【7】皇都
国神仕寮の廊下は、皇宮へ近い建物特有の乾いた匂いがした。
木と紙と墨の匂い。人の行き交う場所でありながら、汗や土の匂いは薄い。都の中枢に近づくほど、暮らしの生々しさは布の下へ押し込められる。その代わりに残るのは、整えられた表情と、口にされぬ思惑だった。
英定は正庁を出て、南側の渡り廊下へ向かった。
その先には、地方守から届いた報告や、都の中で拾い上げた民の声を仮置きしておく一室がある。国神仕寮は神祇に関わるだけの役所ではない。
少なくとも今の英定にとっては、そうではなかった。祭祀の暦を整えるだけで国が保つなら、世はもっと穏やかだ。実際には、飢えも、怯えも、土地の騒ぎも、神の名のもとに処理されることがいくらでもある。
そして昨年から今年にかけて、その類の“騒ぎ”は増えた。
九百十二年。
皇上の周囲にいた朝廷家臣が、まとめて七十八名逝去した年。
その数字を、都の人間は今も忘れていない。
忘れられるはずがない、と英定は思う。
人は一人ずつ死ぬものだ。病であれ、老いであれ、事故であれ。なのにあの年、都の中心にいた者たちが、まるで見えぬ刃で薙がれるように逝った。朝廷は騒然とし、皇宮は恐れ、都人は口々に祟りだの穢れだのと言い立てた。そこへ国神仕寮が動いた。
民へ食糧を流し、地方守へ指示を出し、都の外で起こる小さな騒ぎを先に鎮めた。あの時、国神仕寮はようやく“名だけの役所ではない”と都に認識されたのだろう。
もっとも、その認識が感謝だけで成り立っているとは、英定はこれっぽっちも思っていない。
救われれば、頼る。
頼れば、怖れる。
怖れれば、いずれ遠ざけようとする。
人の心はだいたい、その順で動く。
「英定様」
報告室の前に控えていた若い官が、膝を折った。まだ年は二十に届かぬか。目が真っ直ぐで、少しばかり世慣れていない顔をしている。
「今朝の分を、こちらへまとめております」
「見せろ」
英定が中へ入ると、部屋の中はすでに紙で埋まっていた。机が二つ、低い棚が三つ、そのどこにも報告書が重ねられている。都の中だけでなく、外からも届く。地方守、各地の神社、検非違使の下役、時には商人や旅人の話まで、選り分けてここへ上げさせている。役所としては少々行儀が悪い。だが、整った報告だけ待っていれば手遅れになることを、英定は知っていた。
若い官が一番上の紙束を差し出した。
「東の市で、また妙な噂が」
「どんな」
「昨年の七十八名逝去についてです。あれは国神仕寮が先に知っていたのではないか、と」
英定は紙を受け取り、ざっと目を通した。
市井の噂というのは、くだらぬようでいて侮れない。誰が最初に言い出したのか分からぬまま、いつの間にか形を持つ。祟りが天罰になり、天罰が陰謀になり、陰謀が“誰かの得”として結びつく。都に生きる者は、何かが起これば必ず、得をした者を探すからだ。
そしてあの騒ぎで、結果として得をしたように見えたのは国神仕寮だった。
英定は紙を机へ置いた。
「先に知っていたか、と問われれば、答えは“いいや”だ」
「ですが、民は」
「民は知りたいのではない。安心したいだけだ」
若い官が口を閉じる。英定はその顔を一瞥した。
「理由があれば怖れは薄れる。どんな理由でもよい。祟りでも、陰謀でも、誰かの企みでも。名をつけられぬものが一番怖い」
「……では、この噂は放置を」
「放置はするな。だが否定もしすぎるな」
若い官の眉が寄る。
「否定しすぎると、かえって“隠している”になる。市の顔役にだけ伝えろ。寮はあの時、民へ食糧を回すので手一杯だった、と」
「それは事実ですね」
「事実だ。だから使える」
若い官が頷きながら書き留める。その脇で、英定は別の紙束へ手を伸ばした。こちらは地方守からの定例報告だ。堤の補修、祭祀のやり直し、田の水路、牛馬の病。都の中心で人が何十も死ねば、地方は地方で別の形で揺れる。
