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大樹  作者: 常居嗣子
戻った夜

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【5】手紙


 晴蒼の遺した部屋を出たあとも、その筆跡は英定の胸のどこかへ薄く刺さったままだった。


 ――あなたは眠ってください。探し物は私がしておきます。


 あの女らしい文だ、と英定は思う。

 やさしいわけではない。甘いわけでもない。ただ事実のように、そうすると決めた者の声音で書かれている。晴蒼は何かを約束するとき、たいていそうだった。感情を上乗せしない。だからこそ、反故にできぬ重みがあった。


 英定は廊下を曲がり、再び文机のある部屋へ戻った。


 室内にはすでに朝の光が広がっている。夜のうちには輪郭しかなかったものが、今は一つひとつ形を持って目に入る。


重ねられた書類、乾き切った墨、湯を替えられた薬椀。すべてが整えられていて、主人の内側だけが整わぬまま置き去りにされているようでもあった。


 英定は机の前に座り、引き出しを開けた。


 奥に、紙が一枚しまわれている。


 昨夜から何度も頭に浮かべていたものだ。玉の身体にいた二日間の記憶と、その直後に処理した段取りが重なって、今では少し境目が曖昧になっている。だが、ここにある紙だけは現実だった。自分が戻った後、まだ混乱の残る頭で最低限を書き留めた覚え書きではなく、もっと切実で、もっと私的なもの。


 英定はそれを取り出した。


 紙は、折り目のところがわずかに擦れている。何度も見返したわけではない。むしろ逆だ。見返せずに、しかし捨てることもできず、ここにしまい込んでいた。英定はそれを静かに開いた。


 短い文面だった。


 長々と書く余裕などなかったし、そもそも玉の養父に見つからぬことを前提に残したものだ。目立ってはならない。怪しまれてもならない。だから用件だけを整えた。だが整えたつもりでも、今読むと、その行間にあまりに多くが滲んでいる。


 国神仕寮の名で招くこと。

 回復したなら、再び会いたいこと。

 義伯父には決して見せず、他言もしないこと。


 英定は紙を見つめたまま、しばらく動かなかった。


 再び会いたい。


 今なら、その一文がひどく愚かしく見える。

 父が子に向けるには、あまりに他人めいた言い方だ。

 けれどあの時の自分には、それが精一杯だった。


 玉の身体で目を覚ました時、英定の頭にあったのは混乱ではなく、奇妙な明晰さだった。伯父家の書院の配置も、玉の手の運びも、養父の癖も、すべて玉の記憶として自然に流れ込んでいた。だからこそ、怖かった。


 怖いのに、安堵もあった。


 玉が生きている。

 息をしている。

 学んでいる。

 文字を読み、言葉を選び、父に会ってみたいと、心のどこかで思っている。


 その事実に触れてしまった。


 英定は紙の端を指で押さえた。

 少しでも力を込めれば皺になる。破ることもできる。そんなことを考える自分が馬鹿らしい。破ったところで起きたことは消えないし、残したいと願った文面まで無かったことにはならない。


 あの二日間、玉は眠っていた。


 対象魂は眠る。


 それが、これまでに分かっている条件の一つだった。血縁、あるいは寿命を操った過去を持つ相手で、意識的に悩乱した時にのみ起きる憑依。起きてしまえば、相手は眠り、自分がその身体を動かす。理の通った説明に見える。だが実際には、理で受け止めきれる出来事ではない。


 玉の学力はそのまま使えた。

 記憶も、身体の癖も引き継いだ。

 けれど感情まで玉のものになるわけではない。


 だから養父に向けた言葉の一つひとつを、英定は選ばねばならなかった。玉ならこう言う。玉ならここで黙る。玉ならここで目を伏せる。そんなふうに、一つずつ真似ていった。真似ながら、同時に自分の長子がどう育ったのかを知っていった。


 あれは幸福だったのか、不幸だったのか。


 今も答えは出ない。


 ただ確かなのは、あの二日間で英定が後戻りできなくなったことだけだ。


 知らないままでいられなくなった。

 遠い伯父家の長子としてではなく、玉そのものの息遣いを知ってしまったからだ。


 英定は文面の最後へ目を落とす。


 そこには、他言無用の言葉がある。

 義伯父には伏せてほしいと、はっきり書いてある。


 あれを書いた時、英定は玉の養父を恐れていたわけではない。正しくは、面倒を増やしたくなかった。玉を呼ぶなら、公の理由で呼ばねばならぬ。父子の情だけでは、あの男は動かぬ。むしろ警戒して閉ざすだろう。だから手紙は手紙として、試験書は試験書として、別の道筋で届かせる必要があった。


