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大樹  作者: 常居嗣子
第二章

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【2】余理晴蒼



 余理晴蒼は、ある意味気立てのよい女ではなかった。


 誰にでも柔らかく笑いかけるわけでもなく、言葉を過度に飾るでもない。相手の機嫌を取り、場を丸く収めるために自分を曲げる類の女でもなかった。では気が強いのかと言えば、それとも少し違う。怒りや誇りを前へ突き出すのではなく、もっと静かな芯で立っている。


 英定は、婚姻してしばらく経ってから、その女の厄介さに気づいた。


 余理家へ降婿した当初、英定は晴蒼を“話の早い相手”として捉えていた。能力の異様さを感じ取り、それでも怯えず、記録を探すと言う。あれだけで、英定にとっては十分に特別だった。十分すぎるほどだった。人はたいてい、そこまでしてくれない。


 だが一緒に暮らし始めると、晴蒼は単に理解の早い女などではなかった。


 言うべきことは言う。

 聞くべきことは聞く。

 だが詰め寄らない。

 しかも、こちらが黙りたい時には黙らせておく。


 その加減が、恐ろしく上手かった。


 婚姻初日の夜、英定は寝所へ入ってきた晴蒼を見て、まず何を言うべきか分からなくなった。


 皇上子としての礼儀は知っている。

 明として静養邸で人と距離を取る術も覚えた。

 英として人を避ける癖も骨の中まで染みている。


 だが、夫として女と同じ部屋にいる時の作法など知らない。


 知らない、と認めるのも癪で、英定は結局いつものように無言になった。晴蒼はその無言をさほど気にした様子もなく、几帳の向こうに灯を置き、自分の髪から簪を外した。


 その動きが、やけに自然だった。


 気まずさがないわけではないのだろう。だが、そんなそぶりは見せない。英定はそれを、少し驚いて見ていた。


「何だ」


 つい聞いてしまったのは、晴蒼がこちらを見ていたからだった。


 晴蒼は手を止め、少しだけ首を傾けた。


「いえ」


「何か言いたげな顔をしている」


「そう見えますか」


「見える」


「でしたら、少しだけ」


 そこで晴蒼は、わずかに視線を緩めた。


「思っていたより、お声が低いのだなと」


 英定は一瞬、返事に詰まった。


 もっと気の利いたことを言うのかと思った。夫婦になったのだからよろしく、だの、今後のことだの。そういう“初夜らしい何か”が来ると身構えていたのに、落ちてきたのはそんな、どうでも良いようでいて意表を突く言葉だった。


「……そうか」


 それしか返せず、英定は内心で自分にうんざりした。


 だが晴蒼は気にするでもなく続けた。


「日中はあまりお話しになりませんから」


「話す必要がなかっただけだ」


「では今は必要がおありですか」


 英定は思わず晴蒼を見た。


 挑発とも違う。

 嫌味でもない。

 ただ、本当にそう問うている顔だった。


「ない」


「でしたら、無理にお話しくださらなくても」


 英定はそこで、初めて少しだけ息が楽になるのを感じた。


 この女は、沈黙を“失敗”として扱わない。


 それは大きかった。


 人と人が同席して言葉が続かなければ、多くの者は焦る。何か言わねばと思い、要らぬ話を重ね、こちらにもそれを強いる。英定はそれが苦手だった。言葉が必要だから話すのはよい。だが、沈黙を埋めるためだけの言葉は疲れる。


 晴蒼はそこを強いてこなかった。


「あなたも」


 英定が不意に言うと、晴蒼が目を上げた。


「話す必要がない時は、話さぬのだな」


「そうですね」


 晴蒼は少しだけ考える顔をして、それから頷いた。


「余理の家では、父も兄もよく黙ります。石を見る時も、値を決める時も、口数が多いと見誤ると教わりました」


「石と人は違うだろう」


「そうでしょうか」


 晴蒼の声は相変わらず平らだった。


「少なくとも、私にはあまり違わないように思えます。見て、少し会話して、そして軽々しく決めつけない方がたいてい間違いが少ないので」


 英定は、その言い方を妙に覚えている。


 軽々しく決めつけない。


 晴蒼という女の揺るがぬ芯が、そのままそこに出ていたからだ。


 婚姻から最初のひと月、英定は晴蒼を測りかねていた。


 優しいのか。

 冷たいのか。

 賢いのか。

 あるいは、余理家の利のために皇家の血筋を受け継いだ夫を手懐けようとしているのか。


 どれも少しずつ当たっていて、どれだけでもなかった。


 晴蒼は、英定の手へ無闇に触れようとしない。だが避けもしない。食事の時には向かいへ座るし、必要なら文を持ってくる。体調が悪そうなら湯を置いていく。けれど「大丈夫ですか」とはあまり聞かない。聞いたところで、英定が素直に答えぬと見切っているのだろう。


