第2話:奪われた夜
二〇二六年七月。
「……今日、雨降るらしいですよ」
沢口冴子の声は、川のせせらぎに紛れて、少し遠く聞こえた。
「ら、らしいですね」
俺はどもりながら答え、ポケットに手を突っ込む。
冴子さんは、俺の二つ下で三十三歳。
だが、見た目は二十代に見えるほど若い。
肩口まで伸びた黒髪がよく似合っていた。
綺麗で、どこかすべてを諦めたような雰囲気を纏っている。
彼女は、俺が住むアパートの隣人だった。
いつも綺麗だな、と目で追っていた。
話しかける勇気は、ほとんどなかった。
今日はたまたま、近所の薬局からの帰りに出くわした。
なんと喜ばしい出来事だろう。
なんと幸運なのだろう。
そう思った。
けれど、どうやら俺は、この幸運で運を使い果たしたらしい。
舞い上がった感情を悟られないように、冴子さんの隣を彼氏面で歩く。
俺たちが住むこの辺りは、比較的治安がいいとされていた。
最近騒がれている掠奪種の事件も、どこか遠い話のように感じていた。
いや。
目を逸らしていただけかもしれない。
前方。
街灯の届かない川沿いの道に、数人の男たちが立っていた。
喉の奥が、ひりつく。
「……ねえ、道変えませんか」
冴子さんの指先が、俺の腕を掴んだ。
わずかに震えている。
一人で逃げたい。
そう思った。
情けないほど、はっきりと。
だが、その気持ちを妙な正義感が押さえ込む。
「そうしましょう。あっちの明るい道から行きましょう」
少し裏返った声で、平静を装う。
だが、遅かった。
「オイ、ソコノ」
濁った声が、背中に刺さる。
振り返ると、男たちがゆっくり距離を詰めてきていた。
街灯のわずかな光でも分かる。
肌が、赤黒い。
乾いた血のような色をしている。
「……デポル、か」
口の中で呟いた瞬間、全身が粟立った。
笑っている。
どす黒い人間の顔で。
それはもう、楽しそうに。
「冴子さん、逃げて」
俺は、彼女の前に出た。
本当は一人で駆け出したかった。
今すぐ逃げたかった。
だが、掠奪種に遭遇した女性がどうなるかは、火を見るより明らかだった。
妙な正義感が、口と身体を勝手に動かした。
手にあるのは、ビニール袋に入った歯ブラシと、端切れのような勇気だけ。
次の瞬間、両脇から腕を掴まれた。
振り払おうと、無我夢中で拳を振り回す。
当たっているのかも分からない。
必死に抵抗した。
どのくらい時間が経ったのかも分からない。
その時。
背後から、彼女の声が響いた。
「いや! やめて!」
視線を向ける。
別の奴らが、冴子さんを押さえつけていた。
頭の奥が焼ける。
「ふざけるな……!」
腕を無理やり振りほどき、そちらへ踏み出した。
その直後。
腰の奥に、冷たいものが入り込んだ。
「……あ」
遅れて理解する。
刺された。
視界が遠のく。
膝から崩れ落ちる。
「やめろ……っ……!」
口の中が血で溢れる。
声にならない。
冴子さんが、引きずられていく。
笑っている。
どす黒い顔が、歪んでいる。
俺を踏みつけながら。
ああ。
守れない。
何も。
何も、できない。
なぜだ。
息がうまく吸えない。
俺が弱いからか。
そうだ。
それもある。
でも。
こいつらだ。
笑いながら奪う連中。
人の形をして、人から奪うことを何とも思わない連中。
全部。
奪う奴が悪い。
視界が暗くなる。
冴子さんの声が、遠くで途切れた。
動け。
動けよ。
身体は、もう動かない。
せめて一発。
拳を握ろうとしても、力が入らない。
何もできないまま。
ただ、奪われていく。
許せない。
自分も。
掠奪種も。
こんな奴らを取り締まれない国も。
最後に残ったのは、それだけだった。
視界の端に、黒い人影が見えた気がした。
誰かが、何かを言っている。
掠奪種か。
それとも別の何かか。
だが、もう聞こえない。
これが、俺の最期だ。
どこにでもある。
つまらない死に方。
そして。
死には、続きがあった。
なぜ。
どうして。
何が起きたのか。
この時の俺には、まだ分からない。
ただ一つだけ、残っていた。
もし、人生がやり直せるなら。
すべてをかけて、奪い返す。