七十八名逝去の後、国神仕寮が動かなければ、都の騒ぎはそのまま地方へも燃え移っていただろう。
民は不安に弱い。
飢えは不安を広げる。
広がれば、誰かを祟りの的にする。
準基の頃、自分がまさにその的だった。
英定の指が、紙の端でぴたりと止まる。
妖と呼ばれた。
人の寿命を操る者。
救う者でありながら、同時に災いでもある者。
あの頃の都とは時代も顔ぶれも違う。だが、本質は何も変わらぬ気がしていた。理解できぬものに名をつけ、恐れ、追いやる。人は昔から、そればかりが上手い。
「英定様」
別の官が、奥から進み出た。年嵩で、顔色の悪い男だ。寝不足なのか、もとよりこういう色なのか分かりにくい。
「西の市でも似た話が出ております。ただ、こちらはもう少し具体的で……」
「読め」
「はい。‘七十八名の死は、寮が妖の学を用いた結果ではないか’と」
室内が、ほんのわずかに静かになった。
若い官が息を止めたのが分かる。年嵩の男は紙へ目を落としたまま、声色を変えない。慣れているのだろう。英定の前で“妖”の字を読むことに。
英定は椅子へ深く腰をかけた。
「続けろ」
「‘国神仕大輔は、かつて処刑された準基を調べさせている。ならば、その学を継いでいてもおかしくはない’と」
若い官の喉が上下した。英定はその動きを見たが、何も言わない。
そうだろう、と心のどこかで思う。
準基の名を穢れとして口にする者は多い。忌学として遠ざけ、二度と掘り返すなと言う者もいる。だが禁じられた名ほど、人は陰で囁きたがる。そして、国神仕寮がその名を記録に置き続けていることも、都ではすでに知られている。
英定はわざとそうさせたところもあった。
完全に隠せば、却って別の形で疑惑が膨らむ。ならば半ば公然と置いておく方が、むしろ扱いやすい。そう判断してきた。
もっとも、その判断の底に私怨がないと言えば嘘になる。準基という名を穢れとだけしておくことが、どうしても我慢ならなかった。
「英定様……?」
若い官の声が、ためらいがちに落ちた。英定はそこで初めて、少し長く黙っていたのだと気づく。
「この噂は」
英定はゆっくり言った。
「放っておけ」
「ですが」
「火がついたばかりの時に踏み消すと、足跡が残る」
年嵩の官が、わずかに目を細める。
「では、市の顔役にも伝えませんか」
「伝えるな。まだ“面白い話”の域だ。本気で信じる者が出てから動け」
若い官が不安そうな顔をした。英定はその視線を正面から受ける。
「怖いか」
問いかけると、若い官は明らかに慌てた。
「い、いえ、その」
「嘘をつけ。怖い顔をしている」
思わず漏れたような沈黙のあと、年嵩の官が小さく咳払いをした。若い官はさらに青ざめる。英定はそこで初めて、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「別に咎めない。噂は怖いものだ。まして、自分の仕える寮がその中心に置かれるならなおさらだ」
「……はい」
「だが、怖がるだけでは役に立たぬ。怖いなら、どこまで広がっているかを先に掴め。それが仕事だ」
若い官ははっとしたように背筋を伸ばした。
「承知いたしました」
英定は頷き、別の書類へ視線を落とす。
国神仕寮は賞賛されてもいる。民に食糧を回した。地方守を支えた。七十八名逝去の後、都の外の混乱を抑えた。そういう記憶は確かに残っている。
だが、それだけで終わるはずがない。
賞賛と恐怖は、同じ皿の裏表だ。
どちらかだけを受け取れると思うほど、英定は若くなかった。
報告の山をひとまず片づけ終えたところで、廊下の向こうに人の気配が集まるのが分かった。皇宮からの使いだろう。衣擦れに混じる、妙に整った足音。寮の者たちより一段だけ柔らかく、しかし遠慮がない。
寮補がすぐに戸口へ現れる。
「英定様、皇宮より」
「通せ」
