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大樹  作者: 常居嗣子
第二章

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【1】降婿

 

 余理家との婚姻話が持ち上がった時、周囲はひどく慎重な顔をした。


 腫れ物に触る時の顔だった。


 胸の下に何かがストン、と落ちる感覚を覚えてる。


 まだ余理(より)英定(ひでさだ)ではなく、(えい)皇上子であった頃のことだ。元服を過ぎても縁談はほとんど無かった。


 無かったのではない。無いようにしたという方が正しい。病弱。人嫌い。滅多に表へ出ない。外へ出れば袖で手を隠し、視線は人の顔を避けがちで、何を考えているのか分かりにくい。


 皇家の子であるという一点を除けば、婿として喜ばれる要素は少なかった。


 英自身、その扱いに不満はなかった。


 誰かと睦まじく暮らしたいと思ったことがないわけではない。だが、そうした願いはたいてい現実の前で失せる。


 準基の頃に人の手の温かさを知り、同時にその手を失う重さも知った。明であった頃には、そもそも身体が弱く、誰かと穏やかな未来を思い描くこと自体が贅沢だった。英となってからは尚更だ。人に近づけば、自分の手が何をするか分からない。死が怖く、人が怖く、自分が一番怖い。


 そういう男に、婚姻という形がふさわしいとは到底思えなかった。


 だから、縁談がないことを哀れとは思わなかった。

 むしろ都合がよかった。


 その均衡を崩したのが、余理家だった。


 余理家は、朝廷に宝石を奉納する一族であり、神官族として新たに位を与えられた家だった。もともと鉱山業を営み、石を磨き、祈りの器として納めることを生業としてきたらしい。


 そこへ神祇との結びつきが強く認められ、近年になって一気に朝廷との距離を詰めた。


 その家の名を、英はすでに知っていた。


 正確には、家そのものではなく、断片的な噂として。


 宝石。

 神具。

 巫女舞。

 古い記録を家内に多く伝えているらしいこと。


 それらが、英の耳に引っかかった。


 能力について知りたいので婚姻を了承した。


 後から年表に落とすなら、そう書けるほど簡潔だったのかもしれない。だが実際の英の胸中は、もっと濁っていて、もっと薄暗かった。


 知りたい、だけではない。

 知ってしまいたい、に近かった。


 自分の力が何なのか。

 なぜ準基から明へ、明から英へと連なったのか。

 なぜ寿命を奪い、与え、人に触れることがこれほど恐ろしいのか。


 調べて何になる、という声も頭のどこかにあった。

 分かったところで、過去は戻らない。

 準基が救えなかった者たちも、明が耐えた歳月も、消えはしない。


 それでも、知らぬままでいることは、鈍い刃を胸に差したまま生きるのに似ていた。抜けない。けれど、どこが傷なのかも分からない。


 ならばせめて、刃の形くらいは知っておきたかった。


 その余理家が、新たな昇位に伴って皇家との婚姻を望んでいる。

 表向きには、家の箔付けとして、少し病弱で人嫌いな皇上子が選ばれたように見えたかもしれない。


 英はそうは受け取らなかった。


 相手もまた、何かを見ているのだと感じた。


 実際、最初に余理家の当主筋から挨拶があった時、その視線は妙に落ち着いていた。皇家の子へ向けるには敬いが足りぬ、という意味ではない。


 逆に、敬いに隠れて逃げる気配がない。値踏みするほど露骨でもない。だが、確かに見ていた。


 おそらく余理家の者は、英の持つ“異なり”を、ただの病弱として片づけてはいなかったのだろう。


 それが不快かと問われれば、むしろ違った。


 見抜かれることは恐ろしい。

 だが、見抜かれた先で即座に拒まれぬことは、さらに稀だった。


 英は婚姻を受けた。


 周囲は安堵したような、複雑な顔をしていた。ようやく皇家の子の一人が離れた安堵と、よりによって余理家かという戸惑い。どちらも透けて見えた。


 英は何も言わなかった。反対されるとも思わなかったし、賛意を求める気もなかった。


 今にして思えば、その時点でもう、英は余理家を“生家ではなく、何かを知るための場所”として見ていたのかもしれない。


 それは晴蒼に対して、少し不誠実だっただろう。


 けれど婚姻前の英に、そこまでの自覚はなかった。


 余理家へ初めて正式に足を踏み入れた日のことを、英はまだ比較的よく覚えている。


 空気が違った。


 皇家の邸のような重々しい広さではなく、商いの家特有の実用が至る所にあり、その上へ神祇の静けさが薄く被さっている。人が動く気配はあるのに、無闇に話し声が響かない。磨かれた石が光を返し、棚には見慣れぬ神具が整然と置かれていた。豪奢とも質素とも言い切れぬ、不思議な家だった。


