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大樹  作者: 常居嗣子
戻った夜

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【9】試験書


 午の刻にはまだ遠いが、日差しはすっかり高くなっていた。


 英定の前へ、清書を終えた試験書が改めて運ばれてくる。朝のうちに出した草案とは違い、今度は寮の印璽を正式に捺す前の整った一通だ。


 厚みのある紙、余計な飾りを省いた端正な文面、読み手に無用の威圧を与えぬ言葉選び。国神仕寮の名で出す文としては、上等すぎもせず、軽すぎもしない。


 良い。


 だが良いと思った瞬間、英定は己の感情に気づいて内心で眉を寄せた。


 良い、ではない。

 これはただの公文だ。

 出来不出来で胸を動かすような代物ではない。


 英定は紙を受け取り、最初から最後まで目を通した。


 国神仕寮は、才覚ある若者を募り、神鎮の素養を含めた試を行うこと。

 ついては、余理本家に養育される余理玉へ、その参加を求めること。

 同行者の数は絞ること。

 都への道中に必要な便宜は寮側で手配すること。


 どこにも、不自然はない。


 玉の名がそこにある。

 公文の上に、あくまで公の名目で記されている。


 それが、英定にはひどく奇妙だった。


 長子の名を、こうして“役所の紙”の上で迎えに行く日が来るとは思わなかった。思わなかった、というより、考えぬようにしてきた。玉は本家へ預けられた子であり、遠くから無事を祈るしかない存在だと、そういうものだと自分へ言い聞かせ続けてきたのだ。


 けれど今は違う。


 そうしてしまったのは、英定自身だった。


「英定様」


 文官が、わずかに身を屈める。


「文面に不備がございましたら、この場で改めます」


「……いや」


 英定は最後の行まで視線を滑らせ、ようやく紙を机へ戻した。


「これでいい」


 文官がほっとしたように息をついた。若い官だ。今朝、書類を落としていた者とは別だが、こちらもまだ場数は浅いらしい。寮長の沈黙を、己の不手際と結びつけてしまう年頃なのだろう。


 英定は印璽を引き寄せた。


 重みのある木の柄が掌へ収まる。かつて準基であった頃、このような印を押す立場に自分が来るとは夢にも思わなかった。明であった時でさえ、もっと遠い話だった。人は生き延びるほど役目を重ねるのか、それとも重ねるために生かされるのか。時折、分からなくなる。


 印面へ静かに朱を含ませる。

 紙の右端へ、狙いを定めて下ろす。


 紙が少しだけ沈み、すぐに戻る。

 それだけの動きで、一通は“国神仕寮の正式な文”になる。


 英定は印を離した。


 それで終わりだった。

 終わりであるはずなのに、胸の内では何かがようやく動き出したような感覚がある。


「使いは」


「すでに第一の者が門を出ております。こちらは途中の宿場で継がせる手配に」


「よし」


「……進路の報告は、英定様へ直接」


 壮年の文官が、確認するように言った。


「そうだ」


「承知いたしました」


 短い応答だったが、その裏にある意味は室内の者たちに十分伝わっていたはずだ。わざわざ英定が経路報告を自分へ上げろと命じたのは、この文が単なる人材登用以上の重みを持っているからだ、と。


 それでも誰も問わない。


 賢い。

 あるいは、怖れている。


 どちらでもよかった。


 英定は試験書を文箱へ納める文官の手元を見ながら、不意に別のことを思い出した。


 玉を本家へ預けた日のことだ。


 余理の伝統だと、そう何度も聞かされた。男児は本家へ。生家で可愛がりすぎぬため。家を継ぐ筋と、別枝へ流れる筋をはっきり分けるため。


理屈はあった。余理家なりの歴史もあった。晴蒼もそれを当然のものとして受け止めていた。反発の色を見せたのは英定の方だけだったかもしれない。


 けれど、反発したところで何も変わらなかった。


 赤子の玉を抱いたのは、数えるほどしかない。

 首の後ろへ手を添える感覚も、衣越しの体温も、半年のうちに慣れたと言えるほどではなかった。

 その少なさを、英定は長く“仕方のないこと”として押し込めてきた。


 今朝の試験書は、言ってみればその“仕方のないこと”への反逆だった。


 理がどうあれ、習いがどうあれ、もう一度手元へ呼ぶ。

 それを公の理屈で貫き通す。


 英定は自分の内側にあるその意地を認め、同時に、どうしようもなく嫌な気分にもなった。


 もっと早く、こんな意地を持てなかったのか。

 珠を失う前に、晴蒼を失う前に。

 家が焼ける前に。


 持てなかったから今があるのだと、頭では分かる。過去の自分には過去の自分なりの限界があった。まだ地位もなく、道もなく、ただ余理の家にいるしかなかった頃の英定に、今のような手立ては持てなかった。