 それがありがたく、少しだけ腹立たしかった。


 人の扱いに慣れているのだ、この女は。

 商いの家に生まれ、神具と石を見、人の顔色と利を読み、必要なら引くことも覚えてきたのだろう。


 ある夜、英定は書物に目を落としたまま、ふいに問うたことがある。


「私を恐ろしくはないのか」


 問うてから、くだらないことを聞いたと後悔した。

 そんなもの、恐ろしくないと言われたところで慰めにもならない。

 恐ろしいと言われれば、それはそれで終わる。


 晴蒼は針仕事の手を止めずに答えた。


「恐ろしくない、とは申しません」


 英定はその答えに少し目を細めた。

 やはりそうか、とも思った。


 けれど晴蒼は続けた。


「けれど、知らぬままにしておく方が、もっと恐ろしいと思います」


「知れば怖くなくなると?」


「いえ。知っても怖いものは怖いでしょう」


 そこで初めて、晴蒼は手を止めた。


 針を布へ置き、英定の方を見る。


「ですが、怖いものを何も知らぬまま傍へ置くのは、あまりに愚かです」


「……それで、知ろうとするのか」


「はい」


「私が、知ってなお側に置くに値する相手かどうかも分からぬのに」


「分からぬから調べるのでしょう」


 少しも迷わない声だった。


 英定はその夜、返す言葉を失った。

 議論で負けたというより、自分とは違う種類の強さへ触れてしまった感じに近かった。


 晴蒼は、英定を甘やかさない。

 だが追い詰めもしない。

 事実としてそこにあるものを見て、必要なら受け止め、必要なら一歩退く。


 その態度に、英定は少しずつ慣れていった。


 慣れていくうち、気づけば日々の中に小さな“当たり前”が増えていた。


 朝、目覚めた時に隣の気配がある。

 食事の膳に、自分の嫌うものがさりげなく減っている。

 人前では言いにくいことを、晴蒼が代わりに家の者へ伝えている。

 余理家の記録を探した結果、何も見つからぬと知っても、晴蒼がその報告を淡々と続ける。


 それらはどれも、劇的なことではない。


 ないからこそ、英定は後になってようやく、その積み重ねがどれほど“家”らしいものだったかを知った。


 晴蒼は、愛を語る女ではなかった。

 英定もまた、情を口にする男ではなかった。


 だから二人の間にあったものを、睦まじいと呼ぶ者は少なかっただろう。

 付かず離れず。


 だが、一緒に暮らすというのは、結局ああいうことなのかもしれないと、今の英定は思う。


 過度に近寄らず、けれど気配を絶やさない。

 相手の沈黙を、無理に埋めようとしない。

 必要なことだけを差し出し、必要な時だけ手を伸ばす。


 英定には、その距離が心地よかった。


 そして心地よかったからこそ、喪失は深く刺さった。


 正庁の机へ向かったまま、英定は筆を取らずにしばし目を閉じた。


 晴蒼の顔を思い出す。

 よく笑わぬ女だった。

 けれど、まったく笑わぬわけでもなかった。


 時折、宝石の光を見ている時。

 珠が妙な声を出して乳母を困らせた時。

 英定が余理家の石の違いを真面目に覚えようとして、見当違いのことを言った時。


 そういう時だけ、ほんの少しだけ目がやわらいだ。


 英定はその表情を好ましかったと、今なら認められる。

 当時は認めなかった。

 認めれば足元が揺らぐ気がした。


 人に慣れることは、失った時の痛みを深くする。

 その理屈を、英定は準基の頃から知っていた。


 知っていて、それでも晴蒼に慣れていった。


 だから、あの夜は痛かったのだ。


 筆を取る代わりに、英定は小さく息を吐いた。


 

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