表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

3/5

第2話:よくある死

二〇二六年七月。


「……今日、雨降るらしいですよ」


沢口冴子の声は、川のせせらぎに紛れて、少し遠く感じた。


「ら、らしいですね」


俺はどもりながら答え、ポケットに手を突っ込む。

冴子は俺の二つ下で三十三歳。見た目は二十代に見えるほど若く、肩口まで伸びた黒髪がよく似合っていた。綺麗で、どこかすべてを諦めたような雰囲気を纏っている人だ。

彼女は俺が住むアパートの隣人で、いつも綺麗だなと目で追っていた。

たまたま近所の薬局からの帰りでばったり遭遇したのだ。なんと喜ばしい出来事で、幸運なのだろうか。しかしこの幸運で、俺は運を使い果たしたとも知らずに、舞い上がった感情を悟られぬように、冴子の隣を彼氏面で歩く。


俺たちが住むこの辺りは、比較的治安がいいとされている。最近騒がれている掠奪種デポルの事件も、どこか遠い話のように感じていた。

——いや、目を逸らしていただけかもしれない。

前方、街灯の届かない川沿いの道に、数人の男たちが立っているのが見えた。

喉の奥が、ひりつく。


「……ねえ、道変えませんか」


冴子の指先が、俺の腕を掴む。わずかに震えていた。


(……このまま一人で逃げたい)


そう思ったが、妙な正義感がその気持ちを抑え込む。


「そうしましょう。あっちの明るい道から行きましょう」


少し裏返った声で、平静を装う。

が、少し遅かった。


「オイ、ソコノ」


濁った声が、背中に突き刺さる。

振り返ると、男たちがゆっくり距離を詰めてきていた。

街灯のわずかな光でも分かる。

赤黒い、乾いた血のような色の肌。


「……デポル、か」


口の中で呟いた瞬間、全身が粟立つ。

笑っている。ドス黒い人間の顔で、それはもう楽しそうに。


「冴子さん、逃げて!」


俺は彼女の前に出た。

一人で駆け出し逃げたかったが、デポルに遭遇した女性がどうなるかは、火を見るより明らかだ。

妙な正義感から、口と身体が勝手に動いてしまった。手にあるのは、ビニール袋に入った歯ブラシと、端切れのような勇気だけ。


次の瞬間、両脇から腕を掴まれる。

振り払おうと、無我夢中で拳を振るう。当たっているのかも分からない。

必死に抵抗を続け、どのくらいの時間が経ったかもわからない。


しかしその時、背後から彼女の声が響く。


「いや!やめて!」


視線を向けると、別の奴らが冴子を押さえつけていた。

頭の奥が焼ける。


「ふざけるなぁぁぁ!!」


腕を無理やり振りほどき、そっちへ踏み出した瞬間。


——ドスッ。


「……あ」


遅れて理解する。

腰の奥に、冷たい何かが入り込んでいる。

視界が一気に遠の木、膝から崩れ落ちる。


「やめろ……っ……!」


口の中が血で溢れ、声にならない。

冴子が引きずられていくのが見えた。

笑っている。ドス黒い顔が、歪んでいる。

俺を踏みつけながら。


(……ああ)


守れない。何も。何も、できない。


(……なぜだ……)


息がうまく吸えない。


(俺が弱いからか……?)


そう。それもある。

でも。


(……こいつらだ……)


ドス黒い肌色の連中。笑いながら奪う連中。


(……全部……奪うやつが……悪いんだ……)


視界が暗くなる。

冴子の声が、遠くで途切れる。


(……動け……動けよ!……)


身体は、もう動かない。


(……せめて……一発……)


拳を握ろうとしても、力が入らない。

何もできないまま、

ただ、奪われていく。


(……許せない……自分も、デポルも、こんな奴らを取り締まらない国も)


最後に残ったのは、それだけだった。

視界の端に、黒い人影が見えた気がした。

誰かが、何かを言っている。デポルか。

だが、もう聞こえない。


——これが、俺の最期だ。


どこにでもある、つまらない死に方。


——そして。

死の“続き”があるなんて、この時の俺は知らなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