第0話:奪われた男
二〇〇六年四月 大阪・路地裏
靴底が、ぬるりと滑った。
血だ。
街灯の届かない路地裏。
湿ったコンクリートに広がるそれは、黒く沈み、光を吸い込んでいる。
(……この人生では、初めて見た)
喉が乾く。
息が詰まる。
逃げろ、と本能が叫んでいる。
けれど、足は動かなかった。
ここで逃げれば、また同じだ。
「オイ、ソコノオニイチャン」
声がした。
肩が跳ねる。
ゆっくり振り向く。
前に一人。
後ろにも一人。
挟まれている。
足元には、男女が倒れていた。
動かない。
血の匂いが、喉の奥に上がってくる。
生きているのか。
死んでいるのか。
分からない。
「ミタナ?」
軽い声だった。
笑っている。
ニュースで見た。
何度も見た。
暴行。
窃盗。
傷害。
そして、不起訴。
証拠不十分。
身元確認できず。
こいつらは、掠奪種。
何をしても、捕まらない。
有罪にならない。
だから、繰り返す。
「サイフダセヨ。ソシタラ、カエシテヤル」
一歩、近づいてくる。
足がすくむ。
心臓がうるさい。
怖い。
逃げたい。
金を渡して、頭を下げて、それで終わるなら。
だが、終わらない。
視線が、倒れている男女に向く。
あの時も、そうだった。
喉が震える。
歯が鳴る。
それでも、口を開いた。
「……デジャブだ」
「ハァ?」
「十数年、ずっとこの瞬間を待ってたんだ」
声が震えているのが、自分でも分かった。
違う。
待ってなんかいない。
でも、終わらせなければならない。
次の瞬間。
顔面に衝撃が走った。
「ガッ……!」
視界が白く弾ける。
地面に叩きつけられる。
息が抜ける。
何も吸えない。
腹に蹴りが入る。
身体が浮き、肺が潰れる。
「ヨワッ!」
笑い声。
ああ。
これだ。
骨が軋む音。
血の味。
視界の端で踊る火花。
理不尽を体現した象徴。
暴力。
逃げろ。
逃げろ。
逃げろ。
思考とは裏腹に、手が地面を掴む。
逃げたら、また奪われる。
血の味。
痛み。
恐怖。
全部が、胸の奥でぐちゃぐちゃになる。
もう二度と、あんな終わり方は嫌だ。
許せない。
立ち上がる。
膝が震えている。
視界が揺れる。
それでも、一歩踏み出す。
「だから……」
息を吐く。
声がかすれる。
「鍛えてきた」
奪われる側から、奪う側に立つために。
真正面の掠奪種へ、一気に距離を詰める。
拳を握る。
当たれ。
放った拳は、頬をかすめただけだった。
浅い。
だが、相手が反応した。
「ナン……」
腕を掴む。
力では負けている。
それでも、離さない。
膝を叩き込む。
鈍い音がした。
「ガッ!?」
効いた。
そう思った瞬間、背中に衝撃が走った。
「ッ……!」
木材で叩きつけられた。
視界が回る。
膝が落ちる。
終わる。
また終わる。
意識が遠のく。
嫌だ。
口が勝手に動いた。
「刑法……第三十六条……」
「ナニイッテンダ?」
「正当防衛……なんだよ」
笑われる。
それでいい。
理由がいる。
顔を上げる。
「奪われる側で終わるかよ……!」
突っ込む。
もう、形も何もない。
殴る。
殴られる。
蹴られる。
転ぶ。
視界が赤い。
音が遠い。
それでも、腕は動いた。
「ッ……!」
顔面に一発。
相手がぐらつく。
もう一発。
倒れる。
一人。
まだ、もう一人いる。
息が切れる。
足が震える。
身体はとっくに限界だった。
それでも、ここで終われば全部無駄になる。
立ち上がる。
ふらつく。
突っ込む。
何発殴られたか分からない。
どこを蹴られたかも分からない。
でも、最後に拳が入った。
「……ッ!」
相手の身体が崩れる。
「ここだ!」
押し倒す。
馬乗りになる。
何度も拳を振り下ろした。
一発。
もう一発。
相手の腕が、俺を押し返そうとする。
それを振り払う。
骨が潰れる音がした。
それでも、腕は止まらなかった。
止め方が分からなかった。
何度も。
何度も。
何度も。
やがて、動かなくなった。
静かになった。
気づけば、俺の呼吸だけがうるさい。
周りには、動かない物体が転がっている。
自分の手は、血と汗と土で汚れていた。
目から落ちた涙が、動かなくなった男の顔に落ちる。
さっきまでの熱が、嘘みたいに引いていく。
代わりに残ったのは、胸の奥に穴が空いたような感覚だった。
これで、殺せたのか。
分からない。
ただ、動かない。
深く息を吐く。
涙を拭う。
何も埋まらない。
どれだけ殴っても、壊しても、あの時は戻ってこない。
守れなかったものも、消えたままだ。
それでも。
ようやく、前を向いて歩き出せる気がした。
倒れている男女を見る。
かすかに動いた。
生きている。
それだけで、少しだけ息が戻る。
ふらつきながら立ち上がる。
壁に手をつき、路地を出た。
公衆電話を探す。
受話器が重い。
「……もしもし……人が、倒れてて……」
声が、まともに出ない。
それでも、伝えた。
場所。
人数。
血が出ていること。
受話器を置くと、指先が震えていた。
少しずつでいい。
一人。
二人。
俺は、人型の何かを殺した。
だが、やめない。
すべての掠奪種を根絶するまで。
数は知らない。
関係ない。
俺、久世恒一の命が尽きるその瞬間まで。
やられた分は、返していく。
物陰から、救急隊が駆けつけたのを確認し、帰路についた。
その頃には、手の震えは止まっていた。
俺の初めての暴力。
初めての殺し。
これが、暴力と法律で掠奪種を消し去る物語の幕開けとなる。




