【8】玉
皇宮の使者が去ったあと、執務室の空気はわずかに緩んだ。
若い官は露骨に肩の力を抜き、年嵩の官はそんな様子を見ぬふりで紙束を整えている。英定はどちらにも何も言わず、机の端に寄せていた書類を二、三枚だけ手に取った。目は通す。だが頭には入らない。文字の形だけが視界を滑っていき、その背後で別のことばかりが静かに燃えている。
玉。
それも、ただ名だけではない。
玉が字を読む時の視線の落ち方。
養父へ返事をする前に置く、あの短い間。
痛みを堪える時に、利き手の指がわずかに丸まる癖。
あの二日間で知ってしまった細部が、今朝から何度も英定の内側を掠めていく。
知らなければよかったのだろうか、とも思う。
だが、いまさらその問いに意味はない。
英定は紙を置き、窓の外へ目を向けた。
皇都はすでに朝の顔を整えている。遠くに見える屋根の重なり、その向こうに薄く霞む空、市の方から上がる音。都は何も知らぬように動いている。人が何十人死のうと、家が一つ焼けようと、長子へ向けてたった一通の文が走ろうと、都は都として朝を始める。その無関心さを、英定は昔から嫌いではなかった。人の不幸にいちいち世界が付き合っていては、息もできぬ。
けれど今朝ばかりは、その平然さが少し遠かった。
なぜ玉を呼ぶのか。
問いの形にすると、あまりにも単純だ。
長子だから。
自分の子だから。
手元へ置けなかったから。
それで十分なはずなのに、英定の中ではどれも決定打になりきらない。
長子だから呼ぶのなら、もっと早く道を作れたはずだ。
自分の子だからというなら、珠に対しても同じだけの何かを、今すぐ示せねば筋が通らない。
手元へ置けなかった後悔だけなら、あの夜以前にもいくらでもあった。
それでも今朝、試験書は出た。
ならば理由は、もっとみっともないところにあるのだろうと英定は思う。
失いたくないのだ。
それだけなら、父の情と呼べる。
だが英定のそれは、もっと濁っている気がした。
失い続けてきたから。
ようやく繋がったから。
しかも、自分の手で。
準基の頃、守れなかったものがある。
明の頃、手を伸ばす前に遠ざかったものがある。
英となってからは、ようやく形になった家が、炎の中で壊れた。
晴蒼。
珠。
玉。
玉だけが生きている、と知った時の安堵は確かにあった。
だがあの頃の英定は、玉へ届くまでの道を持たなかった。
今は違う。
国神仕寮がある。
国神仕大輔という地位がある。
公の名で人を呼ぶ手段がある。
つまり今の英定は、昔よりずっと“取りに行ける”立場にいる。
そのことが、英定自身を少しだけ怖くさせた。
取れるなら取りたくなる。
近づけるなら手元へ置きたくなる。
失う前に囲い込みたくなる。
それは父性か。
それとも、喪失に怯える獣じみた執着か。
はっきりとは分からない。
「英定様」
年嵩の官が、控えめに声をかけた。英定は視線だけで続きを促す。
「地方守からの追記でございます。昨年の件以来、国神仕寮を頼る声が増えたと」
「……どこも同じだな」
「はい。祭祀だけでなく、揉め事の仲裁まで持ち込まれております」
英定は小さく息を吐いた。
頼られるのは悪いことではない。
だが、頼られすぎるのも面倒だった。
神祇に関わる役所は、本来もっと曖昧でよい。便利な解決役として扱われ始めれば、そのぶん恨みも集まる。
「断れるものは断れ」
「どのあたりまでを」
「人が怠けて起こした揉め事までは知らぬ。だが、土地神や祭具の名を出して互いに譲らぬ類は拾え」
「承知いたしました」
年嵩の官が引く。
英定はその背を見送りながら、ふと思う。
寮へ持ち込まれる揉め事の多くは、理屈ではなく感情で膨らんでいる。面子、恐れ、昔からの恨み、分からぬことへの不安。そこへ神の名が乗ると、人は途端に引けなくなる。
自分も同じではないか。
玉を呼ぶ理由を、英定は理で整えた。学才、素養、神鎮への適性。どれも嘘ではない。嘘ではないが、それだけでもない。
感情だ。
後悔だ。
遅れてきた父性だ。
そして、もう二度と失いたくないという、あまりに身勝手な願いだ。
英定はそのことを、他人へ説明する気はなかった。
説明したところで、美しく聞こえることはない。
むしろ聞く者を怯えさせるだけだろう。
国神仕大輔が、長子一人にそこまで執着する。