 冷静だ、と自分でも思う。


 こういうところだけは、いつの時代の自分も変わらない。

 感情に揺れながら、その実、手順だけはきちんと組む。

 失った夜にもそうだった。

 晴蒼を失い、珠を失い、玉だけが遠くで無事だと知ったその時にも、英定はまず距離と人手と道筋を計った。


 人としてどうなのだろうと思う。

 だが、その冷えた部分がなければ、準基は二度目を得なかっただろうし、明も英もここまで来なかっただろう。


 生き延びるための形が、いつしか人格の骨になってしまったのだ。


 英定は紙を裏返した。


 何も書かれていない白が、妙に眩しい。

 そこへ新しく何かを書き足すことも考えた。玉へ向けて、もっと父らしい言葉を。昨夜のうちに残せなかった何かを。


 だがやめた。


 今さら私的な文を重ねれば、かえって全てが歪む。すでに試験書は発った。ここから先は、公の道で呼び寄せるしかない。そう決めたのは英定自身で、そこへ情を差し込みすぎれば、晴蒼ならきっと眉をひそめただろう。


 ――始めるなら、最後までやり遂げてください。


 言いそうだ、と英定は思った。


 ふっと、ほんの僅かに口元がやわらぐ。笑いとも言えぬ程度の緩みだ。晴蒼の記憶に触れた直後にそれが出るのは、英定自身にとっても意外だった。あの女は死んでもなお、人に段取りを守らせる。


 そのことが少しだけ可笑しかった。


 英定は紙を折り直した。

 一度きれいに折り目を整え、それから元の場所へ戻す。


 これはもう、役目を終えた文だ。


 伯父家に残した手紙そのものは、玉か、あるいは養父の手でどう扱われるか分からない。だが、英定の中ではすでに次の段階へ移っている。試験書が届き、玉がそれを読む。その時、あの子はどうするだろう。


 来るか。

 来ないか。

 来たいと思っても、養父が許さぬか。

 許されても、英定の邸へ入る直前で怯むか。


 どの可能性もある。


 英定は指先で机を二度、軽く叩いた。癖のようなものだ。考えが絡まると、音で切る。準基の頃からそうだったかは分からない。明の頃にはすでにあった。英定となってからは、書類の前でよく出る。


 玉は、自分を父として迎えるだろうか。


 思った途端、英定はすぐにその問いを打ち消した。

 迎えさせようなど、厚かましい。

 呼びつけているのはこちらだ。

 公の理屈を使って、長子を自分の近くへ寄せようとしているのはこちらなのだから。


 来てくれるだけでいい。

 まずはそれだけでいい。


 英定はそう思い、すぐにそれも半分は嘘だと気づいた。


 来たなら、手元へ置きたくなる。

 近くにいれば、今度こそ失いたくなくなる。

 そしてその欲が、父の情なのか、それとも喪失への執着なのか、英定自身にも判別がつかない。


 不気味だろう、と英定は自分へ思う。


 玉にとっても、周囲にとっても。

 英雄視される国神仕大輔が、実のところはこんなにもみっともなく長子へ執着しているなど。


 だが、それが事実だった。


 整えた公文の下には、整わぬ私情がある。

 冷静な指示の下には、遅すぎる父性がある。

 そういうものを抱えたまま、今日も仕事をするしかない。


 戸の外で衣擦れがした。


「英定様、失礼いたします」


 先ほどの侍女とは別の声だ。少し若い。英定は紙を完全に引き出しの奥へ戻し、何事もなかった顔で応じた。


「入れ」


 戸が開き、侍女が膝をつく。


「寮より使いが参っております。本日の裁可を仰ぎたいと」


「今行く」


 侍女は頭を下げたまま、「それと」と続けた。


「今朝お出しした試験書の件、脚の早い者を選びました。昼過ぎには最初の宿場へ届くかと」


 英定は一拍だけ黙った。


 昼過ぎ。

 その時刻に意味はない。ないのに、頭の中では勝手に距離を数える。どれほど進んだか、どの橋を渡り、どの山道を抜けたか。こういう時の自分は滑稽だと思う。だが止められない。


「そうか」


 たったそれだけ答える。


 それだけの返事に、侍女は深く礼をした。余計な言葉を差し挟まぬのは利口だった。英定のような主人に仕えるなら、利口である方が長く保つ。


 侍女が下がると、英定はゆっくり立ち上がった。


 もう、この部屋で私的な顔をしている時間は終わりだ。国神仕寮の長として、裁可し、判断し、都の空気を読み、朝廷の顔色を見て、必要なものを動かさねばならない。


 けれど、その前に一度だけ、英定は引き出しへ手を置いた。


 中には紙がある。

 昨夜の自分の切迫と、二日間の異常と、遅すぎる父の願いが、たった数行で折り畳まれている。


「……必ず、本人の手へ渡れ」


 ほとんど吐息のような声で言って、英定は手を離した。


 晴蒼は、探し物は自分がすると書いた。

 だが今、探さねばならぬものは、自分の手で掴みに行くしかない。


 英定は衣を整え、戸口へ向かった。


 私的な手紙は机の奥。

 公の試験書は、もう道を走っている。

 その二つの間に立っているのが、今の自分だった。


 そしてそのどちらも、玉へ繋がっている。


 戸を開けると、廊下の向こうに朝の光が伸びていた。英定は迷わずそこへ踏み出した。今日はまだ始まったばかりだ。だがもう、ただの朝ではない。


 玉へ向けて、道が一本、確かに引かれた朝だった。


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