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大樹  作者: 常居嗣子
戻った夜

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【10】命


 神鎮部から上がった人員割りは、見た目には穏当だった。


 都に残すべき者、地方へ回すべき者、近く人が足りなくなる部署。それぞれに理由が付され、誰が見ても大きな穴はない。だが英定は、そういう“誰が見ても無難なもの”をあまり信用しない。


 無難とは、たいてい誰も責任を取りたくない時に生まれる形だからだ。


 英定は名の並んだ紙を前に、神鎮部の二人を順に見た。どちらも三十を少し過ぎたあたりの男で、片方は慎重、片方はすでに少し疲れている顔をしている。


「この配置を組んだのはどちらだ」


 疲れている方がすぐに答えた。


「私でございます」


「なら聞くが、東の沿道へこの者を回して持つと思うか」


 指で名を示す。男は一瞬言葉に詰まり、すぐに頭を下げた。


「……正直に申し上げれば、長くは難しいかと」


「なら、なぜ置いた」


「人手が」


「足りぬのは知っている」


 英定の声は低く、しかし怒気はなかった。怒ってはいない。ただ甘えを切っているだけだ。


「足りぬ時ほど、持たぬ者を持つ場所へ置くな。崩れた時に余計な手がかかる」


「申し訳ございません」


「謝るなら組み直せ」


 男は深く頭を下げ、紙へ目を落とした。隣にいた慎重そうな男が、息を殺しているのが分かる。こういう空気の時、余計な弁明に走る者は長く持たない。黙って次を出せる者の方が使える。


「代わりは」


 英定が問うと、慎重な男が一歩進み出た。


「暦部で控えをしている者を一人、神鎮側へ仮で付けられます。力は薄いですが、気が回ります」


「名は」


「長谷部宗忠にございます」


 英定は記憶の中を探った。細い顔をした若者だ。口数は多くないが、他人の失敗を黙って拾う癖がある。そういう者は神鎮へ回して育てる価値がある。


「いい。仮ではなく、三月は固定しろ」


「三月、でございますか」


「慣れる前に戻すから、どこも育たぬ」


 慎重な男が深く頷く。英定はその反応を見て、神鎮部はまだ完全には死んでいないと判断した。疲れている方も無能ではない。ただ今は、人手の足りなさに引きずられて守りに入っている。


 英定は紙束を机へ置いた。


「地方の件は以上だ。午後までに組み直したものを持ってこい」


「は」


 二人が下がっていく。戸が閉まると、室内の空気は再び紙と墨の匂いだけに戻った。


 英定は椅子へ深く腰を預けた。胸の内側が、ここへ来て少し重い。無理もない。倒れてからまだ日が浅い。玉の身体に意識を移したことが、どれほどこの肉体を削ったのか、今はまだ測れない。測れぬものを抱えたまま動くのは気分が悪かった。


 机の上に手を置き、呼吸を整える。


 それでも、止まるわけにはいかない。


 午前の裁可はまだ残っている。皇宮へ返す文案も整えねばならぬし、地方守へ出す補助の名目も詰め直す必要がある。国神仕大輔としての一日は、英定一人の事情を待ってはくれない。


