第49話:黒い祝福_黒の祝福編①
ーー大阪・久世事務所
大阪での戦いは終わった。
少なくとも、表向きは。
二階堂傑は大阪から姿を消した。
井口おさむが、大阪市政に入り込んだ。
恒一は、司法修習免除への道を得た。
ひとみは、法曹協会の要職に就いた。
みずきと私は、恒一の会社の取締役となった。
全部、進んでいる。
会社も大きくなる。
恒一は、もっと上へ行ける。
私は、そのために表の仕事を回す。
悪くない。
むしろ、面白くなってきた。
ただ、一つだけ確認しておきたいことがあった。
母のこと。
加藤英子。
旧姓、間口英子。
恒一が井口に会いに行った夜。
盗聴器越しに、必要なところは聞いた。
井口おさむの底知れない計画力。
根回し。
それを可能にする人脈。
そして、母の名前。
戸籍を乗っ取っている可能性がある。
井口はそう言った。
恒一は、それを聞いた。
でも、あれから何も言ってこない。
それでいい。
恒一が言わないなら、私が先に確かめる。
母が何者なのか。
私が何者なのか。
知らないままでも、私は恒一の隣にいると思う。
でも、知っておいた方がいい。
自分の血も。
自分の手札も。
私はノートパソコンを閉じた。
「どこ行くの?」
みずきが顔を上げる。
「徳島」
みずきの手が止まった。
「……なんで?」
「色々、清算したいものがある」
「私も行くよ」
「駄目だよ」
「なんで」
「お互い経営者なんだから。片方は残って業務しないと」
みずきは、いつもより強い目をしていた。
「久世くんには?」
「言わない」
「いいの?」
「いいよ。恒一も全部を私たちに話してるわけじゃないし」
みずきは困ったように眉を寄せた。
「でも、どこか行く時くらいは言ってるような……」
「まあまあ」
戸惑うみずきをよそに、私はもう徳島での予定を組み始めている。
恒一に言えば、面倒な顔をする。
止めはしないだろう。
でも、余計な言葉が増える。
だから言わない。
私は、私の判断で行く。
恒一は、大きなことを言う。
デポルを根絶するとか。
総理大臣になるとか。
でも、近くの人間のことになると急に鈍くなる。
臆病で。
不器用で。
自分の気持ちにも気づかない。
合理的なふり。
冷酷なふり。
怖くないふり。
でも本当は、いつも怖がっている。
血を見るのも。
殺すのも。
誰かに失望されるのも。
誰かを守れないことも。
全部、怖いはずだ。
それでも前に出る。
震えながら。
虚勢を張りながら。
足を止めたら奪われると知っているから。
そこが、可愛い。
あの人がどこまで行くのか見たい。
その道を、私が整えたい。
恒一が成し遂げた時、それは私がいたからだと思わせたい。
その時、私がこの世から消えていたとしても。
きっとこれは、恋ではない。
恋なんて、もっと柔らかくて、役に立たなくて、幸せそうで、明るいものだと思う。
私のこれは違う。
もっと黒い。
考え込んでいると、みずきが口を開いた。
「じゃあ、お土産買ってきて」
「何がいい?」
「竹ちくわ」
「何それ。知らない」
「なんでだよ。美味しいよ。ちくわに竹が刺さってるんだよ?」
みずきは、なんだかんだしっかりしてきた。
と思う。
大阪には、恒一もひとみもいる。
例の事件もあったから、危機感も持っている。
任せても大丈夫だろう。
「みずき」
「うん」
「会社をよろしく」
みずきは、諦めた顔で頷いた。
私は鞄を持つ。
恒一には言わない。
私は私の判断で行く。
・
・
・
ーー徳島
高速バスを降りると、空が広かった。
大阪より音が少ない。
排気ガスも少ない。
人も少ない。
建物も低い。
深呼吸が心地いい。
徳島は、相変わらず静かだ。
子どもの頃は、この静けさが嫌いだった。
