第127話:虎視眈々_駆逐編③
二〇二四年十月。
社会保全省の追加予算案は、提出から二週間が過ぎても審議入りしていなかった。
反対されたわけではない。
担当委員会の日程が決まらない。
与党内の事前審査で、同じ質問が何度も繰り返される。
修正した箇所へ、今度は別の議員が異議を唱える。
表立って反対すれば、国民から批判される。
だから誰も反対とは言わない。
必要性は理解している。
理念には賛同する。
慎重な議論が必要だ。
そう言いながら、成立だけを遅らせていた。
「四日後には委員会を開かせますね」
俺が言うと、向かいに座っていた与党議員が困ったように眉を下げた。
「総理。委員長にもご都合がありますので」
「二週間前から日程を調整しています。これ以上、何を待つ必要がありますか?」
「強引に進めれば、党内にしこりが残ります」
「それを気にする必要性ってあります?」
議員は答えなかった。
誰が審議を遅らせているのかも分かっている。
社会保全省の調査対象には、与党議員の支援団体や後援企業も含まれていた。
彼らが守りたいのは、党内の融和ではない。
自分たちの地位と、それを支えてきた人間だ。
「委員長へ伝えてください。四日後に開かないなら、与党内で交代を求めますと」
「しかし――」
「賛成か反対か、明確にしてもらうだけですよ」
議員はそれ以上反論せず、資料を抱えて立ち上がった。
扉の前で頭を下げる。
そのまま出ていくと思ったが、入ってきた人物を見て足を止めた。
井口ゆうた。
与党代表でありながら、俺とはほとんど口を利かなくなった男。
父の死を利用して政界へ参戦。
真実と嘘を織り交ぜた演説で、最年少の与党代表まで上りつめた。
「代表……」
「話は終わったんだろ。出ていいよ」
井口に言われ、議員は逃げるように部屋から出ていった。
議員とすれ違いざまに現れためぐみも執務室へ入り、扉を閉めた。
「何の用ですか?」
俺が尋ねても、井口はすぐに答えなかった。
先ほどまで議員が座っていた椅子へ腰を下ろし、机の上に残された資料へ目を向ける。
「ずいぶん好き勝手やってるみたいだな、総理大臣」
「党内で法案を止めているのは、そっちでしょう」
「俺じゃない。お前に寄ってきた連中だ」
「同じ党の議員でしょ。マネジメントしてくれないと困りますね」
「マネジメントはできてるさ。ただ、俺はお前の味方ではない、ということも事実としてあるがな」
井口が鼻で笑った。
「久世総理と一緒に日本を変えます。古い政治を終わらせます。よく言えたもんだよな。四年前まで、別の人間に同じことを言ってた連中が」
高宮政権の下で地位を得て、政権交代の直前に離反した者もいる。
俺たちが総選挙で勝つと見るや、今度は俺の名を掲げて当選した。
最初から信用してはいない。
利用できる間だけ利用する。
向こうも同じつもりだろう。
井口は背もたれに身体を預け、俺の顔を眺めた。
「最近、調子に乗ってるみたいだけど、大丈夫か?」
「身の程はわきまえてるつもりですが?」
井口とめぐみが吹き出す。
(俺はそのつもりなのだが……)
井口は呆れながら話す。
「自分を狙っているのは、追い詰められたデポルだけだと思ってないか?」
「思っていないですね」
「だったらいいけどな」
井口が上着の内側から、折り畳んだ紙を取り出した。
机の上を滑り、俺の前で止まる。
記されていたのは、複数の企業と政治団体の名前だった。
どれも直接のつながりは見えない。
そのうち二社は、選挙で野党候補へ多額の献金をしている。
別の政治団体は、社会保全省の解体を求める署名活動を始めていた。
「これは?」
「ある勢力が動いている」
井口は相手の名前を明かさなかった。
紙に記された情報だけでは、犯罪の証拠にはならない。
複数の団体が同じ時期に資金と人員を増やしている。
それだけだ。
「お前を引きずり下ろすために、力を蓄えてる奴らがいる」
「政権を倒そうとする野党がいるのは当然では?」
「選挙で負けたからって、全員が次の選挙まで大人しく待つと思うのか?」
「違法な動きがあるなら、証拠をくださいよ」
「そういうところだよ」
井口が呆れたように笑った。
「証拠をそろえて、法律で裁けば終わる。まだそう思ってるんだろ」
「それ以外に、政府が何をできますか?」
「相手も法律どおりに動いてくれるといいな」
口調は軽い。
だが、冗談を言うためだけに来たわけではない。
俺の隣で、めぐみが紙を手に取った。
企業名と政治団体名を順番に確認していく。
「この団体、先月まで活動実績がほとんどない」
めぐみが言った。
「それが今月に入って、急に全国へ支部を作ってる。資金の出どころは?」
「そこから先は、自分たちで調べろ」
井口が答えた。
「どうして私たちに教えるの?」
「勘違いするな。助けに来たんじゃない」
井口は椅子から立ち上がった。
「俺はお前たちが嫌いだ。お前らが失敗して支持を失うなら、その方がいい」
俺を見下ろし、口元を歪める。
「お前が負けたら、次の総理には俺がなってやる。だから、せいぜい派手に失敗しろ」
「なら、放っておけばいい」
「別の党に政権を奪い返されたら、俺が総理になれないだろうが」
井口にとって、俺は仲間ではない。
同じ政党の中で総理の座を塞いでいる、邪魔な存在だ。
それでも今の与党が政権を失えば、井口も権力から遠ざかる。
俺には失敗してほしい。
だが、敵に殺されることも、政権ごと潰されることも望んでいない。
「忠告はしたぜ?これは貸しだな」
井口は扉へ向かって歩き出した。
「俺を狙っている勢力について、他に知っていることは?」
俺が尋ねると、井口は足を止めた。
「知らねえよ。自分で考えろ」
「それからお前――デポルを殺す暇がなくなって腑抜けたんじゃないのか?」
それだけ言い残し、執務室から出ていった。
扉が閉まる。
(そう思われてるなら好都合さ)
俺は、残された紙へ目を戻した。
「信用できると思う?」
めぐみが尋ねる。
「井口が俺を嫌っているのは信用できる」
「そこじゃない」
めぐみは紙を折り、自分の鞄へ入れた。
「ま、私の方でやっとくよ」
「それと、予定されている官邸周辺の集会があるの知ってる?」
「知らない」
「なんでだよ。三日後、社会保全省に反対する複数の市民団体が、合同でデモをする」
初めて聞く話だった。
申請上は、数百人規模。
目的は社会保全省の廃止と、政府による人権侵害への抗議。
暴力を示唆する記載はない。
許可された範囲で行われる、合法的なデモだった。
「中止させる理由はない、か」
「まあ、そうだね」
「警察へ通常どおり対応させればいい」
めぐみは答えなかった。
先ほどの紙を入れた鞄を、強く握っている。
「何か?」
「そう簡単な話ではない気がする」
めぐみはそう言ったあと、俺を見る。
「でも、この資料の彼らが本当に恒一を狙っているなら、デモだけで終わるとは思えないけどね」
三日後。
総理官邸前には、申請された人数を遥かに超える群衆が集まった。




