第38話:揺らぎ_選別都市大阪編⑤
ーー東大阪市内・鉄工所
火花が散る。
鉄の匂い。
油の匂い。
汗の匂い。
オレは、両手で鉄板を支えている。
「おい、タムラ!もうちょい右や!」
「はい!」
言われた通りに、右へずらす。
重さは、それほど苦ではない。
本当なら、もっと簡単に持ち上げられる。
だが、それをしてはいけない。
力を出しすぎるな。
怒るな。
腹を空かせすぎるな。
人間の速度で動け。
人間の顔で笑え。
ここに来てから、何度も自分に言い聞かせていることだった。
タムラ。
社長がくれた名前だ。
戸籍はない。
住所もなかった。
仕事もなかった。
あるのは、この身体だけ。
壊れにくく、力が強く、そして時々どうしようもなく疼く、奪いたいという衝動。
それだけだった。
路地裏で蹲っていた。
その時、声を掛けられた。
「働く気があるなら、飯と寝床は出す」
その言葉だけで、十分だった。
奪らなくても、飯が出る。
殴らなくても、寝る場所がある。
誰かを押しのけなくても、名前を呼ばれる。
だから、裏切ってはいけない。
社長を。
この場所を。
「タムラ、休憩や!」
「はい!」
返事をして、オレは鉄板から手を離した。
手首のあたりが、少し熱い。
見れば、肌がわずかに赤黒くなっていた。
すぐに袖を下ろす。
見られてはいけない。
ここにいたいのなら。
人間の中で、生きたいのなら。
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ーー鉄工所・事務所
応接室と呼ぶには狭い。
事務所の端を、パーテーションで区切っただけの簡易スペースだった。
薄い壁の向こうには、従業員用の喫煙所があるらしい。
換気扇の音。
缶コーヒーのプルタブを開ける音。
男たちの笑い声。
その全部が、ぼんやり聞こえてくる。
俺は資料を広げた。
「採用向けのホームページと、簡易のセキュリティ診断ですね」
社長は分厚い手で頭を掻く。
五十代後半。
腹は出ているが、目は鋭い。
現場の人間の目だ。
「うちみたいな町工場に、ホームページなんかいらんと思うで?」
「人を採るなら、あった方がいいです。取引先から見られることも増えていますし」
「若い子、全然来ませんからなあ」
「現場写真、福利厚生、寮の有無、社員紹介。最低限でも載せれば、応募の心理的な抵抗は下がりますよ」
「劇的に変わる?」
「劇的には変わりません。しかし若い世代の応募がある会社のほとんどは、ホームページを作成しています」
社長は一瞬きょとんとして、それから笑った。
「正直やな、そして分かりやすいわ」
「嘘は言いたくないのです、ありがとうございます」
話は悪くない方向に進んでいた。
その時、薄い壁の向こうから声がした。
「タムラって前、何してたんすかね」
若い作業員の声。
社長の手が、ほんの少し止まった。
俺は資料をめくる指を止める。
別に盗み聞きするつもりはなかった。
だが、聞こえる。
「知らん。社長が連れてきたんやろ」
「でも、あいつめっちゃ頑張りますよね。重いもんも平気で持つし。タフすぎるっしょ」
「飯もよう食うしな」
笑い声。
悪意はない。
ただの休憩中の雑談。
「この前、鉄板支えてる時、腕ちょっと赤黒くなってませんでした?」
一瞬、空気が止まる。
俺の視線が、社長へ向く。
社長は黙っていた。
「実はデポルやったりして」
「アホか。あいつがデポルやったら、俺ら全員殺されてるわ」
「それもそうっすね、溶接の時の火傷っすね、俺も火傷跡あるし」
また笑い声。
軽い。
冗談。
何も知らない人間の笑い。
だが、社長は笑わなかった。
俺も、笑えなかった。
しばらくして、足音が遠ざかる。
休憩が終わったのだろう。
簡易スペースに、換気扇の音だけが残る。
社長が、先に口を開いた。
「……聞こえてたよな」
「ええ」
隠す意味はない。
社長は深く息を吐いた。
「久世さん。デポルって知ってるよな」
「ええ、ニュースでも時々してますね、時々ですが」
社長は困ったように笑った。
だが目は笑っていない。
「タムラさん、という方はデポルなんですね」
俺は静かに言った。
社長の顔が、わずかに歪む。
否定はしなかった。
「……今の会話でなんとなくわかるか...」
「はい」
社長は椅子にもたれた。
古い椅子が、ギシリと鳴る。
「デポルは、街でも国でも嫌われとる」
独り言のようだった。
「そうですね」
(当たり前だろ、暴力、強奪、殺人、強姦。そんな生物、排除する以外の選択肢はない)
だから俺は殺してきた。
理由はそれだけで十分だった。
デポルであること。
その一点だけで。
「でもな...」
社長は続けた。
「全員がそうではない、とも思ってる」
俺は黙る。
「だってそうやろ?日本国民も1億人だがおるけど、全員がええ奴ちゃうよな、それと同じやと思ってる」
「タムラは、最初はひどかった。言葉も変やし、力加減もわからん。腹が減ると目つきも変わる。正直、怖いと思ったこともある」
「では何故、雇用を?」
「...目がな」
社長は少しだけ視線を落とした。
「奪いたい目やなくて、居場所を探してる目やった」
甘い。
そう思った。
だが、口には出さない。
「住む場所と、名前と、仕事を与えたら、あいつは順応しようと頑張ってる」
「...大変失礼な物言いとなりますが、それで済む保証は?」
「ない」
即答だった。
