第1話:表の顔
大阪の朝は、少しだけうるさい。
車の走行音、信号の電子音、誰かの笑い声。 全部が重なって、頭の奥にじんわり残る。
その中を歩きながら、俺は無意識に右手を見ていた。包帯は巻いていない。
昨夜、あれだけ殴ったのに、見た目はほとんど元に戻っている。腫れは引いているが――痛みだけが、しつこく残っていた。
(傷や怪我が早くなる体質?...能力?な訳ないか)
拳を軽く握ると骨の奥が、じくりと軋む。
(何かを殴るということは、殴る方も痛いのね)
視線を前に戻す。
高層ビルの隙間から差し込む朝日が、やけに白い。
我が故郷、徳島とは違う空気だ。人も多いし、情報も多い。そしてゴミも多い。
昨夜の光景が、一瞬だけ脳裏に浮かぶ。
路地裏。血。崩れ落ちる体。
すぐに意識から切り離す。
(考えるのはやめよう)
意味はない。
どれだけ殴っても、何も埋まらないことくらい、もう分かっている。
(……それでも、やめるわけにはいかない)
小さく息を吐き、足を進めた。
古びた雑居ビルの三階。
小さなプレートに、「水谷ひとみ法律事務所」と書かれている。
ノックをする前に、ドアが勢いよく開いた。
「遅い!」
開口一番、それだった。
「いや、約束の時間ぴったりですけど」
「社会人は五分前行動や!」
バシン、と背中を叩かれる。
昨日と同じだ。
そして、昨日の怪我と相まって、悲鳴を上げそうなほど痛い。
(五分前行動。それ相手によるんですよね…)
「……昨日も思ったんですけど、普通に暴力ですよそれ」
「アホ言え、愛のムチや」
「ムチって言うならもうちょっと細くしてもらっていいですか」
「おもろいやん自分」
ゲラゲラと笑う。
この人のテンションには、まだ慣れない。
明るめの茶髪で、丸みを帯びたショートヘアー。
目はぱっちりしているがやや吊り目で、以下にも気が強いです!といった印象を受けるモデル体型の容姿をした典型的な関西人。
(これが俗にいう「残念美人」というやつか)
「ほら入れ」
中に通される。
ここに来るのは数度目だが、常に綺麗な事務所だ。
書類は整理されているし、机の上も無駄がない。
(まだ見たことはないが、事務員さんがちゃんとしてるんだな。この人ではなくて)
「で、アンタその体どないしたん」
どこかに包帯を巻いているわけでもないのに、鋭い質問が飛んでくる。
「どうもしてないですけど、何のことですか?」
「なんかこの前会った時より、身体の軸がブレてる気がする」
(この人怖っ。そんなものアニメでしかきないセリフだ。
身体の軸がブレるって何!?昨日やられた背中がまだ痛むけど。さっきのあんたのせいでな!)
「昨日不良に絡まれましてね。治安悪すぎません?大阪」
「で、その不良どないしたん」
鋭い眼力が、俺が目を逸らそうとするのを拒む。
「追い払いました」
「前、私を助けてくれた時みたいに、大暴れしたんやろどうせ」
「はい、まあ」
「別にええけど、もっと明るいところ通れよ」
気をつけまーす、と気のない返事で会話は終わった。
この人はどこまで掴んでいるのだろうか。
でも、踏み込んではこない。その距離感が、少しだけありがたかった。
「で、本題やけどこの前あんたが提案してくれたビジネスの件、やろうや」
先日、路地裏で不良たちに絡まれていたこの「水谷ひとみ」弁護士を助けたことがきっかけで、
事務所でアルバイトをさせてくれるというものだった。
俺には、しこたま金を稼ぐ理由があるため、アルバイトだけではなく、協業の提案も行なった。
「法人企業に対して、ホームページ制作を行うスキルを持っているので、ひとみさんのお客様を紹介してほしい。制作が契約となったら売上の十%を支払います。」
今日はこの提案の答えを聞きに来たのだった。
「中々面白いやん、自分十六歳やろ?」
「はい、もうじき」
「七歳から司法試験の勉強始めたって言ってて、この前司法試験受かったんよな?」
「はい」
「史上最年少で司法試験受かるくらい勉強してたのに、なんでホームページ制作のスキルあんねん。いつ勉強したん」
「別にそこまで難しいことではないので」
「あー!嫌味ったらしい奴。天才様にはできんことはないんですね!!」
とにかく絡んでくる。それもそのはず、俺「久世恒一」は現在十五歳だが、先日司法試験に合格した。
その最終試験の帰りに、ひとみを助けたのだ。
それから残念ながら俺は天才ではない。不器用も不器用、脳内スペックも高くとも中の下。
「頭が一時的に良くなる魔法」や「チート能力でどうにかした」というようなことは当然ない。
ただ俺は、昔思い描いたことを実現するだけの時間があったから、この結果を手に入れたに過ぎない。
劇的な変化も能力の向上も残念ながら前世のままだ。
ひとみが続ける。
「仕事は簡単や。雑務、書類整理、あと雑用。その合間で、あんたのホームページ制作営業をやって売上作ってきて」
「雑用多いですね」
「新人やからな」
「助けたお礼に、という話だったのに、こちらが良いように使われていませんか?」
「人生経験や」
(それで言うなら俺のほうが歳上な気もするが)
「……分かりました。ではこの条件でお願いします」
「よっしゃ」
満足そうに頷く。
「今日はこんなもんでええわ、それはそうとほんまに毎週末来れるんやろな。あんた家徳島やろ」
(えっ?今更?)
それもそのはず、二〇〇五年当時では、徳島で司法試験の最終試験(三次試験)は大阪や東京などでしか行われていなかったのだ。
「はい、毎週末来ますし、長期の冬休みとか夏休みも全部来ます。稼がないとね」
「ご苦労なことで」
自分で確認したにも関わらず、二秒後には興味のないそぶりを見せている。
徳島県の高校に通う俺は、この四月からひとみとの雇用関係が始まる。
週末や長期休みを利用して、徳島、大阪間を高速バスで行き来する予定だ。
一つ目は、弁護士としての経験を積むため、二つ目に金を稼ぐためだ。
三つ目は…今はよそう。後術する。
俺はこの人生を、自己満足(復讐)のために使うと決めている。
そのために、勉強も肉体強化も一切手を抜かず、研磨してきたつもりだ。
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事務所からの帰り道、昨日とは別の路地裏をあえて歩く。
またしても、いや予想通りドス黒い肌色をした連中に取り囲まれる。
「すーーーーー、ふぅぅぅぅ」
緊張を解きほぐすための、一回だけの深呼吸。
力一杯握り込んだ拳の痛みで、震える身体を無理やり動かす。
(今日は五匹もいる)
自然に口角が上がる。自分でも分かる。ろくでもない顔をしているのだろう。
そんな瑣末なことには目を背ける。
俺は拳を固め、連中に向けて走り出した。