その姿は、たぶん健全ではない。
だからこそ英定は、国神仕大輔として呼ぶのだ。
父としてではなく。
長として。
公の理をもって。
それならまだ、人は受け入れる余地がある。
そこまで考えて、英定は少しだけ唇を歪めた。
ずいぶんと卑怯なやり方だ、と自分でも思う。
父として欲しいものを、公の顔で取りにいく。
だが、他に道がない。
晴蒼が生きていれば違ったかもしれない。
あの女なら、もっと別の形を探しただろうか。
珠が手元にいれば、英定の目はここまで玉へ偏らなかっただろうか。
考えても詮のないことばかりが浮かぶ。
過去に「もし」はない。
あるのは、今手元にある道だけだ。
英定は立ち上がった。
座っていても、同じ問いが巡るだけだと分かったからだ。身体を動かしたところで答えが出るわけではない。だが、立っている方が少しだけ考えが澱まない。
執務室の奥には、小さな地図棚がある。英定はそこへ歩み寄り、都から本家までの道筋が記された一枚を引き出した。何度も見た地図だ。宿場、川、関、山道。目で追えば、今朝出た使いがどのあたりを走っているか、つい計りたくなる。
馬鹿らしい、と英定は思う。
半日で届く距離ではない。
目で追っても文が早まることはない。
それでも指先は、無意識に最初の川沿いをなぞっていた。
そこで、はたと止まる。
ここまで露骨なのは、さすがにみっともない。
英定は指を離し、地図を棚へ戻した。だが止めた手の内側には、まだ薄く熱が残っている。呼ぶ理由。求める理由。手元へ置きたい理由。そのどれもが、結局は一つの熱へ集まっている。
「英定様」
若い官が、再び入り口近くから声をかけた。
「先ほどの市の件、顔役の名を改めてまとめます」
「そうしろ」
「……それと」
珍しく言い淀む。英定はそちらを見る。
「何だ」
「今朝の試験書の件、もしも先方が断った場合は」
英定は答えなかった。
断った場合。
考えなかったわけではない。
考えた上で、今はまだ言葉にしたくない問いだった。
玉が来たくないと言う可能性。
養父が意地でも手放さぬ可能性。
あるいは、もっと別のところで文が止まる可能性。
どれもあり得る。
あり得るが、今この場で口に出せば、それだけで現実味を持ちそうで厭だった。
若い官は自分の失言に気づいたのか、慌てて頭を下げる。
「も、申し訳ございません」
「いや」
英定はようやく口を開いた。
「断られた時に考える」
声は平坦だった。
だが、それで十分だと若い官も分かったらしい。深く礼をして下がる。
断られた時に考える。
自分で言っておいて、それは半分しか真実ではないと英定は知っている。今の時点で考えていないはずがない。考えてしまっているからこそ、言葉にしないだけだ。
もし玉が来なければ。
もし来られなければ。
その時、自分はまた公の道で次の手を打つのだろうか。
それとも父として諦めるのだろうか。
諦める、という言葉が胸に落ちた時、英定は即座に否定した。
無理だ、と分かる。
もう、あの子を知らぬままではいられない。
あの二日間があった以上、今さら以前のような遠い父では戻れない。
そこまで自覚して、英定はやっと認めた。
自分は玉を呼びたいのではない。
取り戻したいのだ。
たとえ、その言い方がどれほど身勝手でも。
英定はそっと目を閉じた。
ほんの一瞬だけ。
晴蒼の遺した紙。
珠の空席。
玉の身体に残っていた温度。
すべてが、今朝の自分を同じ方向へ押している。
「……今度は」
吐息のようにこぼし、英定は目を開けた。
その先は口にしない。
口にすれば、願いになりすぎる。
願いは時に、人を鈍らせる。
必要なのは願いではなく段取りだ。
そう言い聞かせるように、英定は机へ戻った。
机の端には、次に処理すべき書類が待っている。地方守への返答、皇宮へ返す文案、神鎮部の人員割り。どれも目の前の役目だ。そこへ自分の私情を混ぜぬまま片づける。それができるからこそ、今の地位に立っている。
だが英定は知っている。
どれほど整えても、今朝の自分の中心にはたった一つしかないのだと。
玉を呼ぶ理由。
それは公文に書けるような端正なものではなかった。
ただ、遅すぎた父が、ようやく自分の手で道を引いたという、それだけのことだった。




