表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
大樹  作者: 常居嗣子
戻った夜

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

4/29

【4】 晴蒼


 朝餉を終え、薬の苦みがようやく喉の奥へ沈んだ頃、英定は人払いを命じた。


 大仰なことではない。もともとこの邸には、主人の気分をうかがって口数を減らす者が多い。英定が「しばらく誰も寄せるな」と一言告げれば、それで十分だった。侍女も下働きも、必要以上の詮索をしない。そう躾けてきたのは英定自身であり、同時に、その沈黙に甘えてきたのもまた英定だった。


 静けさの戻った廊下を、英定はゆっくりと歩いた。


 珠の小部屋からさらに奥。日当たりのあまり良くない一角に、晴蒼の遺品をまとめた部屋がある。焼け落ちた余理邸から運び出されたものは多くない。むしろ、少なすぎると言ってよかった。少しの衣、舞に使う器具、簪、箱に収められた宝石の欠片、文が数通。それだけだ。


 それだけしか残らなかった。


 そう思うたび、英定の内側で何かが乾いた音を立てる。


 戸の前に立つと、英定は一度だけ目を閉じた。珠の部屋へ入る時とは違う種類のためらいがある。あちらは空席だった。こちらは、失われたものがあまりにも少なすぎる。残骸しかない。だからこそ、却って直視しづらい。


 指先で戸を押す。


 薄いきしみとともに開いた室内は、ひやりとしていた。朝の光は細く、格子越しに床へ淡い帯を落としているだけだ。埃っぽさはない。手入れはされている。されているが、生きた部屋の空気ではない。保たれたまま、止まっている。


 英定は中へ入った。


 中央の卓には、布を掛けられた箱が並べられている。大きさも形もまちまちだ。余理邸から戻ったものを、誰かがきちんと選り分けたのだろう。英定はその「きちんと」に妙な怒りを覚えたことがある。失われた家の残りを、まるで記録品のように整えられるのが耐えがたかった。


 だが結局、その怒りをどこへ向ければよいかは分からなかった。


 従兄か。

 灯台を倒した密偵か。

 巫女舞を怪しんだ朝廷か。

 余理という家の因習か。

 あるいは、何も守れなかった自分自身か。


 英定は一番手前の箱の布を取った


 中にあったのは、細工の繊細な簪だった。銀の地に小さな青い石が散らされている。晴蒼が好んで差していたものだ。華やかではない。余理家の女たちは、奉納用の場ではもっと光の強い石を用いる。これは日常の髪に添えるためのものだった。


 英定は簪を手に取る。


 冷たい。重さはほとんどない。なのに、その軽さが腹立たしい。こんなもの一つに、晴蒼の面影を頼らねばならぬのかと思う。


 晴蒼は、自分の持ち物に執着する質ではなかった。なくしたらなくしたで、少し考えて、すぐ別のものを使っただろう。けれど、物を粗末にも扱わなかった。使い込んだ簪も櫛も、衣も、どれも手の跡が美しかった。乱暴に置き散らかしたことがない。英定はそれを何度も見ていたのに、見ていただけだった。


 声を思い出そうとする。


 高くはない。柔らかくもない。静かな声だ。問い詰める時でさえ、抑えた響きを崩さない。英定が己の力を明かした時もそうだった。


 怖い、とも。

 化け物、とも。

 なぜ黙っていたのか、と責めもしなかった。


 ただ記録と言った。事実を。記録を。英定自身も知らぬ、己の力の出どころを。


 あの時、英定は少しだけ救われたのだと思う。


 部屋の隅には、長い箱が立てかけられていた。舞具を納めるものだ。英定はそちらへ歩み寄る。


 蓋を開けると、細い鈴の連なった飾り、布帯、持ち手のついた神具が見えた。焼けた痕はない。奇跡的に運び出せたのだろう。そこにあるのは無事な品々なのに、英定にはどれも焼け跡の匂いをまとっているように思えた。


 巫女舞。


 あの夜、密偵が見てはならぬものを見た夜。

 晴蒼が舞い、余理の者たちが灯を整え、英定がその場の異様な静けさに息を潜めた夜。


 美しいと思った。

 そして同時に、危ういとも思った。


 あの危うさを、もっと早く言葉にしていれば違ったのか。密偵の気配を感じた時、もっと無理にでも止めていれば違ったのか。たとえ結果は同じでも、せめて晴蒼に違う最後を与えられたのではないか。


 後悔は形を変え続ける。


 英定は箱の縁へ手を置いたまま、しばらく動かなかった。


 晴蒼の最期の顔を、英定ははっきり覚えていない。


 それが何より腹立たしかった。


 火の勢い、叫び、崩れる音、珠を託す声、走る人影。あの夜は全てが早すぎた。英定の記憶には断片しか残っていない。晴蒼の輪郭も、振り返った袖も、熱に揺れていたようにしか思い出せない。もっとちゃんと見ておけばよかったと、死者に向けるにはあまりに愚かな悔いが残る。


