第42話:獲物_選別都市大阪編⑨
ーー大阪・久世事務所付近
昼間の大阪は、夜よりも油断を誘う。
人が多い。
車も多い。
店は開いている。
どこかのビルから、昼休みの会社員たちが吐き出される。
安全そうに見える。
だからこそ、気づくのが遅れた。
ビルからコンビニまで徒歩三分。
油断しても仕方がない。
みずきは買い物袋を片手に、事務所のある雑居ビルへ向かっていた。
コンビニで買った飲み物。
電池。
めぐみから頼まれた、よく分からない甘い菓子。
いつも通りの買い出し。
いつも通りの昼。
スマホが震えていることには、気づかなかった。
いや。
気づいていた。
だが、片手が塞がっていた。
それに、ビルはもう目の前だった。
(あとでいいか)
そう思った。
たった、それだけだった。
ビルの入口をくぐる。
古いエレベーター。
薄暗い共用廊下。
昼間なのに、建物の中だけ空気が湿っている。
その時、ようやくスマホを取り出す。
着信。
久世くん。
複数回。
めぐみ。
ひとみ。
胸の奥が、嫌な形で跳ねた。
画面を見ていると、めぐみから複数回目の着信。
『みずき!?』
「な、なに?どうしたの?」
『今どこ?』
「ビルの下。もう着いてる」
『エレベーター使わないで。すぐ私の部屋に来て。急いで』
声が硬い。
いつものめぐみじゃない。
「何があったの?」
『石津が動いてる。あなたが狙われてる』
一瞬、言葉の意味が分からなかった。
石津。
演説会場で見た男。
画面越しに見ていた男。
再犯したかもしれない男。
「……え?」
『説明は後。階段で上がって。ドア開けて待ってる』
「わ、分かった」
通話を切る。
心臓が速い。
手が冷たい。
エレベーターの前を通り過ぎ、階段室の扉を押した。
その瞬間。
背後から、口を塞がれた。
「んっ——!」
買い物袋が落ちる。
缶コーヒーが床を転がった。
腕を掴まれる。
強い。
あり得ないほど強い。
階段室の扉が、内側へ閉まる。
昼間の音が消えた。
外の人混みも、車の音も、全部遠くなる。
耳元で、男が笑った。
「騒ぐなよ。黙ってれば殺さないから」
(…ヤバい!)
汗。
煙草。
古い血のような、いやな臭い。
みずきは喉の奥で声を出そうとした。
塞がれた口。
掴まれた腕。
壁に押しつけられる。
「お前、演説の時いたよな。黒髪が綺麗で覚えていたんだ」
石津は楽しそうだった。
本当に、楽しそうだった。
「調べんの簡単だったわ。カメラって便利だよな」
服の襟を掴まれる。
布が嫌な音を立てた。
「やめ——」
声が漏れた瞬間、頬に衝撃が走った。
視界が白く弾ける。
膝から力が抜ける。
痛い。
痛い。
だが、それよりも。
怖い。
画面の向こうで見ていたものが、目の前にいる。
資料の中の名前が。
記事の中の加害者が。
自分の腕を掴んでいる。
「泣くの早いって」
石津が笑う。
「まだ何もしてないだろ」
何もしていない。
そう言った。
この男は、本気でそう思っている。
私の中で、何かが冷えた。
祖父母の顔が浮かぶ。
毎朝、仏壇に手を合わせる祖母。
腰を悪くしながらも、何かと気遣ってくる祖父。
自分が生きていなければ。
自分が壊されれば。
私の仕送りが止まれば。
あの二人は、どうなる。
悲しむ。
きっと、自分を責める。
そう思った瞬間、恐怖の奥に怒りが混ざった。
「ふざ……けんな」
「は?」
みずきは、空いた片手で石津の顔を引っ掻いた。
爪が皮膚を裂く。
石津の顔が歪む。
「このっ——」
腹を蹴られた。
息が詰まる。
階段に身体がぶつかる。
頭が揺れる。
だが、ほんの数秒。
ほんの数秒だけ、石津の手が離れた。
みずきはスマホを握る。
画面は割れている。
それでも、発信画面は開いていた。
めぐみへの通話。
繋がっている。
『みずき!みずき!』
石津が気づいた。
「何してんだよ」
スマホを蹴られる。
階段下へ滑る。
その音が、やけに大きく響いた。
・
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ーー雑居ビル付近
「ここに十五万ある。全部やるから一切止まらずこのビルまでいけ」
タクシー運転手に、無理難題を押し付け、梅田から難波まで最短で辿り着いた。
めぐみは、買い物と言っていた。
