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大樹  作者: 常居嗣子
戻った夜

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3/29

【3】珠


 試験書を持った遣いが邸を出ていってから、英定はしばらく文机の前に座ったままだった。


 紙を送り出したからといって、胸の内まで静まるわけではない。むしろ逆だった。もう後には引けぬ形に整えてしまったことで、心だけが妙に落ち着き場を失っている。


 こういう時は、動くに限る。


 英定は立ち上がった。


 夜明けの薄光は、ようやく邸の奥まで届き始めていた。余理邸ほどではないにせよ、この家も無駄に広い。広く、整っていて、静かだ。英定が国神仕大輔として暮らすには不足のない屋敷であるはずなのに、家としてはどこか静かさと闇を抱え込んでいる。


 廊下へ出ると、朝の支度をする下働きたちの気配が遠くにあった。水桶の触れ合う音。襖を開け閉めする控えめな手つき。人はいる。息遣いもある。なのに、英定にとって必要な気配だけが、ひどく薄い。


 珠がいない。


 その事実は、晴蒼の死と違う痛み方をした。


 晴蒼は失われたのだと、頭では分かっている。炎の夜に、あの女は悲痛な顔のまま戻らなかった。


遺された簪や舞具に手を伸ばしても、そこから先は何も繋がらない。諦めるというには強すぎるが、終わりとして受け取るしかない種類の不在だった。


 けれど珠は違う。


 どこかにいるかもしれない。

 生きているかもしれない。

 誰かの手で育てられているのかもしれない。


 その「かもしれない」が、かえって英定の胸を削った。


 死が確かなら、その痛みは底へ沈む。

 生が曖昧だから、痛みはいつまでも浮いてくる。


 英定は、廊下の角を曲がった。そこから先は、今ではほとんど人を入れぬ一角だ。


部屋数だけはあるのに、使われているのはごく一部。残りは閉ざしたまま、英定自身も意識して近づかぬようにしてきた。


 珠のために用意していた小部屋がある。


 英定は足を止めた。


 開けてどうなるものでもない。そう分かっている。分かっていても、今朝は扉の前を素通りできなかった。指先が戸に触れかけて、止まる。人に触れるのではない。木だ。木に怯える理由はない。そんなことを一々自分へ言い聞かせねばならぬのが、滑稽だった。


 ゆっくりと戸を引く。


 乾いた音を立てて、部屋が開いた。


 朝の光がまだ浅く、室内はやわらかな薄闇に沈んでいた。小さな几帳。低い櫛箱。子ども用の衣が、きちんと畳まれたまま端へ寄せられている。どれも新しいわけではない。ものはあまり傷んでいない。使われぬまま、時だけが経った部屋だった。


 英定は室内へ一歩入った。


 珠は、玉と違って手元で育てた。


 生まれた時から近くにいた。夜半に泣けば、その声を聞いた。晴蒼が疲れている時には、英定が抱いたこともある。小さな手が衣の襟を掴む感覚も、熱を出した夜に乳母が慌ただしく湯を替える様子も、覚えている。覚えているからこそ、ここが空いていることに耐えがたさがあった。


 玉はもとから遠かった。

 珠は近くにいた。


 近くにいたものを失う痛みは、また別の種類をしている。


 英定は几帳の前にしゃがみ込んだ。視線を落とせば、床板の木目がやけにはっきり見える。珠が無事だと知らされたのは、あの夜の混乱の最中だった。晴蒼が出仕の暦へ託して逃がしたと。

 珠は生きたのだと喉につっかえていた物が緩く落ちていくのを感じた。


 その一報だけで、英定は立っていられた。


 けれどその後が続かなかった。


 暦もまた、どこへ消えたのか分からなくなった。炎と混乱と、従兄の差し向けた目と、左大臣邸への幽閉と。あまりにも多くのものが一度に崩れ、珠へ辿り着くための道筋は、焼け落ちた梁のように途中で消えてしまった。


 英定は部屋の隅に置かれた小さな鈴を見た。


 珠がまだ寝返りもおぼつかぬ頃、乳母が時折鳴らしてあやしていたものだ。澄んだ音が鳴る。玉の頃には、こうしたものを傍へ置く時間さえ少なかった。余理の習いだから、仕方のないことだったと今でも頭は言う。だが感情は別だ。


