【4】 晴蒼
朝餉を終え、薬の苦みがようやく喉の奥へ沈んだ頃、英定は人払いを命じた。
大仰なことではない。もともとこの邸には、主人の気分をうかがって口数を減らす者が多い。英定が「しばらく誰も寄せるな」と一言告げれば、それで十分だった。侍女も下働きも、必要以上の詮索をしない。そう躾けてきたのは英定自身であり、同時に、その沈黙に甘えてきたのもまた英定だった。
静けさの戻った廊下を、英定はゆっくりと歩いた。
珠の小部屋からさらに奥。日当たりのあまり良くない一角に、晴蒼の遺品をまとめた部屋がある。焼け落ちた余理邸から運び出されたものは多くない。むしろ、少なすぎると言ってよかった。少しの衣、舞に使う器具、簪、箱に収められた宝石の欠片、文が数通。それだけだ。
それだけしか残らなかった。
そう思うたび、英定の内側で何かが乾いた音を立てる。
戸の前に立つと、英定は一度だけ目を閉じた。珠の部屋へ入る時とは違う種類のためらいがある。あちらは空席だった。こちらは、失われたものがあまりにも少なすぎる。残骸しかない。だからこそ、却って直視しづらい。
指先で戸を押す。
薄いきしみとともに開いた室内は、ひやりとしていた。朝の光は細く、格子越しに床へ淡い帯を落としているだけだ。埃っぽさはない。手入れはされている。されているが、生きた部屋の空気ではない。保たれたまま、止まっている。
英定は中へ入った。
中央の卓には、布を掛けられた箱が並べられている。大きさも形もまちまちだ。余理邸から戻ったものを、誰かがきちんと選り分けたのだろう。英定はその「きちんと」に妙な怒りを覚えたことがある。失われた家の残りを、まるで記録品のように整えられるのが耐えがたかった。
だが結局、その怒りをどこへ向ければよいかは分からなかった。
従兄か。
灯台を倒した密偵か。
巫女舞を怪しんだ朝廷か。
余理という家の因習か。
あるいは、何も守れなかった自分自身か。
英定は一番手前の箱の布を取った
中にあったのは、細工の繊細な簪だった。銀の地に小さな青い石が散らされている。晴蒼が好んで差していたものだ。華やかではない。余理家の女たちは、奉納用の場ではもっと光の強い石を用いる。これは日常の髪に添えるためのものだった。
英定は簪を手に取る。
冷たい。重さはほとんどない。なのに、その軽さが腹立たしい。こんなもの一つに、晴蒼の面影を頼らねばならぬのかと思う。
晴蒼は、自分の持ち物に執着する質ではなかった。なくしたらなくしたで、少し考えて、すぐ別のものを使っただろう。けれど、物を粗末にも扱わなかった。使い込んだ簪も櫛も、衣も、どれも手の跡が美しかった。乱暴に置き散らかしたことがない。英定はそれを何度も見ていたのに、見ていただけだった。
声を思い出そうとする。
高くはない。柔らかくもない。静かな声だ。問い詰める時でさえ、抑えた響きを崩さない。英定が己の力を明かした時もそうだった。
怖い、とも。
化け物、とも。
なぜ黙っていたのか、と責めもしなかった。
ただ記録と言った。事実を。記録を。英定自身も知らぬ、己の力の出どころを。
あの時、英定は少しだけ救われたのだと思う。
部屋の隅には、長い箱が立てかけられていた。舞具を納めるものだ。英定はそちらへ歩み寄る。
蓋を開けると、細い鈴の連なった飾り、布帯、持ち手のついた神具が見えた。焼けた痕はない。奇跡的に運び出せたのだろう。そこにあるのは無事な品々なのに、英定にはどれも焼け跡の匂いをまとっているように思えた。
巫女舞。
あの夜、密偵が見てはならぬものを見た夜。
晴蒼が舞い、余理の者たちが灯を整え、英定がその場の異様な静けさに息を潜めた夜。
美しいと思った。
そして同時に、危ういとも思った。
あの危うさを、もっと早く言葉にしていれば違ったのか。密偵の気配を感じた時、もっと無理にでも止めていれば違ったのか。たとえ結果は同じでも、せめて晴蒼に違う最後を与えられたのではないか。
後悔は形を変え続ける。
英定は箱の縁へ手を置いたまま、しばらく動かなかった。
晴蒼の最期の顔を、英定ははっきり覚えていない。
それが何より腹立たしかった。