 そういうところは好ましかった。


 仕事は、人を待たぬ。

 待たぬからこそ、こちらも仕事の形を借りて進める。


 玉への試験書も、そうだ。

 あれは“仕事”の形をしている。

 だからこそ出せた。

 父の願いだけなら、ここまで真っ直ぐ送り出せなかったかもしれない。


 英定はそのことを少し考え、やめた。


 考えすぎれば、また問いへ戻る。

 なぜ玉を呼ぶのか。

 なぜ今なのか。

 なぜ父ではなく国神仕大輔として手を伸ばすのか。


 答えはもう、出ている。

 出ていて、しかもみっともない。

 みっともないものを何度も見返す趣味はなかった。


 戸口の外で、軽い足音が止まる。


「英定様」


 今度は朝いちに文を整えた侍女だった。声に張りがある。良くない報せではない。


「入れ」


 侍女が膝をつき、頭を下げる。


「先ほどの使いより、最初の継ぎへ無事渡ったとの報せが参りました」


 早い。


 英定は一瞬だけ、顔に出そうになる何かを抑えた。ほんの少しでも表に出れば、この侍女はきっと見逃さない。そういう眼をしている。


「予定どおりか」


「はい。道も荒れておらず、このままなら日暮れ前には第二の宿へ」


「分かった。下がれ」


 侍女は礼をして去る。

 扉が閉まるまで、英定は机の上の一点だけを見ていた。


 予定どおり。


 その四文字が、妙に胸へ沁みた。


 文が止まっていない。

 誰かの手で握り潰されてもいない。

 少なくとも今は、玉へ向かう道が繋がっている。


 それだけのことに安堵する自分を、英定はもう笑わなかった。


 笑えるような段階ではない。

 安堵している。

 それで十分、己のみっともなさは証明されている。


 それでも構わないと、今朝から何度目か分からぬ思考が胸の中で静かに起きる。


 構わない。

 誰にどう見られようと、あの子へ届くならそれでいい。


 英定は立ち上がった。体が少し重い。だが、重みの中にも芯がある。今朝、起きた時よりはまだましだ。


 窓辺へ歩み寄る。


 国神仕寮の庭は簡素で、余計な植え込みも少ない。役所にふさわしく整えられているが、どこか潤いに欠ける。その無愛想さが、英定にはむしろ落ち着いた。晴蒼が見れば「味気ありませんね」とでも言っただろうか。珠がいれば、石の白さを面白がって歩いたかもしれない。玉は――どうだろう。まずは黙って観察するだろうか。


 英定はそこまで考えて、ようやく気づく。


 もうこの邸へ玉が来る前提で、思考が動いている。


 断られる可能性もある。

 遅れるかもしれない。

 養父が強く反対するかもしれない。

 それでも心だけは、すでに“迎える側”になっている。


 危うい。


 英定は自分へそう告げた。


 期待は、人を鈍らせる。

 期待が大きいほど、崩れた時に判断を誤る。

 準基の頃から、それで何度も失ってきたはずだ。


 ならば今は、期待ではなく命として考えろ。


 玉を呼ぶための道は敷いた。

 次に必要なのは、来た後の段取りだ。

 どこへ住まわせるか。

 どういう名目で寮へ関わらせるか。

 養父への顔はどう立てるか。

 そして何より、玉の思考浸透をどう扱うか。


 そこまで考えたところで、英定の顔からわずかに熱が引いた。


 そうだ。

 ただ会いたいだけでは済まない。


 あの子の中には、すでに変化が起きている。

 夢、大樹、木の実、思考が伝わる感覚。

 あれが自分の憑依の余波だとすれば、放置はできない。

 父として会いたい。

 だが同時に、見極めねばならぬ。


 その二つが一つになっているからこそ、英定は玉を呼ぶ。


 ようやく、胸の中で少しだけ言葉が整った。


 私情だけではない。

 公務だけでもない。

 そのどちらか一方で言い切れぬからこそ、今の英定にはあの一通が必要だったのだ。


 英定は窓から離れ、机へ戻った。


 まだ日が高い。

 午前の仕事も、午後の段取りも残っている。

 けれど第一章のこの朝は、もう単なる仕事の朝ではなかった。


 長子へ向かう文が走り、国神仕大輔としての命が下り、余理英定としての願いがその下に隠れている。そういう朝だ。


 英定は残っていた裁可書へ手を伸ばした。


 そして、何事もなかったように筆を取る。


 都は動く。

 寮も動く。

 自分も動く。


 その流れの中へ、玉へ届く一通を混ぜ込んだのだと、英定は静かに理解していた。


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