第98話:引受人_残務委任編④
水谷ひとみは、俺たちが部屋を出た日の夜に死んだ。
最期まで、かながそばにいた。
何を話したのかは知らない。
あの時間は、かなとひとみだけのものだ。
俺たちが踏み込んでいい場所ではない。
二日後。
葬儀は、俺たちだけで執り行った。
大きな会場は使わない。
法曹協会の会長が死んだのだから、知らせれば多くの人間が来ただろう。
弁護士。
政治家。
職員。
ひとみに助けられた者。
逆に、ひとみに切り捨てられた者。
だが、かなはそれを望まなかった。
俺たちも同じだった。
法曹協会には、病死とだけ伝えた。
今日は、水谷ひとみという一人の人間を送り出す日だ。
部屋には、かな、めぐみ、みずき、山上、あさみがいた。
誰も大きな声を出さない。
かなは棺の近くに座り、ひとみの顔を見ていた。
泣き腫らした跡はあった。
それでも、今は泣いていない。
みずきは、必要な連絡や手続きを黙って進めていた。
めぐみも、かなの近くから離れなかった。
俺は少し離れた場所に立ち、ひとみの顔を見る。
生前より、穏やかだった。
それが腹立たしい。
生きている時は、人の神経を逆撫でする顔ばかりしていた。
死んだ途端、何も知らないような顔をしている。
勝手な人だ。
最後まで。
出棺の時間が近づくと、かなが立ち上がった。
「少し、外にいる」
誰に向けたわけでもない言葉だった。
めぐみが、かなの肩へ手を添えた。
みずきも何も聞かなかった。
二人はかなと一緒に部屋を出る。
それに続いて山上とあさみも出た。
扉が閉まり、俺とひとみだけが残った。
静かだった。
空調の音だけが聞こえる。
俺は棺のそばへ歩いた。
ひとみの手は、胸元で重ねられている。
何度も書類を掴み、法曹協会の腐敗を切り、俺の頭を叩いた手。
もう動かない。
「まだ、契約は成立していませんでしたね」
ひとみの額へ、短く口づける。
冷たかった。
恋愛でも、弔いでもない。
契約締結。
それだけだ。
俺は顔を上げた。
「引き受けますよ。あなたのデポル根絶も。かなさんも」
かなが生きると決めている限り、守る。
ひとみが法曹協会に残したものも。
俺に押しつけた願いも。
デポルを、この世界から消すという執念も。
全部、引き受ける。
あの人なら、返事の代わりに笑っただろう。
偉そうに。
人を小馬鹿にするように。
それから、できるものならやってみろと言ったはずだ。
俺は棺から離れた。
扉へ向かう前に、一度だけ振り返る。
ひとみが遺したのは、法曹協会だけではない。
この十年以上で、多くの人間を傷つけ、同時に繋ぎ止めてきた。
死んだ人間は、残された者の中にも仕事を増やす。
扉を開ける。
廊下には、めぐみたちが待っていた。
かなは、俺の顔を見た。
俺も何も言わなかった。
出棺の準備を進めた。
棺が運び出される。
俺は、その後ろを歩いた。
水谷ひとみ。
牧かなを守るために、人生を使った女。
法曹協会の内部へ踏み込み、腐敗を断ち切った女。
俺を利用し、俺に利用され、それでも最後まで同じ敵を見ていた女。
ひとみがいなくなっても、戦いは終わらない。
山本が残した問い。
井口が期待した制度。
ひとみが残した契約。
敵だった者の信念も。
共に戦った者の執念も。
全部背負う。
俺は、デポルを消しきるまで倒れるわけにはいかない。
そう思った直後だった。
視界の端から、拳が飛んできた。
頬に衝撃が走る。
身体が横へ流れ、床に倒れた。
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
口の中に血の味が広がる。
顔を上げる。
山上が立っていた。
拳を握り、俺を見下ろしている。
普段のにこやかな営業スマイルではない。
「山上」
めぐみが低い声で名前を呼ぶ。
山上はそちらを見なかった。
「立てよ、久世」
俺は床に手をついた。
榊原との戦いで傷めた肋骨が痛む。
ひとみの棺が運ばれているすぐ近くで、何をしているのか。
怒るべきなのかもしれない。
だが、山上の顔を見て、言葉を飲み込んだ。
山上は泣いていない。
ただ、長い間溜め込んでいたものが、顔に出ていた。
俺はゆっくり立ち上がる。
「何をするんだ」
「こっちの台詞だよ」
山上の声が震えた。
「お前ら、何してたんだよ」
俺は答えなかった。
山上は、俺だけではなく、めぐみ、みずき、かなの方を見る。
