第52話:黒の徒花_黒の祝福編④
ーー徳島・キックボクシングジム
翌日。
私は、もう一度そのジムの前に立っていた。
昨日見た時点で、だいたい分かっている。
設備は悪くない。
むしろ、ちゃんとしている。
リング。
サンドバッグ。
ミット。
掃除された床。
指導者のビジュアル。
どれも悪くない。
それなのに、人がいない。
私は扉を開けた。
中は、今日も静かだった。
奥から、水口あさみが出てくる。
昨日と同じように、明るい顔を作っている。
ただ、目が少しだけ警戒していた。
「本当に来たんですね」
「キックボクシングを体験しにきたんですよ」
あさみは、私の服装を見た。
今日は動ける格好にしている。
黒のトップス。
黒のレギンス。
軽い上着。
「じゃあ、まずは基本からいきましょう」
その瞬間、あさみの空気が変わった。
焦った営業顔が消える。
姿勢が伸びる。
目が鋭くなる。
声が通る。
この人は、教える時はちゃんとしている。
構え。
足の位置。
重心。
手の高さ。
顎の引き方。
説明は分かりやすかった。
「パンチは腕だけで打たない」
足、腰、肩が繋がって、最後に拳が出る。
「キックも同じ」
足だけで蹴るのではなく、体を回して当てる。
実演は速かった。
あさみがサンドバッグを蹴る。
蹴りの重さが分かる。
見た目より、ずっと重い。
なるほど。
恒一がここに通った理由は分かる。
あの人は、怖がりで、鈍臭くて、センスがなかったらしい。
それでも、ここで何度も殴り、蹴り、倒され、また立った。
想像すると、少し面白い。
「どうです?」
あさみが得意げに聞いてきた。
「教えるのは上手いですね」
「…教えるのは?」
「単刀直入にいいます!経営がド下手です」
あさみの笑顔が固まった。
あさみはミットを置いた。
昨日から我慢していたものが、少し漏れた顔だった。
強がっている。
大人ぶっている。
先生としての顔を保とうとしている。
でも、かなり効いている。
「じゃあ、何がどう駄目なんですか」
「全部です」
「全部!?」
「全部を売ろうとしているところです」
「……」
「恐らくあなたは器用で何でもできるのだと思います」
あさみの眉が動く。
「それが故にターゲットを絞れていない」
「そんなこと言ったって!」
あさみの声が大きくなった。
「ホームページもない」
「…昔はありました」
「今は?」
「…更新できなくて消えました」
「駄目ですね」
「言い方!」
「張り紙も弱いです。駅前の人が、このジムに来る理由になっていない」
「うっ……」
正論を重ねると、あさみの顔がどんどん崩れていった。
最初は先生として余裕を保っていた。
次に、少し怒った。
その後、言い返そうとした。
でも、言い返す材料がなかった。
そして最後には、情けない顔になった。
「私だって、頑張ってるんですよ!」
急に叫んだ。
「掃除もしてるし、体験の人にも丁寧に教えてるし、チラシも作ったし、張り紙もしたし、駅前にも置いてもらったし!」
一気に喋った。
溜まっていたらしい。
「でも人が来ないんです! 来ても続かないんです! 広告とかホームページとか、よく分からないし! お金もないし! でも家賃は来るし!」
あさみは途中で自分の声の大きさに気づいたのか、少しだけ俯いた。
「……すみません」
謝った。
小心者だ。
でも、悪くない。
必死にやっている。
ただ、やり方が下手なだけ。
素材はいい。
さてーー本音も出たところで。
仕掛けよう。
「融資しましょうか?」
私は言った。
あさみが顔を上げる。
「……え、何で急に」
「融資がいるか、いらないか聞いています。一千万」
あさみは驚愕している。
「一千万あれば、広告にもっとお金がかけられる。何ヶ月分まで家賃の心配しなくていいのだろう…」
聞いて呆れる。
自分で課題が明確にできていないのに、いくらお金があってもいい方向には進まない。
しかしこれでいい。
「もちろん条件はありますよ」
「ど、どんな条件ですか?」
恐る恐る聞いてくる。
「今から試合をしましょう、あさみさんが勝てば一千万振り込みますよ。私が勝ったらーー」
「あなたが勝ったら?」
「黙って大阪に来い」
笑顔で言い放つ。
あさみの顔色が変わった。
「…私、舐められてます?これでも、プロでも戦ってきてそれなりに実績はあるんですよ」
「で、あれば断る理由はないですね。素人一人捻れないようでは拍子抜けもいいところですから」
先程から表情豊かに変化する整った顔立ちは、アスリートのそれに変貌している。
「私なりに必死にやってきたことを二度も馬鹿にされた」
「…二度?」
「ええ」
あさみはリングを見る。
大きく深呼吸し、集中力を高めている。
(なるほど。これは本物だ)
私は別に戦いが好きなわけではない。
しかし恒一がこれから進む道の隣を歩くなら、もっと場数を踏み鍛えなければならない。
あさみは、いい練習台になる。
「グローブをつけてください、ヘッドギアも」
「ヘッドギアは着けますよ。あなたが本気を出せないといけないから」
あさみは冷静そのもの。
もう挑発には乗らない。
「私は合気道をやっています。一本取れれば私の勝ち」
グローブをはめながらあさみが話す。
「じゃあ私は、憎たらしいあなたをKOすれば勝ちでいいんだよね」
「その通りです。私がKOされ、目を覚ました瞬間に一千万を振り込む指示を出しますよ」
・
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あさみはリングに上がる。
私も続く。
初めてリングに上がった。
