【6】晴蒼の部屋
国神仕寮の正庁は、朝のうちがいちばん静かだ。
人がいないわけではない。むしろ逆で、必要な者だけが必要な音を立てて動いている時刻だからこそ、余計なざわめきがない。文箱を運ぶ者。暦面を確かめる者。各部から上がった書付を仕分ける者。誰もが口数少なく、自分の手の中にある役目だけを進めている。
英定はその空気を好んでいた。
好む、というと語弊があるかもしれない。心が和むわけではない。ただ、この場では人が余計な情を挟まずに働く。必要なことだけが前へ進む。その単純さが、英定には都合よかった。
正庁へ入ると、左右に控えていた文官たちが一斉に頭を垂れた。
「英定様」
「本日の裁可書でございます」
「天文部より、三日後の祭祀に関する確認が――」
声が重なりかける。英定は手を上げてそれを止めた。
「順に出せ」
それだけで十分だった。
前へ進み出た中年の文官が、すぐに最上段の書付を差し出す。手つきに無駄がない。よく躾いている、と英定は思う。国神仕寮を立てた当初、ここまで人を揃えるには少し骨が折れた。神祇に関わる者は、昔から自分の家の流儀に閉じこもりやすい。五部を束ねるとなればなおさらだ。神仕、天文、暦、時刻、神鎮。名を一つにしても、中に流れる血筋と癖まではすぐに揃わない。
だから最初の数年は、書式一つ整えさせるのにも時間がかかった。
その手間を思えば、今こうして差し出される紙束はずいぶん素直になったものだ。
英定は書付へ目を落とした。
祭祀の日取り、地方守への米の再分配、昨年の記録との照合、暦の修正。どれも急を要するものではないが、後回しにすると歪みが出る。国神仕寮とはそういう場所だった。劇的な出来事がなくとも、一つずつ手を入れねば国の端から綻んでいく。派手ではない。だからこそ、都の中枢にいる者ほど価値を見誤る。
「この祭祀、天文部の注記が甘い」
英定は紙の端を指で叩いた。
「雨の兆しがあるなら、地方守へ別便を出せ。供物の運搬路がぬかるむ」
文官がすぐに書き留める。
「米の再分配は、そのまま進めますか」
「進めろ。だが名目を“救済”だけにするな。労役の代価と混ぜろ」
「混ぜますと」
「飢えた民に施したとだけ聞こえれば、恩を売ったと反発する者が出る。働いた分を受け取ったと見せれば、受け手の矜持が保つ」
文官が短く息を呑んだ。若い。まだこういう言い回しに驚く歳なのだろう。英定は気にせず次の紙を取る。
正しさだけでは人は動かぬ。
救いだけでも動かぬ。
体面と理を両方立ててやって、ようやく少し進む。
そんなことは、準基の頃には知らなかった。知る余裕もなかった。ただ目の前の命を救うことだけで精一杯で、その先でどう憎まれるかまで考える余地がなかった。明の頃は逆に、考えるばかりで動けないことが多すぎた。
英定となってからようやく、動く前に整えることを覚えた気がする。
もっとも、その覚え方はあまり愉快なものではなかったが。
「次」
英定が言うと、別の文官が進み出た。こちらは壮年で、目の動きが速い。
「神鎮部より、次月の人員割りについて」
紙を受け取る。名前が並んでいる。どこへ誰を回すか、誰を都へ残すか。神鎮部は寮の中でも最も扱いが難しい。表向きは祭祀と守りの補佐、地方守との連携、穢れや騒擾への対処。だが実際には、人と土地の境目に立つ者たちだ。力も、勘も、忠誠も必要になる。そのどれか一つ欠けても、うまく回らない。
英定は一覧へ目を走らせ、二名の名を弾いた。
「この二人は外す」
「理由を伺っても」
「気が短い。地方では役に立つが、都近くへ置くと余計な衝突を招く」
「では代わりは」
「時刻部の補佐をしている若い者がいるだろう。あれを回せ」
壮年の文官がわずかに眉を動かした。
「……時刻部の者を、ですか」
「数字に強く、口が軽くない。神鎮には向く」
「承知いたしました」
異論がないわけではない。だが表には出さない。そういう顔つきになってきたのが、今の寮の少し良いところだった。英定は紙を脇へ置き、次の書類へ手を伸ばす。
正庁の空気は張っている。緊張はあるが、怯えではない。英定が機嫌を損ねぬようにと縮こまる者ばかりでは、寮はここまで育たなかっただろう。必要なのは、怖れよりも先に仕事を覚える者だ。
英定はその点では、むやみに怒鳴る上司ではなかった。冷たい、と言われることはある。気づけば人を切り捨てる目をすると、陰で囁かれているのも知っている。だが、感情に任せて机を叩く趣味はない。
その代わり、役に立たぬものを長く庇う気もない。