 あの半年で、もっと抱いておけばよかった。

 珠の笑った顔を、もっと目に焼きつけておけばよかった。

 晴蒼に、もっと言葉を交わしておけばよかった。


 後悔というのは、役に立たぬくせに数だけは増えていく。


 英定は鈴へ手を伸ばし、ほんの少し持ち上げた。小さく鳴る。その音が、あまりにも幼く、あまりにも穏やかで、胸の奥に痛みが走った。


 珠は今、いくつになっている。


 年を数えること自体は容易い。

 けれど、成長の姿は分からない。


 どれほど背が伸びたのか。

 誰に似た顔になったのか。

 晴蒼の面差しを残しているのか。

 それとも、玉のようにどこかで英定自身を思わせる線があるのか。


 何も知らない。


 父であるくせに、何も。


「……英定様」


 廊下の向こうから、遠慮がちな声がした。侍女の一人だった。英定は鈴を元の場所へ戻し、顔を上げる。


「何だ」


「朝餉の支度が整いました。薬も、食後にと」


 英定はすぐには答えず、部屋を見回した。


 この部屋のものを、誰も勝手に動かさない。そう命じてきたのは英定自身だ。哀れだと思われているかもしれぬ。執着が深すぎると陰で囁かれているかもしれぬ。だが、笑いたければ笑えばよかった。残されたものを守ることしかできない時、人はみな似たような顔になる。


「……後で行く」


「かしこまりました」


 侍女の足音が遠ざかる。


 英定は立ち上がり、部屋の中央にしばらく立ったまま動かなかった。ここには珠がいた。確かにいた。その気配だけが薄い布のように室内へ残っている。触れられないが、消えてはいない。


 だったら、どこかで生きているはずだ。


 そう思いたいのか、そう信じているのか、自分でも分からなかった。


 ただ、玉へ送った試験書のことを考えると、珠の不在がいっそう際立った。長子にはようやく道が届くかもしれない。けれど二子へは、まだ何も届いていない。父として、それをどう受け取ればいいのか英定には分からなかった。


 不公平だ、と誰かが責めるかもしれない。


 玉ばかりを取り戻そうとしている、と。

 珠はどうした、と。


 責められて当然だった。


 珠を忘れたことは一日もない。

 それでも今、手を伸ばせる先にあるのが玉だけなのも事実だった。


 英定は戸口へ向かった。出る直前、一度だけ振り返る。


 小さな几帳、衣、鈴。

 そこにいるはずのない二子の輪郭を、目が勝手に探してしまう。


「……待っていろ」


 声に出した瞬間、自分で驚いた。


 珠に向けたのか。

 晴蒼に向けたのか。

 それとも、何一つ守りきれなかった過去の自分に向けたのか。


 答えはなかった。


 戸を閉める。細い音を立てて、室内は再び静けさの中へ沈んだ。


 廊下へ戻ると、朝の気配が少し強くなっていた。下働きが行き交い、邸は邸として目を覚まし始めている。人の住む家の音だ。だが英定にとっては、そのどれもがどこか遠い。


 珠の空席。

 晴蒼の不在。

 玉の不在。


 その三つが、ようやく玉の一つだけでも動き出そうとしている。


 英定は袖口を整えながら、ゆっくりと歩き出した。


 長子を呼ぶ。

 それが叶ったとしても、家族が戻るわけではない。

 失われた時間が埋まるわけでもない。


 それでも、何もせぬよりはましだ。


 父であることが後悔の数を増やすだけの名で終わるくらいなら、まだ少しでも手を伸ばしたい。たとえ遅くとも、歪であろうとも。


 朝餉の間へ向かう途中、英定の視線は自然と別の棟の方へ流れた。そこには晴蒼の遺品が保管されている。宝石も、舞具も、焼け残ったわずかな衣も。いずれ整理せねばならぬと人は言うが、英定にはまだできなかった。


 あの女の遺したものは、片づけるには生々しすぎる。


 そして珠の空いた部屋は、閉ざしてしまうには希望が残りすぎていた。


 英定は足を止めずに、そのまま朝餉の間へ入った。


 膳は整えられている。湯気の立つ粥。煮た野菜。薄く切った魚。病み上がりの男に合わせた、味気のない献立だ。英定は腰を下ろし、箸を取った。


 一口目は、味がしなかった。


 けれど二口、三口と運ぶうちに、少しだけ胃が温まる。食べるのは生きるためだ。そんな単純な理屈を、英定は何度も生の最初から覚え直してきた。


 食べねばならない。

 動かねばならない。

 玉を迎えるためにも。

 珠を探し続けるためにも。


 英定は静かに粥を飲み下した。


 そして、ふいに思う。


 もし玉がこの邸へ来たなら、あの子はこの広さをどう思うだろう。冷たいと思うか。息が詰まると思うか。それとも、ようやく父の住まいへ踏み入るのだと、少しは心を弾ませるだろうか。