「久世だけじゃない」
「ひとみも、めぐみも、みずきも」
「ずっと何も言わなかった」
山上は棺へ視線を向ける。
ひとみは、もう何も答えない。
その事実が、山上をさらに苛立たせていた。
「ひとみが死ぬまでには話してくれると思ってた」
「何か理由があるんだろうって、待ってた」
山上は俺へ向き直る。
「でも、何も言わずに死んだ」
廊下が静かになる。
棺を運ぶ者も、足を止めていた。
俺は口元の血を拭った。
「話す必要がないと思ってた」
山上の眉が動く。
葬儀屋には、先に行くよう促した。
「みんなも行ってくれ。ひとみを一人で行かせるのは、かわいそうだろ」
俺の言葉に、面々は何か言いたげだが口を開かなかった。
「あとで、みんなで話そう」
それだけめぐみが答え、皆を連れていった。
「山上。デポルに恨みは?」
俺は短く尋ねた。
山上は答えない。
「少なくとも、俺には山上がデポルを恨んでいるようには見えなかった」
だから、話さなかった。
これは遊びではない。
正義感だけで踏み込める場所でもない。
俺は過去に、好きだった人を奪われた。
俺自身も殺された。
今ここにいるのは、偶然にすぎない。
軽い命だ。
一度失った命を、たまたまもう一度与えられた。
だから、デポルを根絶するために使うと決めた。
会社を作ったことも。
弁護士になったことも。
政治へ入ったことも。
これからすることも。
すべて、そのためだ。
だから少なくとも、強い恨みでもなければ無理だ。
人生を捨てる覚悟がいる。
誰かを傷つける覚悟も。
自分が傷つく覚悟も。
「俺は山上のことを気に入ってる」
学生の頃も友達だと思っていた。
今も、会社にいてほしいと思っている。
「でも、俺の本心を知って軽蔑するなら、離れていい」
退職金も払う。
生活に困らないだけの金も渡す。
そう言おうとした瞬間、もう一度拳が飛んできた。
今度は避けられなかった。
頬に衝撃が入り、頭が横へ振れる。
「金の話、しようとしたな?」
山上が吐き捨てた。
「俺と戦え」
意味が分からない。
山上は構えた。
どう見てもキックボクシングの構え。
あさみに習っているようだ。
そして、目は本気だった。
「俺が勝ったら、お前らの業を俺にも背負わせろ」
「俺はめぐみに恩がある」
「クソみたいな生活してた俺を拾ってくれた」
俺を見る。
「お前にもある」
「お前の会社に拾ってもらったからな」
山上は、全て気づいていた。
俺が夜中に出ていくこと。
傷だらけで帰ってくる理由。
めぐみたちが、俺が戻るまで眠らずに待っていたこと。
全部、見ていた。
「お前ら、犯罪にまで手を染めてるんだ。よほど辛いことがあったんだろうとは思う」
山上は拳を握り直す。
「だったら、俺にも背負わせろよ」
廊下に、その声が響いた。
「信じられない」
俺は正直に言った。
めぐみも、ひとみも、みずきも。
自分か、大切な人をデポルに傷つけられている。
だから、俺の目的に賛同した。
「山上には、デポルを消す理由がない」
傷ついてほしいとは思わない。
だが、何も奪われていない人間を、この戦いに巻き込むことはできない。
背中を預けることも、当然できない。
山上は一度、目を伏せた。
すぐに顔を上げる。
「いや」
声は先ほどより静かだった。
「俺の大切な人も、傷つけられた」
俺は山上を見る。
「俺は、その場にいなかったが」
「俺じゃない、いけ好かない奴がその人を助けた」
「誰だ?」
山上は答えなかった。
拳を構えたまま、俺を睨む。
「その人は今も、危険な場所で危険なことをしてる」
「その人が誰に守られてもいい」
「でも俺も、その人を守る一部くらいにはなりたい」
山上は一歩、前へ出た。
「俺に勝ったら教えてやるよ」
意味の分からない条件だった。
本来なら、相手にする必要はない。
ひとみの出棺直後。
俺の体も、まだ治っていない。
山上を殴る理由もない。
それでも、山上は退かない。
「ひとみが抜けて、戦力が落ちたんだろ」
山上は言った。
「ひとみほど何でもできるわけじゃない」
「でも、俺にもできることはある」
顔が広くなった。
会社の中でも、外でも、人と繋がるようになった。
山上なりに積み上げてきたものがある。
それを、俺たちへ差し出そうとしている。
「だから今から、お前を倒す」
山上が床を蹴った。
俺は、目の前の男をまっすぐ見据えた。
その真意を、測るために。