火の勢い、叫び、崩れる音、珠を託す声、走る人影。あの夜は全てが早すぎた。英定の記憶には断片しか残っていない。晴蒼の輪郭も、振り返った袖も、熱に揺れていたようにしか思い出せない。もっとちゃんと見ておけばよかったと、死者に向けるにはあまりに愚かな悔いが残る。
顔を忘れたわけではない。
だが、最後だけが曖昧だ。
あの曖昧さが、英定の中で傷口を塞がせない。
「……申し訳ありません」
不意に、声がこぼれた。
誰に向けたのか、自分でも分からなかった。
晴蒼か。
珠か。
玉か。
それとも、力を持ちながら結局守りきれなかった自分の生そのものか。
英定は口元を押さえた。謝罪など、今さら何の役にも立たない。死者は戻らず、失せた年月は埋まらない。だからこそ、言葉にした瞬間、自分の弱さを晒したようで忌々しかった。
けれど、部屋は何も返さない。
返ってくる気配がないことに、英定は逆に少し救われた。人がいれば、表情を整えねばならない。沈黙の意味を誤魔化さねばならない。だがここには誰もいない。晴蒼の遺したものだけが、淡々と存在している。
それがありがたかった。
英定は舞具の箱を閉じ、最後に残った文箱へ目を向けた。
中には数通の紙が重ねられていた。多くはない。晴蒼は筆まめな女ではなかったし、英定もまた文を交わすことを好まなかった。だからそこにあるのは、用件を書き留めたものか、家の事柄に関する記録ばかりだろうと思っていた。
だが、一枚だけ、見覚えのある折り方の紙があった。
英定はそれを取り上げる。
開くと、短い字が並んでいた。晴蒼の手だ。
――珠の夜泣きがひどいので、明日の祈りは昼へずらします。
――玉へ送る衣、余理本家の好みに合わせました。気に入らぬなら直します。
――あなたは眠ってください。探し物は私がしておきます。
最後の一行で、英定の呼吸が止まった。
探し物。
能力の記録のことだろう。自分の知らぬ力の起こりを、晴蒼はまだ本気で探していたのだ。英定よりも、むしろ真面目に。余理家の古い記録や神祇に近い家筋をあたり、何か手掛かりがないか調べていた。
英定は紙を見つめたまま、動けなかった。
あの女は、死ぬまで探していたのだ。
英定のために。
あるいは、英定と共に生きるために。
それを、今ごろになってたかが数行の筆跡で思い知るのは、あまりに遅い。遅いが、それでも知らぬよりは痛い。
英定は紙を丁寧に折り直し、文箱へ戻した。
そして、ゆっくりと部屋を見回す。
晴蒼の遺したものは少ない。だが少ないからこそ、その一つひとつが鋭い。英定の時間を、今でも容易く過去へ引きずり戻す。焼けた夜へ。珠が消え、玉が遠く、家が家でなくなった夜へ。
それでも今日は、そこに沈みきるわけにはいかなかった。
玉へ送った試験書は、もう走っている。
もしあの子が来るなら、英定はこの部屋のことから目を逸らしたままではいられない。晴蒼のことも、余理家のことも、遅かれ早かれ玉と向き合うことになる。長子にとっては母であり、失われた生家であり、自分の根だ。
英定は簪の箱へもう一度布を掛けた。
整えるように。だが片づけるのではなく。
まだそこにあってよいという形で。
戸口へ向かう途中、英定は振り返らなかった。今はまだ、振り返れば立ち止まってしまう気がした。
部屋を出て戸を閉める。
廊下の空気は、さっきよりも少しだけ温んでいた。朝はすっかり進み、邸のあちこちで人が動いている。生きた家の音だ。死者の気配ばかり辿っていた身には、少し眩しすぎるほどだった。
英定はその場にしばらく立ち尽くした。
晴蒼はもういない。
珠の行方はまだ知れない。
玉は遠い伯父家にいる。
だが、その玉へ向けた道だけは、今日確かに動き始めた。
それで全てが赦されるわけではない。
失ったものの代わりになるわけでもない。
それでも、晴蒼が最後まで探してくれていたものも、珠の空席も、玉の不在も、全部まとめて抱えたまま進むしかないのだと、英定は思った。
止まったままでは、何も戻らない。
英定は袖口を整え、歩き出した。
次に向かうのは、晴蒼の記憶ではない。
今の都、今の国神仕寮、今の自分の仕事だ。
そうでもしなければ、あの女の遺した言葉に顔向けができない気がした。
――あなたは眠ってください。探し物は私がしておきます。
あの短い一文が、ひどく胸に残る。
眠ってはいられない、と英定は心の中で返した。
もう誰も、自分の代わりに探してはくれないのだから。