正庁の後方で、若い書記が紙を落とした。小さな音だったが、室内の静けさの中ではよく響く。書記は顔色を変え、すぐに拾い上げて頭を下げた。
「……申し訳ございません」
英定はそちらを一瞥しただけで、何も言わなかった。
若い書記がほっとしたように息をつく。その様子を見て、近くの年嵩の文官が内心で苦笑したのが分かった。英定はそれも見ないふりをする。
自分がどう見られているか、知らぬわけではない。
怖い男。
冷たい男。
病弱なくせに寮を束ねる厄介な上司。
あるいは、準基の名をわざわざ掘り返して研究させている奇妙な人物。
どれでも構わなかった。
今さら、好かれたい歳でもない。
ただし、侮られるのは困る。侮られた瞬間に、整えたものが崩れるからだ。
「英定様」
右手側に控えていた寮補が一歩進んだ。
「本日、皇宮より使いが参るとのこと。寶皇上の側より、先日の地方守への分配についてお聞きになりたいと」
英定はわずかに目を細めた。
早い。
もっとも、皇宮の耳が早いのは今に始まったことではない。都の中で何かが動けば、風のように伝わる。特に国神仕寮については、良くも悪くも視線が集まる。救いの手を差し出したと賞する者もいれば、朝廷の手を介さず民へ顔を売ったと取る者もいる。どちらも正しく、どちらも面倒だった。
「聞かれる内容は」
「米の配分と、地方守の動員、それから神鎮部の人員についても」
「……都合の悪いところばかりだな」
英定が淡々と言うと、寮補はわずかに口元を引き締めた。笑ってよいのか迷ったのだろう。英定にそういう顔を向けられる程度には、この男も寮に慣れてきている。
「昼までに答えを整えます」
「いや」
英定は首を振った。
「整えすぎるな。皇宮の者は、こちらが整えた文を嫌う。少し粗く見せろ」
「粗く、ですか」
「一から十まで揃っていると、予め身構えていたと思われる。実際その通りだとしても、思わせる必要はない」
「承知いたしました」
寮補が下がる。英定はそこで、ふと机の端へ視線を落とした。
今朝ここを出ていった試験書もまた、整えた文だった。だがあれは粗く見せる必要がない。むしろ整っていなければならない。養父が捨てられぬように。玉が手に取った時、迷いながらも都へ来る理由になるように。
公文に偽りはない。
ただ、公文の下に私情があるだけだ。
英定はそのことを胸の奥へ押し込み、次の書類へ目を戻した。
「本日の閲覧はここまでにする。午後は神鎮部の者を二人呼べ。地方の件を詰める」
文官たちが一斉に頭を下げる。
「は」
「それから」
英定は一つ息を挟んだ。
「今朝出した試験書の件、進路の報告だけは私へ直接持ってこい。他を経由させるな」
正庁の空気が、ほんのわずかに止まった。
命令自体はおかしくない。寮長自ら引き立てようとする人材がいることも、別段珍しくはない。だが、普段の英定なら細かな経路確認をわざわざ口には出さない。そこにいる全員が、そう感じたはずだった。
壮年の文官が一歩進み、低く答える。
「承知いたしました」
それで終わった。
誰も余計なことは言わない。
利口だ、と英定は思う。
だが、利口であることと、何も感じていないことは別だ。今の一言で、この正庁にいる者の何人かは気づいただろう。英定が何か特別な意図をもってその試験書を出したのだと。
それでも構わなかった。
完全に隠し通せるとは思っていない。
ただ、言葉にされぬうちはまだ扱える。
英定は立ち上がった。
胸の奥が少し軋む。だが立ち眩みはない。紙に埋もれている時より、むしろこうして人の前へ出た方が、身体の方は目を覚ますことがある。
皮肉なものだった。人嫌いで人の多い場を避け続けた少年が、今では人の視線の中でしか立っていられぬ時がある。
準基なら笑うだろうか。
明なら呆れるだろうか。
英定はそんなことを思い、すぐに捨てた。今ここにいるのは英定だ。国神仕大輔であり、余理英定であり、玉と珠の父である。いくつ名を重ねても、そのどれも途中で、どれも中途半端だ。だが中途半端なままでも進めるところまで進むしかない。
正庁の外へ出ると、廊下の向こうに朝の光が強く差していた。人が行き交い、文が運ばれ、都は都の一日を始めている。その流れのどこかに、今朝出した一通ももう混ざっている。
伯父家へ向かう文。
玉へ届くはずの文。
英定は歩きながら、表情を崩さなかった。
だが胸の内では、たった一つの行き先だけが、朝からずっと静かに燃え続けている。
国神仕大輔として下す命は幾つもある。
だが今朝、最も重かったのはあの一通だった。
それを誰にも悟らせぬまま、英定は次の部屋へ向かった。