「ない。明日、何か起こすかもしれん。俺の判断が間違いやったと後悔する日が来るかもしれん」
社長は俺を見た。
「でも、頑張ってるやつは応援したい。それがたまたまデポルだっただけや」
それは、人間としては立派な言葉だった。
同時に、危険な言葉だと感じる。
「その方が...誰かを奪ったら?」
「俺の責任や」
「責任で、奪われたものは戻りませんよ」
「分かってる」
静かだった。
怒らない。
逃げない。
この男は、分かっていて雇っている——
(つもりになっている。わかってはいない、何故なら奪われたことがないから言えるんだ)
善人なのか。
馬鹿なのか。
それとも、何かに利用されているのか。
判断はつかない。
「久世さん」
社長は言った。
「タムラをどうするつもりですか、通報しますか」
鞄の中には、特殊警棒がある。
ナイフもある。
場所も分かった。
働いている時間も分かった。
殺そうと思えば、殺せる。
理由もある。
デポルだから。
それで、今まで十分だ。
だが——
「……いいえ何もしません。今日は、ホームページのご提案に来ただけです」
そう答えるのが、精一杯だった。
社長は小さく頭を下げた。
「見積もり、お願いします」
「分かりました」
俺は資料をまとめる。
それ以上、何も言わなかった。
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ーー鉄工所・帰り道
工場を出て、少し離れた場所で足を止めた。
作業場の入口。
資材を運んでいる男性がいる。
ひと目でわかった。
周りには二人がかりやフォークリフトで運んでいる。
しかし彼は、一人で担いでいるのだ。
他の従業員に声をかけられ、少し遅れて笑った。
不器用な笑い方。
人間の真似をしている笑い方。
頭部以外は衣服で隠れている。
だが俺には、もう分かっている。
胸の奥が冷える。
だが、足は動かない。
デポルであること。
それは殺す理由だ。
俺にとっては、それで全てだった。
なのに。
今見えているのは、奪わずに働こうとしている個体だった。
名前を与えられ、仕事を与えられ、居場所を失わないように必死で人間の形をなぞっている。
「……ふざけるな」
誰に向けた言葉か、自分でも分からなかった。
タムラにか。
社長にか。
それとも、迷っている自分にか。
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ーー大阪・久世事務所
戻ると、めぐみが資料を読んでいた。
みずきはパソコンの前で、播磨関連の調査を続けている。
「どうだった?」
めぐみが顔を上げる。
「提案はいい感じにできたよ。見積もりを出すフェーズだね」
「仕事の話じゃない顔してる」
相変わらず鋭い。
俺は鞄を置いた。
「...デポルを見た」
空気が変わる。
みずきの手が止まる。
「どこで?」
「営業先の工場」
「襲われたの?」
「いやいや」
沈黙。
「犯罪は?」
めぐみが聞く。
「見ていない」
「証拠は?」
「社長の言質」
俺は聞いたことを話した。
仮の名前。
住み込み。
社長だけが知っていて、雇っていること。
従業員は恐らく気づいていないこと。
タムラが、順応しようとしていること。
みずきが小さく言った。
「それって……普通に働いてるってこと?」
「今のところは」
「じゃあ……」
続きは言えなかった。
めぐみが淡々と聞く。
「殺すの?」
「……いずれは」
「なぜ直近じゃないの?」
「今殺したら、俺だとバレるから」
答えになっていない。
ただの先延ばしの言い訳に聞こえる。
自分でも分かっている。
みずきが口を挟む。
「デポルだけど、馴染もうと頑張ってるんだよね?それでも殺すの?」
「頑張っているかどうかは、俺には判断つかない。もし頑張ってたとして、”奪わないと”いう根拠にはならない」
めぐみは少しだけ目を細めた。
「恒一」
「何?」
「デポルだから殺す。それがあなたの基準だったよね」
「そうだね」
「じゃあ、今のは何?」
嫌な質問だった。
みずきが、困った顔で俺たちを見る。
俺は椅子に座った。
喉の奥が重い。
デポルであること。
それは殺す理由だ。
今も変わらない。
変えてはいけない。
だが。
本当に、このままでいいのか。
その疑問が、初めて形を持った。
「判断は後だ」
俺は言った。
めぐみは頷いた。
「まあそれが妥当だけどね、今やったら恒一が関わったと言ってるようなもんだし」
嫌な女。
しかし——めぐみが正しい。
俺がブレれば、この集まりはなんなのか、というところに回帰する。
全てのデポルを殺す。
そこを曲げたら、俺は俺でなくなる。
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ーー夜
一人になってから、俺は工場の資料を見返していた。
会社概要。
従業員数。
寮あり。
未経験者歓迎。
アットホームな職場。
よくある文句。
ありふれた文章。
この会社に、デポルがいる。
奪わずに、生きようとしている。
今は——
「……」
目を閉じる。
前世の血の匂い。
冴子さんの顔。
殺された夜。
奪われたもの。
だから俺は決めた。
デポルは殺す。
種として排除する。
そのはずだった。
「……本当に、このままでいいのか」
それで全てが解決するのか。
答えは出ない。
その沈黙が、何より不快だった。