どこへ行っても同じ顔。
噂はすぐ広がる。
逃げ場がない。
でも今は、少し違う。
静かな場所には、沈んだものがよく見える。
私は駅前からタクシーに乗った。
最初に向かう場所は決めている。
病院。
母を見る。
この目で。
タクシーの窓から、徳島の街が流れていく。
古い店。
細い道。
見覚えのある看板。
知らない建物。
父がいた頃、この街はもう少し違って見えていた気がする。
父が死んでから、母は壊れた。
ただ、それだけだと思っていた。
でも、もし母がデポルだったとして。
デポルである自分を唯一肯定してくれた夫。
そんな存在がこの世から消えれば、壊れる理由としては十分だろう。
母は弱かった。
耐えられなかった。
だから毎日のように暴力を振るい、私を傷つけた。
母に同情はする。
けれど、母が私にしたことが消えるわけではない。
何度も怖い思いをした。
殴られた。
刃物で傷つけられた。
その結果、私は三度、自殺した。
同情はする。
でも、全部を許せるほど、私は優しくない。
優しい娘をやるつもりもない。
タクシーが病院の前に止まった。
白い建物。
窓は多いのに、閉じている印象が強い。
消毒液の匂いが、入口の時点で少しだけ漂っていた。
私は受付で名前を告げる。
「加藤です。面会の予約をしています」
受付の女性が確認する。
少し待たされ、看護師がやってきた。
「体調次第で、短時間になるかもしれません」
「分かりました」
別に構わない。
まずは見る。
母がどうなっているのか。
私がそれを見て、どう思うのか。
それだけでいい。
別々に暮らしてから、約三年。
その間、母とはまともに会っていない。
看護師について廊下を歩く。
白い壁。
静かな床。
閉じられた扉。
遠くで聞こえる叫び声。
病院というより、柔らかい檻みたいだった。
面会室の前で、看護師が足を止める。
「刺激の強い話は避けてください」
「分かりました」
知らねえよ。
「もし興奮状態になった場合は、すぐに面会を中止します」
「はい」
扉が開く。
中に、母がいた。
痩せている。
昔より、ずっと小さく見えた。
誰もが羨むほどの美貌は、廃れていても面影がある。
髪は薄く乱れている。
頬はこけている。
目の焦点は、少しずれている。
私を産み。
私を殴り。
父が愛した人。
母は椅子に座っていた。
両手で、古いノートを抱えている。
表紙は擦り切れていた。
「久しぶり」
私が声をかけると、母はゆっくり顔を上げた。
目が合う。
一秒。
二秒。
母の唇が震えた。
「……あなた?」
母は私を見ている。
でも、見ていない。
私の向こう側に、別の誰かを見ているようだった。
「……帰って、きたの?」
「うん」
「ごめんなさい」
いきなりだった。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
母はノートを抱えたまま、身体を小さくした。
看護師が一歩動く。
私は手で制した。
「何に謝ってるの?」
母は首を振る。
「奪らない。もう奪らないから」
その言葉で、空気が変わった。
奪らない。
母はそう言った。
「誰から? 何を?」
母は答えない。
ノートを抱きしめる力だけが強くなる。
「それ、何?」
母の肩が震えた。
「見せて」
母は首を横に振る。
「だめ……」
「どうして?」
「盗られる」
「誰に?」
「だめ。盗らないで。これは、これは……」
母の指先が震える。
その爪のあたりが、一瞬だけ赤黒く滲んだ。
ほんの一瞬。
でも、見えた。
母は自分の手を見る。
顔が歪む。
「違う……」
小さな声だった。
「違うの。もう、奪らない。奪らないから」
指先の色は、すぐに戻った。
でも、もう十分だった。
「はぁ……」
思わず、ため息が漏れた。
母は普通ではない。
ただの病気でもない。
母の中には、デポルの血がある。
つまり、私にも混ざっている。
母の血。
デポルの血。
思ったより、驚かなかった。
看護師が、面会終了の合図を出しかけていた。
時間切れらしい。
母は私を見上げる。
今度は、少しだけ焦点が合った気がした。
「めぐ、み?」
名前を呼ばれた。
久しぶりだった。
私の中で、何かが少しだけ揺れた。
でも、それは優しさではない。
たぶん、もっと硬いものだ。
「お母さん」
私は笑った。
「また来るね」
今日は見るのが目的だ。
面会室を出る。
扉が閉まる。
消毒液の匂いが、また鼻の奥に刺さった。
廊下を歩きながら、私は自分の手を見る。
母の血。
父の血。
そして、私。
思ったより、気分は悪くない。
むしろ、少しだけ視界が開けた。
病院を出て、駅へ向かう。
徳島の空は暗くなりかけていた。
母の声が耳に残っている。
奪らない。
誰から。
何を。
いつから。
私の命を奪っておきながら。
そう思った瞬間、少しだけ笑えた。
考えながら駅前の方へ歩いていると、見覚えのある男が向こうから来た。
派手な髪。
整った顔。
でも、目が死んでいる。
高校の同級生。
山上だった。
「あ」
向こうも私に気づいた。
「……加藤さん、だよね?」
「久しぶり、山上。よく覚えてたね」
「長身金髪ドイツ人ハーフ美少女なんて、君しかいないからね」
山上は少しだけ首を傾けた。
「久世と大阪に行ったんじゃなかったっけ」
「そうだよ」
「じゃあ、なんで徳島に?」
私は少し考えて、笑った。
「まあ、色々とね」
山上は、何も言えない顔をした。
いい顔だった。
「ホストでもやってるの?」
「よく分かったね。って、分かるか。こんな髪だし」
浮かない顔をしている。
今日は、懐かしい顔ぶれ。
懐かしい景色。
徳島独特の空気。
ふと、昔話がしたくなった。
「この近くのホテルに泊まってるから、ちょっと来てよ」
山上は大袈裟に驚いた。
「なんでだよ。久世にボコられるよ」
「ホテルにレストランがあるから、そこでだよ。昔話したいから来て」
「そういうことか……」
山上は胸を撫で下ろした。
美人局かと思った、とぶつくさ言っている。
「とても嬉しい誘いだけど、今からホストの仕事なんだ」
「大丈夫、大丈夫」
山上の腕を掴み、ずかずかと歩き出す。
「えっ、いや、でも……」
「その仕事。好きなの?」
山上は黙り込んだ。
「それが答えじゃん。いい仕事、紹介してあげるから。黙ってついてきてよ」
山上は観念したように歩幅を合わせた。
よし。
これでいい。
こいつは使える。
高校のあの事件。
犯行グループ四名が、私たちのクラスに乱入した。
恒一がみんなを守り、私は初めて祝福を発動させた。
その時、山上はデポルにやられながらも、皆を連れて恒一に逃げろと言った。
タフな男だ。
こういう奴は信用できる。
押しには弱そうだ。
どの業務を当てようか。
やはり、営業かな。
レストランの看板が目に入る。
あるメニューに目が止まった。
″すだちぶり″と″すだち真鯛″のお刺身定食。
少し前に、恒一とみずきが話していた。
徳島の名産品のすだちを餌に混ぜて育てられた魚。
そんなもの絶対ないだろと思っていたが、本当にあったとは。
「よし、これにしよう」
「いや、俺の出勤は?」
「休めばいいじゃん」
「軽いな」
「軽い方が動きやすいよ」
さて。
せっかく捕まえたこの男。
どうやって大阪へ引っ張ろうか。
自分がデポルであるという事実は、一旦横へ置く。
私はまず、目の前の使えそうな人間を確保する。
今はそれでいいと言い聞かせる。