ビルからの買い物のルートは、近所のコンビニかドラッグストアだ。
ビルに戻る方が得策と考えた。
心臓がうるさい。
初めて殺された夜のように。
冴子さんを失った時のように。
初めてデポルを殺した夜のように。
『石津が、君の黒髪の彼女を狙っている。』
『部屋まで行くかもね』
ふざけるな。
ふざけるな。
ふざけるな。
(俺が仲間に引き入れなければ…いや今は)
ビルに入る前に上から声がした。
「階段室!」
それだけで十分だった。
ビルに飛び込む。
階段室の扉を開ける。
男の笑い声が聞こえてくる。
次の瞬間、視界が狭くなる。
階段の踊り場。
石津がいた。
みずきの衣服が乱れ、みずきの頬は腫れていた。
涙を浮かべながら。
だが、まだ折れていない目をしている。
俺の中で、何かが静かに沈んだ。
怒りを通り越している。
「石津」
声を出す。
石津がこちらを見る。
一瞬だけ、驚いた顔をした。
すぐに笑う。
「お前、あの時の」
鞄を落とした。
特殊警棒を抜く。
「初回は撃ち漏らしたが」
ジャキン。
階段室に、金属の伸びる音が響く。
「ファイナルラウンドだね」
石津が、みずきを突き飛ばす。
「来いよ」
石津の肌が、赤黒く変わっていく。
首。
腕。
顔の端。
獣ではない。
人間の顔をした、奪うための生き物。
石津が突っ込んでくる。
速い。
だが、分かっている。
こいつは強い。
だが、雑だ。
欲望が先に動く。
一歩引き、警棒を石津の膝に叩き込んだ。
鈍い音。
石津が崩れる。
だが止まらない。
腕を伸ばしてくる。
その手首に警棒の追撃。
骨が軋む。
石津が叫ぶ。
「いっ——!」
叫び終わる前に、警棒を顎へ打ち上げた。
歯が飛ぶ。
階段の壁に血が散る。
「みずき」
「はっ、はい……」
「下がれ」
みずきは震えながら、階段の隅へ這う。
「そこで、俺たちが相手にしているものと、俺がこれからやることを見ろ」
自分でも、酷いことを言っていると思った。
みずきの顔が歪む。
(お前なら意図がわかるだろ)
石津が立とうとする。
俺は待たない。
腹。
肩。
膝。
手首。
逃げるための部位。
掴むための部位。
奪うための部位。
順番に潰す。
石津の動きが鈍る。
「ま、待て!」
石津の声が変わった。
「なあ、待てよ。俺はまだ——」
髪を掴んで顔を上げさせた。
「まだ何もしてない!…だろ?」
石津の目が揺れる。
「その言葉、好きだね」
「俺が今まで殺してきたデポルは、こぞってそう言うんだ」
石津の腹に膝を入れる。
空気が漏れる。
石津が床に崩れた。
俺はナイフを抜いた。
みずきの唾を飲み込む音がした。
「まて!俺にこんなことしたら、播磨さんが黙ってないぞ!」
「それにお前、シマ荒らしだな!こんなことしてタダで済むと——」
石津の耳元に屈む。
「喜べ。その播磨さんから聞いて来たんだよ」
「……は?」
石津は状況が理解できないでいる。
俺は、石津の脚に刃を入れた。
悲鳴。
階段室に反響する。
「やめろ!やめてください!もう、しませんから!」
その声を聞いた瞬間、何かが重なった。
止めて。
やめて。
助けて。
きっと、そう言った人間がいた。
石津は、それを聞いたはずだ。
聞いて、止めなかったはずだ。
「お前は」
刃を入れる。
「止めてと言われて」
もう一度。
「止めたのか」
石津の口が震える。
答えはない。
答えがないことが、答えだ。
冴子さんの顔が浮かぶ。
血の匂い。
奪われたもの。
守れなかったもの。
みずきの腫れた頬。
裂けた服。
石津の笑い声。
「まだ何もしてない。」
その言葉が、頭の中で何度も跳ねる。
まだ?
まだ、何も?
ふざけるな。
手が止まらない。
脚。
腕。
腹。
どこを刺しているのか、途中から分からなくなった。
ただ、止まらなかった。
止める理由が、どこにも見つからなかった。
「…くん」
「…ぜくん」
「久世くん!!」
我に帰った。
気づかなかった。
俺を後ろから抱きしめ、必死に止めようとしている。
「久世くん!もういいよ、死んでるよ!もう大丈夫だから!久世くん!!」
壊れたマリオネットのように。
何度も同じ動作を繰り返す俺。
返り血で、真っ赤に染まる俺。
そんな俺を、みずきは必死に止めてくれた。
「…服、汚れるよ」
絞り出た言葉は、これだけだった。




