから聞いた。
母が、自分の口で言うところを見たかった。
自分が何をしたのか。
誰に何をしたのか。
それを分かった上で謝るところを。
父のノートには続きがあり、綺麗事が書かれている。
「めぐみにはいずれ伝えなければならない」
「それでも、人として生きる道があること」
「隠すことは守ることではない」
「デポルであっても生きていいということ」
私はその行を、少し長く見ていた。
父は、話すつもりだった。
くだらない。
前に、恒一の記憶を覗いた。
それだけでは、恒一の全ての怒りは理解できなかった。
今なら分かる。
理不尽に。
唐突に。
奪っていくのがデポル。
デポルに綺麗事は通じない。
″例外″はない。
デポルはーー根絶すべきだ。
私はノートを閉じた。
父の考えは分かった。
母の事情も分かった。
私の血のことも、もちろん分かった。
「お母さん」
母は、怯えたように私を見る。
「同情はするよ」
母の目が揺れる。
「次に会う時は、きっとここから出た時だね」
「……え?」
「ちゃんと元気になって」
私は笑った。
「その時は、全部ちゃんと返すから」
母の表情が止まる。
看護師も動きを止めた。
私は指を折る。
「刃物もあった」
もう一本。
「怒鳴られた」
もう一本。
「殴られ続けた」
もう一本。
「あっ、地味にリモコンは痛かったなあ」
母の顔から血の気が引いていく。
「もう一度言うね。千二百回」
私は言った。
「全部、覚えてる」
母は一気に老け込んだ。
顔中から汗が吹き出している。
「だから、早く体調良くなってね」
私は席を立つ。
「お母さん」
母は私を見る。
「元気になったら、全部、ぜーんぶ返すからね」
看護師が青い顔をしている。
母は口をパクパクさせている。
餌待ちの金魚かな。
「じゃ、また。あっ」
部屋を出る前に伝えなければ。
「勝手に死なないでね」
そう言って、私は面会室を出た。
扉が閉まる瞬間まで母から目を離さなかった。
・
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ーー徳島・駐車場
山上の車は、思ったより普通だった。
もっと派手な車に乗っているかと思ったが、実用的な国産車だった。
「荷物、これで全部?」
山上が聞く。
「私のはね」
「水口さんは?」
「さあ」
「本当に一緒に大阪行くんだ」
「行くよ」
「加藤さんの勧誘、怖いね。人さらいじゃん」
山上は小さく笑った。
少し離れた場所から、あさみが大きなバッグを抱えて走ってきた。
「待って! 待ってください! これ以上は無理です!」
「何が?」
「荷物! ジムのことも家のことも、何も終わってないのに!」
「最低限でいいじゃん。あとは引越し業者で」
あさみは半泣きで車に荷物を積む。
この人は、やはり表向きに置くと明るい。
とりあえず身体だけ連れて行って、営業事務もやらそう。
あさみの事業は、すぐには金にならない。
山上は使える。
有能なにおいがぷんぷんする。
ゆくゆくは二人を会社のメインに据えよう。
「ぎゃぁぁぁ!!!パンツ忘れた!」
ーーいや、あさみはやめよう。
車が動き出す。
徳島の街が後ろへ流れていく。
山上を拾った。
あさみも拾った。
ほんの少し、恒一の過去も知れた。
両親のこともーー知れた。
この徳島出張は、私にとっても会社にとっても大きな意味を持った。
助手席では、あさみが竹ちくわの袋を抱えている。
「徳島のお土産って、竹ちくわ当たり前なの?」
「えっ、普通でしょ?」
「しかもちくわ。竹に刺さってるんじゃなくて、ちくわに竹が刺さってるじゃん…まあどっちでもいいか」
みずきはこれが好きなのか。
一本食べてみよう。
「何これ、うま。クセになる」
「なに?くぜ?」
「黙れ、パンツちくわ女!」
「ぎぇぇぇぇぇ!!!」
あさみ…
本当に疲れる。
あさみは騒いでいる。
山上は運転しながら、時々バックミラーで私を見る。
二人とも、まだ何も知らない。
それでいい。
表の仕事をする人間に、裏の血を見せる必要はない。
私は後部座席で、父のノートの内容を思い返していた。
母はデポルだった。
だから、私にも混ざっている。
これはもう疑いではなく、事実になった。
しかし肌がドス黒くなった記憶はない。
母も一部だけだった。
どういう仕組みかはわからない。
そしてーー
恒一は、たぶん気づいている。
それでも私を隣に置いている。
理由は簡単。
恒一は、私に惚れている。
はず。
毎日そう仕向けてきた。
今もそうしている。
私がいなければ困るようにもしてきた。
「私はデポルだけど、殺す?」
そんなカードは、今切るにはもったいない。
恒一が私を見なければいけない時に。
逃げられない時に。
その時まで、持っておく。
でも。
ほんの少しだけ、別の考えも浮かぶ。
もし、言って嫌われたらどうするのか。
もし、恒一が私を見る目を変えたら。
もし、恒一が私から離れたら。
そこまで考えて、私は少しだけ眉を寄せた。
馬鹿らしい。
そんなこと、ありえない。
ありえない。
恒一の野望は私が叶えさせる。
その方が面白い。
私が満足する。
きっと、それだけだ。
山上。
あさみ。
竹ちくわ。
父のノート。
母の血。
私の血。
収穫は多い。
私は大阪へ帰る。
恒一の隣へ。
命を救ってもらったあの人に殺されるなら、それは本望…か。
気づけば、恒一のことばかり考えている。
イライラする。
母のせいか。
父のせいか。
車は徳島を抜け、大阪へ向かう。
手に取る黒いシュシュ。
まるで黒薔薇のよう。
黒い薔薇を抱えたまま、私は少しだけ笑った。