狭いような、広いような。
あさみは冷静にこちらを分析している。
「行きますよ」
あさみから前に出てくる。
「どうぞ」
いい終わりと同時に左拳が飛んでくる。
速い。
しかしーー
半歩ずれる。
次にローキック。
足を引く。
動きは綺麗だ。
鋭い打撃。
だが避けられる。
今の恒一の方が、殺気、一撃の重み、背負っているモノ。
私はそれを間近で見てきた。
次の踏み込み。
私は腕を取った。
相手の力を止めない。
流す。
身体を入れ替える。
あさみの重心が崩れる。
床へ落とす。
押さえ込む。
一瞬だった。
あさみはリングの上で固まった。
「……え?」
「一本ですね」
呆然としたあさみが起き上がる。
顔が赤い。
怒っている。
恥ずかしがっている。
焦っている。
全部、顔に出ている。
「もう一回です!」
「いいですよ。でも次私が二本目を取ったら、あなたから拒否権を奪いますよ?」
「きょ、拒否権を?」
「はい。私の操り人形になってもらいます」
「くっ。いや負けない!」
二回目。
今度は警戒し、距離を取る。
蹴りで止める。
不用意に腕を出さない。
切り替えは速い。
これが対応力か。
(では、私も奥の手を)
ポケットからシュシュを取り出し投げつける。
あさみが焦る。
「な、なにそれーー」
思わず伸ばした右手を取り、床に制圧する。
二本目。
「今のは卑怯だ!」
「異種格闘技じゃないですか。初めから」
あさみは唇を噛み、悔しがっている。
「久世恒一は」
「…?」
「どんな卑怯な相手にも屈せず、より卑怯に、何度も諦めず戦い続けています」
「…」
あさみは怪訝な表情をしている。
それはそうだ。
彼女は卑怯な戦い方は教えていないと思っているのだろう。
「多数の敵にも、どんな手段を使われても、ボロボロになっても諦めず戦っています」
「…大阪で仕事をするってそういうことなの?」
…私の伝え方が悪かった。
少しずれている。
だが、間違ってもいない。
「そうです。だから私は彼の力になりたい。あなたにもなってほしい。もちろんタダでとは言わない」
「…その代わりにあなたが経営を教えてくれるとでも?」
「理解が早くて助かります」
あさみは黙った。
自分のジムだ。
思い入れがあるのだろう。
でも、このまま続けても沈む。
それも本人は分かっている。
自分の場所。
自分の仕事。
自分が必死に守ってきたもの。
あさみはリングの床を見ながら口を開く。
「でもここのジムはどうすれば…借金もあるし」
「いくらですか?」
「……その。色々あって千五百万円」
「…もしかして、このビルごと?」
「…そう」
あさみが顔を伏せる。
(…なるほど。こりゃだめだ)
「まあ、いいですよ。私の会社で肩代わりしますよ」
「千五百万を!?」
パッチリとした綺麗な目がより、見開かれる。
「はい。その代わり、肩代わりですから、返済できるまで働いてもらいます」
「…もしかして大阪の有名な風俗に…」
こいつは、今まで何を聞いていたのか。
急に面倒くさくなってきた。
「もううるさい!二本目取られた時点で拒否権も人権もないから、大阪に行く準備して」
「拒否権がなくなるのは聞いたけど、人権もないって酷い!人でなし!ガンジーにキレられろ!」
「いやあいつ。身内の女に手を出しまくった奴じゃん…」
思わず少し笑った。
この人はいい。
軽い。
感情が出る。
でも、芯はある。
表の仲間として、ちょうどいい。
「大阪で、半年から一年。企業向け護身研修、女性向けフィットネス、個人レッスン。色々試しながらやるから。もうそれでいいでしょ」
「連れて行くって言ったのはそっちなのに、何でそんなに投げやりなのか。責任取れ!」
本当にうるさい。
まずは、千五百万円の内訳の確認だな。
場合によっては、恒一かひとみに出張らせて正規の金額に近づけさせよう。
この金額は高過ぎる。
そしてぼったくられたことすらわかっていないこのキックボクシングバカ。
しかし、性格は悪くない。
彼女はきっと、恐らく、多分。
再び恒一の役に立つ。
「で、いつから大阪へ?」
「明日明後日には行きますよ」
「いやいやいやいや、間に合わないって」
「契約周りは私側で対応する。荷物の整理は男手があるから使って」
あさみはかなり戸惑っている。
しかしまともに取り合っていては埒があかない。
すぐ電話を入れる。
「はい、山上」
「暇でしょ?今から言う住所にきて」
「…えっ!?今から?」
「徳島市〇〇町◯丁目。あさみキックボクシングジム。じゃ。お願いね」
電話を切った。
彼なら問題なく対処するだろう。
「山上って誰」
「…元ホストかな」
「やっぱり私を飛◯新地に売り飛ばして借金返済させる気だー!」
「なんでちゃっかり高級風俗街に飛ばされる前提なんだよ…」
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ジムを出る頃には、雨は弱くなっていた。
到着した山上との顔合わせを済ませる。
山上の顔が、思いのほかタイプだったのか。
あさみは満更でもない様子で、ジムの片付けに入っていった。
山上にあさみを託し、私は病院へ向かう。
そろそろだ。
こちらもそろそろ決着をつけたい。
母がデポルなのはわかった。
父はそれでも愛した。
イコール私もデポルということ。
私の今の気がかり。
なぜ私に話さなかったのか。
成人してからの予定だったのか。
隠し通すつもりだったのか。
それがノートに書いてあるのか。
今日全てはっきりさせたい。
もどかしい気持ちを抑え、しっかりと一歩を踏み出す。