 それでも感情は、後からいくらでも責め立ててくる。


 遅い、と。


「英定様」


 また別の声が近づく。寮補の一人だった。


「神鎮部の者が二名、控えております」


「通せ。……いや、先に天文部の返答だけ持ってこい」


「承知いたしました」


 仕事は、考えている間にも積もる。

 それがありがたい時もある。


 英定は、試験書から意識を引き剥がすように次の書類へ手を伸ばした。天文部の返答は、予想どおり少し冗長だ。必要な情報は三行で済むのに、五行目から先は自分たちの判断がどれだけ正しかったかを言い訳がましく飾っている。


 英定はそこを指先で止めた。


「ここから先を削れ」


 文官が慌てて筆を構える。


「どの部分を」


「四行目から」


「ですが、天文部としては判断の根拠も添えるべきだと」


「根拠は上にある」


 英定は淡々と言った。


「不安なら紙を増やせばよいと思う癖をやめろ。読む者の息を先に切らした時点で負けだ」


 文官が額へうっすら汗をにじませる。英定はそれ以上追い打ちをかけなかった。必要なことは伝えた。あとは相手が覚えればよい。


 こうしている間にも、都の外では使いが文を運び、いずれ余理本家の門を叩く。


 玉はその時、どんな顔をするだろう。


 養父は。

 本家の者たちは。

 自分がそこへ直接いるわけではないからこそ、想像はいくらでも勝手に広がる。


 英定は天文部の書類を脇へ置き、次いで神鎮部から上がってきた一覧へ目を移した。


 神鎮部。

 玉を呼ぶ理由として、公にもっとも使いやすい名目の一つ。


 学才だけなら、余理本家の長子を都へ出すには弱い。

 だが神鎮の素養となれば話は別だ。余理家の血、神具との関わり、そして玉自身の気質。どれを取っても、寮側が欲しがる理屈としては十分に立つ。


 英定はそれを利用した。


 利用したのだと、認める。


 父として呼びたいという私情だけなら、おそらく養父は頷かない。

 だが国神仕寮が必要とする若者だと言えば、少なくとも迷いは生じる。

 その迷いの隙へ、英定は手を差し込んだ。


 汚いと思う者もいるだろう。

 英定自身、ときにそう思う。


 けれど、きれいな方法で手に入るものばかりなら、準基の頃にあそこまで失っていない。


「印璽をお戻しください」


 文官が控えめに言った。英定は、自分のすぐ脇にまだそれが置かれたままだったことに気づく。


「ああ」


 渡す。文官は両手で受け取り、丁寧に所定の箱へ収めた。印の定位置が決まっているのと同じように、役所の一日はあらかじめ形づくられている。誰がどこへ何を運ぶか。どの紙がどの箱に戻るか。秩序のあるものを見ると、少しだけ息が整う。


 だが、その秩序の中へ私情を一つ紛れ込ませてしまったのも、また今朝の自分だった。


 英定は立ち上がり、窓辺へ歩いた。


 正庁の外には白い光が満ちている。空は高く、雲は薄く、雨の気配はない。使いの足にはちょうどよい日和だろう。


 そのことに安堵する自分がいて、英定は内心で苦笑した。


 今の自分は、もう国神仕大輔の顔だけではない。

 いや、最初からそうだったのかもしれない。

 国神仕大輔の顔を保ってきたからこそ、今こうして私の願いを公の形で動かせる。


 ならば、せめて最後まで崩さずやるしかない。


「英定様」


 神鎮部の者が入室を許され、戸口に現れる。

 英定は振り返った。


「入れ」


 声は平らだった。

 私情を一つ机の上から送り出した後でも、外へ見せる声は変わらない。


 それでよかった。


 変わってしまえば、今朝の一通があまりにも露骨になる。

 誰にも悟らせぬまま、しかし確実に玉へ届かせる。

 そのためには、今ここで英定が揺れて見えてはならない。


 神鎮部の者が頭を垂れる。英定はその前へ戻り、何事もなかったように席へ着いた。


 ただ、席に着くその一瞬だけ、胸の内で静かに認める。


 今朝、自分が押した印は、国神仕大輔として最も私的なものだったのだと。


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