 顔を忘れたわけではない。

 だが、最後だけが曖昧だ。


 あの曖昧さが、英定の中で傷口を塞がせない。


「……申し訳ありません」


 不意に、声がこぼれた。


 誰に向けたのか、自分でも分からなかった。


 晴蒼か。

 珠か。

 玉か。

 それとも、力を持ちながら結局守りきれなかった自分の生そのものか。


 英定は口元を押さえた。謝罪など、今さら何の役にも立たない。死者は戻らず、失せた年月は埋まらない。だからこそ、言葉にした瞬間、自分の弱さを晒したようで忌々しかった。


 けれど、部屋は何も返さない。


 返ってくる気配がないことに、英定は逆に少し救われた。人がいれば、表情を整えねばならない。沈黙の意味を誤魔化さねばならない。だがここには誰もいない。晴蒼の遺したものだけが、淡々と存在している。


 それがありがたかった。


 英定は舞具の箱を閉じ、最後に残った文箱へ目を向けた。


 中には数通の紙が重ねられていた。多くはない。晴蒼は筆まめな女ではなかったし、英定もまた文を交わすことを好まなかった。だからそこにあるのは、用件を書き留めたものか、家の事柄に関する記録ばかりだろうと思っていた。


 だが、一枚だけ、見覚えのある折り方の紙があった。


 英定はそれを取り上げる。


 開くと、短い字が並んでいた。晴蒼の手だ。


 ――珠の夜泣きがひどいので、明日の祈りは昼へずらします。

 ――玉へ送る衣、余理本家の好みに合わせました。気に入らぬなら直します。

 ――あなたは眠ってください。探し物は私がしておきます。


 最後の一行で、英定の呼吸が止まった。


 探し物。


 能力の記録のことだろう。自分の知らぬ力の起こりを、晴蒼はまだ本気で探していたのだ。英定よりも、むしろ真面目に。余理家の古い記録や神祇に近い家筋をあたり、何か手掛かりがないか調べていた。


 英定は紙を見つめたまま、動けなかった。


 あの女は、死ぬまで探していたのだ。


 英定のために。

 あるいは、英定と共に生きるために。


 それを、今ごろになってたかが数行の筆跡で思い知るのは、あまりに遅い。遅いが、それでも知らぬよりは痛い。


 英定は紙を丁寧に折り直し、文箱へ戻した。


 そして、ゆっくりと部屋を見回す。


 晴蒼の遺したものは少ない。だが少ないからこそ、その一つひとつが鋭い。英定の時間を、今でも容易く過去へ引きずり戻す。焼けた夜へ。珠が消え、玉が遠く、家が家でなくなった夜へ。


 それでも今日は、そこに沈みきるわけにはいかなかった。


 玉へ送った試験書は、もう走っている。


 もしあの子が来るなら、英定はこの部屋のことから目を逸らしたままではいられない。晴蒼のことも、余理家のことも、遅かれ早かれ玉と向き合うことになる。長子にとっては母であり、失われた生家であり、自分の根だ。


 英定は簪の箱へもう一度布を掛けた。


 整えるように。だが片づけるのではなく。

 まだそこにあってよいという形で。


 戸口へ向かう途中、英定は振り返らなかった。今はまだ、振り返れば立ち止まってしまう気がした。


 部屋を出て戸を閉める。


 廊下の空気は、さっきよりも少しだけ温んでいた。朝はすっかり進み、邸のあちこちで人が動いている。生きた家の音だ。死者の気配ばかり辿っていた身には、少し眩しすぎるほどだった。


 英定はその場にしばらく立ち尽くした。


 晴蒼はもういない。

 珠の行方はまだ知れない。

 玉は遠い伯父家にいる。


 だが、その玉へ向けた道だけは、今日確かに動き始めた。


 それで全てが赦されるわけではない。

 失ったものの代わりになるわけでもない。


 それでも、晴蒼が最後まで探してくれていたものも、珠の空席も、玉の不在も、全部まとめて抱えたまま進むしかないのだと、英定は思った。


 止まったままでは、何も戻らない。


 英定は袖口を整え、歩き出した。


 次に向かうのは、晴蒼の記憶ではない。

 今の都、今の国神仕寮、今の自分の仕事だ。


 そうでもしなければ、あの女の遺した言葉に顔向けができない気がした。


 ――あなたは眠ってください。探し物は私がしておきます。


 あの短い一文が、ひどく胸に残る。


 眠ってはいられない、と英定は心の中で返した。

 もう誰も、自分の代わりに探してはくれないのだから。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