 分からない。


 分からないことばかりだ。

 父であるくせに、知らぬことばかりだ。


 だが知らぬまま終えるつもりはなかった。


 英定は薬椀を取り、苦い汁を一気に呷った。喉を焼くような味に、わずかに目を細める。


 空席のまま残された部屋がある。

 遺されたまま片づけられぬものがある。

 それでも今日、玉へ向けた文はもう走っている。


 ならばせめて、その先を迎える支度をしなければならない。


 朝の光が、膳の端へ落ちる。

 その白さを見つめながら、英定は次に開けるべき扉を思った。


 晴蒼の遺したもの。

 焼け残った余理の影。

 いずれ、玉にも向き合わねばならぬものだ。


 その前にまず、自分がそこへ立てるようにならねばならない。 英定は鈴へ手を伸ばし、ほんの少し持ち上げた。小さく鳴る。その音が、あまりにも幼く、あまりにも穏やかで、胸の奥に痛みが走った。


 珠は今、いくつになっている。


 年を数えること自体は容易い。

 けれど、成長の姿は分からない。


 どれほど背が伸びたのか。

 誰に似た顔になったのか。

 晴蒼の面差しを残しているのか。

 それとも、玉のようにどこかで英定自身を思わせる線があるのか。


 何も知らない。


 父であるくせに、何も。


「……英定様」


 廊下の向こうから、遠慮がちな声がした。侍女の一人だった。英定は鈴を元の場所へ戻し、顔を上げる。


「何だ」


「朝餉の支度が整いました。薬も、食後にと」


 英定はすぐには答えず、部屋を見回した。


 この部屋のものを、誰も勝手に動かさない。そう命じてきたのは英定自身だ。哀れだと思われているかもしれぬ。執着が深すぎると陰で囁かれているかもしれぬ。だが、笑いたければ笑えばよかった。残されたものを守ることしかできない時、人はみな似たような顔になる。


「……後で行く」


「かしこまりました」


 侍女の足音が遠ざかる。


 英定は立ち上がり、部屋の中央にしばらく立ったまま動かなかった。ここには珠がいた。確かにいた。その気配だけが薄い布のように室内へ残っている。触れられないが、消えてはいない。


 だったら、どこかで生きているはずだ。


 そう思いたいのか、そう信じているのか、自分でも分からなかった。


 ただ、玉へ送った試験書のことを考えると、珠の不在がいっそう際立った。長子にはようやく道が届くかもしれない。けれど二子へは、まだ何も届いていない。父として、それをどう受け取ればいいのか英定には分からなかった。


 不公平だ、と誰かが責めるかもしれない。


 玉ばかりを取り戻そうとしている、と。

 珠はどうした、と。


 責められて当然だった。


 珠を忘れたことは一日もない。

 それでも今、手を伸ばせる先にあるのが玉だけなのも事実だった。


 英定は戸口へ向かった。出る直前、一度だけ振り返る。


 小さな几帳、衣、鈴。

 そこにいるはずのない二子の輪郭を、目が勝手に探してしまう。


「……待っていろ」


 声に出した瞬間、自分で驚いた。


 珠に向けたのか。

 晴蒼に向けたのか。

 それとも、何一つ守りきれなかった過去の自分に向けたのか。


 答えはなかった。


 戸を閉める。細い音を立てて、室内は再び静けさの中へ沈んだ。


 廊下へ戻ると、朝の気配が少し強くなっていた。下働きが行き交い、邸は邸として目を覚まし始めている。人の住む家の音だ。だが英定にとっては、そのどれもがどこか遠い。


 珠の空席。

 晴蒼の不在。

 玉の不在。


 その三つが、ようやく玉の一つだけでも動き出そうとしている。


 英定は袖口を整えながら、ゆっくりと歩き出した。


 長子を呼ぶ。

 それが叶ったとしても、家族が戻るわけではない。

 失われた時間が埋まるわけでもない。


 それでも、何もせぬよりはましだ。


 父であることが後悔の数を増やすだけの名で終わるくらいなら、まだ少しでも手を伸ばしたい。たとえ遅くとも、歪であろうとも。


 朝餉の間へ向かう途中、英定の視線は自然と別の棟の方へ流れた。そこには晴蒼の遺品が保管されている。宝石も、舞具も、焼け残ったわずかな衣も。いずれ整理せねばならