第44話:黒女_選別都市大阪編⑪
ーー大阪・水谷ひとみ法律事務所
ーーひとみフェーズ
警察は来なかった。
来なかったのではない。
来させなかった。
机の上に置いた通報記録を見て、深く息を吐いた。
「……ほんま、最低やな」
頭の奥で、女の声が笑った。
『でも正解だったでしょ?』
甘く、軽く、底の見えない声。
女神メル。
椅子にもたれ、天井を見た。
「正解かどうかは知らん。結果として久世が間に合っただけや」
『間に合うと思ったから止めさせたの』
「外してたら?」
『その時は、その時』
「…みずきが壊されてても?」
『久世くんが捕まるよりはいい』
返答に迷いがなかった。
人ならば終わっている。
けれど、こいつは女神。
警察が階段室へ入る。
血塗れの久世。
石津の死体。
その瞬間、二階堂サイドはいくらでも見出しを作れる。
示談交渉中だった男性を、若き司法試験合格者が殺害。
危険思想を持つ若者による私刑。
被害者支援を口実にした暴力。
デポルのことなど、一文字も出ない。
久世が潰れる。
それは困る。
私にも。
メルにも。
「……あんた、久世に入れ込みすぎや」
『そう?』
「そうやろ」
『最初は、アステリア様のお気に入りを少し覗くくらいのつもりだったの』
メルの声が、少しだけ甘くなる。
『でも見てたら、気になってきた。危なっかしくて、強がりで、怖がりで、それでも止まらない。ああいう子、目が離せないのよ』
「女神が人間に惚れたんか」
『惚れた、とは違うかな』
少し間が空く。
『独り占めしたくなった』
数秒後、呆れたように笑う。
「だいぶ終わってんな」
『褒めてる?』
「罵ってる」
『そういうところも好き』
「私を巻き込むな」
『今更何言ってるの』
その通りだった。
私は、この女神と契約している。
始まりは、”かな”がデポルに襲われた後だった。
あれから、夜道で足が止まるようになった。
後ろから足音がするだけで、息が乱れるようになった。
無愛想で、淡々としていて、仕事が早い。
そして何より可愛い。
一緒に大阪を離れることも考えた。
田舎に引きこもり、何も見ないふりをすることも考えた。
けれど、できなかった。
デポルが笑って生きている。
かなは今も、夜道で足を止める。
それが許せなかった。
その時、メルが現れた。
『願いをひとつ叶えてあげる』
私は笑う。
「ほな、この世のデポルを全部殺して」
『いいよ』
あまりに軽い返事だった。
冗談かと思った。
窓付近まで案内され、外を見た。
その瞬間、外で雷鳴が轟く。
路地裏。
そこにいたデポルの身体へ、白い光が落ちた。
一瞬だった。
黒く崩れた身体。
声を上げる暇さえない死。
言葉を失った。
『ね? 殺せるでしょ』
メルは笑った。
『私の言うことを、時々聞いてくれたらいい。これから出会うある男の子が二十五歳になるまで。そしたら、あなたの願いを叶えてあげる』
「……日本中のデポルを?」
『うん。丸焦げにしてあげてもいいよ』
私は、その手を取った。
かなが安心して歩ける日本にしたかった。
そのためなら、女神でも悪魔でも使うつもりだった。
「私はあんたとの契約を守る。けど、みずきを駒みたいに扱うな」
『駒じゃないよ』
「じゃあ何や」
『久世くんをより良くするための道具だよ』
「もっと悪いわ」
メルは笑う。
『ひとみも同じでしょ?久世くんを矢面に立たせて、自分は動きやすくしてる』
否定できない。
久世がいるから、この周辺のデポルは減る。
久世が暴れるから、裏で動ける。
久世が死ねば、全部がやりにくくなる。
だから守る。利用するために。
「私はかなのためにやる」
『私は久世くんのため』
「噛み合ってへんな」
『でも、今は同じ方向を向いてる』
噛み合わない。
通報記録を破り、灰皿に落とした。
ライターで火をつける。
紙が黒く縮れていく。
「あと数年。約束は守れよ」
『いいよ』
メルの声が、耳元で笑った。
声が聞こえなくなる。
燃え尽きる紙を見つめる。
(悪いな久世、めぐみ、みずき。私にも優先順位がある)
これだけは絶対揺るがない決意だった。
ーー大阪・久世事務所_隣住居
ーーめぐみフェーズ
今日は、黒で行こうかな。
クローゼットの前で、私は少しだけ迷った。
白。紺。黒。
手に取ったのは、黒のワンピースだった。
最近、恒一はさらに思い詰めている。
黒を着たから何かが変わるわけではない。
けれど、軽い色を選ぶ気にはなれなかった。
鏡の前で服を合わせる。
肩までの金髪。
もう見慣れてきた。
「そろそろショートに戻そうかな」
そのまま着替える。
肌に布が触れる。
「うん、何でも似合うな」
鏡の中の自分に言った。
『黒か。悪くないな』
アステリア。
相変わらず、急に出てくる。
「こんばんは」
『いつも冷静だな』
「最近はそんなこともなかったよ」
『そうだったな』
珍しい。
この女神、自分のようがある時だけ一方的に話すことが多い。
今日は様子が違う。
「何かあったの?」
『久世は黒が好きなのか?』
私はベッドに腰を下ろし考える。
ワンピースのことか、下着のことか。
当人に聞いたことはない。
あれこれ考えていると、アステリアが続けた。
『減った寿命を覚えているか』
「二回使って、二十五年。とんだぼったくりだよ」
私は笑い話のつもりだったが、神妙な顔つきをしている。
『その後、久世に触れたことで、前世の記憶や思考の断片が流れ込んだことがあったな?』
「あったよ」
煮え切らない。
はっきり言ってほしい。
『その後は』
少しだけ間が空いた。
「一度もない。何で?」
『…いや、そもそもベアトリクスにそういった効力はない』
私は右手を見る。
あの一度、自分のものではない恐怖が胸の奥で鳴った。
血の匂い。
逃げられない感覚。
奪われる前の、あの数秒。
それが自分の記憶ではないと分かっているのに、身体は知っているように反応する。
彼が経験してきた記憶が、瞬間的に入ってきた。
「それ、危なくない?」
『かもしれないな』
「まあいいや。何かわかったら教えてよ」
ベッドに寝転び、天井を見上げる。
『相変わらず、肝が座ってる。女神に向いてるかもな』
アステリアの声は、少し楽しげに聞こえた。
「確かに、こんなに綺麗ならね」
『そうじゃねぇよ』
「…まあ実際さ。寿命が二十五年も無くなってるなら。もう何が来てもそこまで怖くないというか」
それより——
ひとみの顔を思い出す。
警察を引かせた。
笑って流す。
有能で、危険で、何かを隠している女。
「ねぇ?ひとみにも、女神がついてるんじゃないの」
アステリアの気配が、ほんの少しだけ変わった。
(否定はしないのか)
『何故そう思う』
「普通じゃないから」
『人間なんて、だいたい普通じゃないだろ』
「はぐらかさないで」
『……女神同士は、基本的には干渉しないことになってる』
...ほぼ確定と見るか。
これからは、ひとみには”女神”がついている前提で動く。
「それは、決まりか何か?」
『そうだ。互いの盤面に手を突っ込むと、女神の掟が面倒なんだ』
私は窓の方を見る。
ひとみの事務所が小さく見える。
あの女は、ただの弁護士ではない。
そう思い始めると、今までの全部が怪しく見える。
判断の速さ。
情報の集め方。
警察を動かせる手腕。
そして、あの笑い方。
より一層、警戒するに越したことはない。
私のように、”魔法”を与えられている可能性もある。
そして——もう一つの確認事項。
「アステリアは、恒一をどうしたいの」
沈黙。
珍しく、すぐに返事がなかった。
『見たいだけだよ。あいつがどうなるのか、何を成し遂げ、何を成し遂げられないのか』
「悪趣味」
『うるせえよ』
私は立ち上がる。
何気に窓の外を見る。
大阪の夜は、まだ明るい。
その中を、見慣れた背中が歩いていた。
恒一。
「……え?」
こんな時間に?
どこへ行くのか。
私はすぐに携帯電話を手に取った。
電話をかけようとして、止める。
問い詰めれば、たぶん嘘はつかない。
でも、全部は言わない。
恒一はそういう人間だ。
机の上に置かれたノートパソコンを開く。
以前、対播磨弁護士との交渉。
持たせたGPSと盗聴器。
あの時は念のためだった。
けれど、外させる理由もなかった。
画面に、粗い地図が表示される。
点が、ゆっくり動いている。
「……どこに行くつもり?」
誰にともなく呟いた。
アステリアが言う。
『追うのか』
「…今は追わない」
私はイヤホンを取った。
「聞く」
『それ、信頼してる相手にすることか?』
「信頼してるからするの」
『…信頼の意味』
イヤホンを耳に入れる。
雑音。
風の音。
遠くの車。
そして、恒一の足音。
しばらくは、それだけだった。
やがて、別の音が混じる。
携帯電話の着信音。
足音が止む。
『着、、ザザッ..た?』
聞き取りづらい。
電話越しだからか。
私は息を止める。
恒一の声が低く返る。
「ええ。指定された場所の近くです」
『じゃあ、ザザッ..奥へ。井口ザザッ..が待ってザッ..』
井口。
確かにそう聞こえた。
その名前で、胸の奥が冷えた。
徳島県知事。
デポルを管理するデポル。
今の敵より、少しマシな敵。
何故恒一は、そんな男に会いに行くのか。
私たちに何も言わずに。
いや。
正確には、言わなかったわけじゃない。
私が聞いていないだけだ。
イヤホンの向こうで、恒一の足音が夜の奥へ沈んでいく。
私は、その音を黙って聞くことにした。