 英はその家の匂いに、少しだけ息を深くした。


 安心したのかもしれない。

 あるいは、警戒が一段深くなったのかもしれない。


 どちらにせよ、それまでの英にとって“ただの婚家”ではなかった。


 案内されて通された座敷には、すでに一人の女がいた。


 後に妻となる、余理晴蒼である。


 晴蒼は、英が想像していたよりもずっと静かな顔をしていた。美しいかと問われれば、美しいのだろう。


 だが、都で語られるような目を引く華やかさとは違う。灯の下で石の色を見定めるような目をした女だった。まっすぐこちらを見るくせに、相手を追い詰めるほどの圧はない。見て、測り、黙って待つ目だ。


 英は、その目が少し苦手だった。


 自分の内側を暴こうとする者の目は、たいていもっと貪欲か、もっと怯えている。晴蒼の目にはどちらもなかった。ただ“そこにあるものを見ている”だけの静けさがあって、その静けさが英には読みにくかった。


 最初の挨拶は、ごく短かった。


 名を名乗り、礼を交わし、形どおりの言葉を述べる。それだけなら、特筆すべきことは何もない。変だったのは、そのあとだ。人払いがされ、座敷に二人だけになった時、晴蒼が少しも間を置かずに言った。


「不思議なお力をお持ちなのですね」


 英は、その一言で女の評価を半分変えた。


 驚きはした。

 だが、怯みはしなかった。


 怒るほどでもない。

 むしろ、ようやく話が早い相手に当たったという感覚に近かった。


「そう見えるか」


 英が言うと、晴蒼は少し首を傾けた。


「見える、というより、見過ごせない感じがいたします」


「曖昧だな」


「曖昧なものを、曖昧でないふりをする方が失礼でしょう」


 英はその時、ほんのわずかに口元を動かした。

 笑ったわけではない。

 けれど、面白いと思った。


 そういう返しをする女なのだと知ったからだ。


 晴蒼は続けた。


「父も家の者も、細かなことまでは存じません。ですが、何か普通ではないものをお持ちだとは感じております」


「それで婚姻を受けたのか」


「それも理由の一つです」


 それ、と晴蒼は言った。

 他にも理由があるという顔だ。


 英は聞かなかった。

 今さら、余理家が皇家との縁を必要とする理由など、いくらでもある。昇位した家ならなおさらだ。そこへ“普通ではない皇上子”という珍しさが上乗せされたとしても、別段不思議ではない。


 けれど、晴蒼は英が問わぬまま言った。


「知らぬまま恐れるより、知ろうとした方がましだと思いました」


 英はその言葉に少しだけ目を細めた。


 知らぬまま恐れるより。

 知ろうとした方がまし。


 その理屈は、英の内側にひどくまっすぐ入ってきた。


 準基の頃、自分を見ていた者たちは、たいてい恐れだけを先に選んだ。明の頃も、英の幼い日々も、大きく違いはしない。分からぬものは怖い。怖いものは遠ざける。それが普通だ。普通であることに、今さら怒る気もなかった。


 だが、この女は、その“普通”の前で一歩止まるのだ。


 英はそこで、初めて自分から言った。


「私にも分からぬ」


 晴蒼は黙って聞いていた。


「力の起こりも、理も、完全には分からない。記録があるなら知りたい」


「なら、探します」


 即答だった。


 英は少し間を置いて、問い返した。


「私が何を持っているかも知らずにか」


「知らぬからこそです」


 また、その言い方だった。

 感情を煽らない。

 約束のようでいて、どこか事務的ですらある。


 けれど、その静けさが英にはありがたかった。


 同情される方がよほど困る。

 哀れまれる方がなお厭だ。

 晴蒼の言葉には、そのどちらもなかった。


 この女となら、少なくとも最初から怯えられずには済むかもしれない。


 そんなふうに思ったのが、婚姻前の英の、ひどくささやかな期待だった。


 今の英定から見れば、その期待はあまりに慎ましく、あまりに痛々しい。

 だが当時の英には、それで十分だった。


 余理家へ降婿する。

 英皇上子ではなく、余理英定となる。


 その先に何があるか、この時点ではまだ誰も知らない。

 晴蒼との間に玉が生まれ、珠が生まれ、余理邸が焼け、家族が散り、国神仕寮へ繋がっていくなど、まだ何一つ形を持っていない。


 それでも、振り返ればこの婚姻が一つの分岐だったことは確かだ。


 能力について知りたい。


 英がそう思って受けた縁は、やがて“知る”だけでは済まないものになる。

 家族を得る。

 家族を失う。

 そして、その喪失ごと背負って次へ行く。


 英定は今、正庁の机の前でそれを思い返しながら、目の前の紙へ視線を戻した。


 まだ婚姻の入口にすぎない。


 だが、その入口に立っていた若い英は、確かに少しだけ期待していたのだ。


 知らぬまま恐れられるより、知ろうとする者がそばにいることを。

 それがどれほど得難いことかを、あの時すでに知っていたから。

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