英定は紙束を机の端へ寄せた。若い官と年嵩の官は素早く下がり、部屋の隅へ控える。動きは悪くない。少なくとも、人前でうろたえる寮ではない。
使者は二人だった。どちらも皇宮仕えらしい、隙の少ない顔をしている。先に進み出た男が頭を下げた。
「寶皇上の御前より、国神仕大輔へお尋ねがございます」
「聞こう」
「昨年より続く地方守への支援と、都外への米の分配について。寮が独断で進めている部分があると、いくつか声が上がっております」
英定は表情を変えなかった。
来ると思っていた問いだ。
むしろ遅いくらいだった。
「独断ではない」
「では」
「遅いだけだ。皇宮の決裁が下る頃には、人は腹を空かせる」
使者の顔に、ごくわずかな硬さが走る。無礼だと取る者もいるだろう。だが英定は続けた。
「支援を止めれば、都の不安が地方へ伝わり広がる。地方の飢えが都へ戻る。それを防いだだけだ」
もう一人の使者が口を開く。
「その理は分かります。ですが、民の口には“国神仕寮に救われた”との声が多く」
「だから何だ」
英定の声は低く、平板だった。
「民が腹を満たして喋るなら、結構なことだろう。飢えて黙るよりは」
一瞬、空気が張る。
部屋の隅で若い官が息を止めたのが分かった。年嵩の官は微動だにしない。皇宮の使者二人は、英定の言葉のどこまでをそのまま持ち帰るか考えている顔をしていた。
英定はその沈黙を待ったあとで、少しだけ語調を緩めた。
「ただし、皇宮の威を損なうつもりはない。必要なら文面を整えよう。救済ではなく、各地守への補助という名にする。表に出す名目くらいは、そちらの望む形へ寄せられる」
先の男がわずかに目を見開く。強く出た直後に譲る。そういうやり方に慣れていないのだろう。
英定は心の中で淡く息を吐いた。
人は、強さと柔らかさを続けて出されると少し判断を誤る。先に譲歩だけ見せれば押し込まれる。先に強さだけ見せれば角が立つ。だから順番が要る。こういうことばかりが、年を重ねるごとに上手くなる。
「……御意は承りました」
使者はそう言って頭を下げた。
「神鎮部の人員についても、いくつか問われておりますが」
「それは後で書面で返す。口で言うには長い」
「承知いたしました」
話はそこで終わった。使者たちは丁重に辞し、部屋の外へ消える。戸が閉まると、若い官がようやく小さく息を吐いた。
英定はそれを聞きながら、机の上の紙を整えた。
これが皇都の空気だった。
表では整い、裏では疑い、賞しながら恐れ、頼りながら遠ざけようとする。国神仕寮はそのど真ん中に立っている。英定自身もまた、そうだ。
英雄視される。
同時に、妖の学を継ぐのではと囁かれる。
そのどちらも、完全には否定できないのが厄介だった。
若い官が恐る恐る口を開く。
「英定様」
「何だ」
「……先ほどの噂の件、やはり注視だけは続けます」
「続けろ」
「もし、準基の名がさらに広がるようであれば」
英定は机の上へ視線を落としたまま答えた。
「その時は私が決める」
「はい」
若い官は深く頭を下げた。
私が決める。
言葉にしてから、その重さが少し遅れて胸へ落ちた。準基の名が広がれば、やがて英定自身へも返ってくる。分かっている。むしろ、いずれそうなるような気もしている。隠し続けられるような生ではない。
だが今はまだ、その時ではない。
今は一通の試験書が、都の外を走っている。
他の何より先に、その先を見届けねばならなかった。
英定は立ち上がった。
窓の外には、すっかり朝になった皇都がある。人の声、車輪の音、遠くで鳴る市のざわめき。美しくも醜くもある都の音だ。
その中のどこかに、玉の養父がいて、玉がいて、やがてあの子の手に文が渡る。
賞賛も、疑いも、政治も、噂も。
全部まとめて皇都の空気だ。
ならば、その空気の中でこそ、自分は最も冷たく立たねばならない。
英定は袖を整えた。
そうしておかねば、胸の内にあるたった一つの私情が、あまりに目立ちすぎる気がした。




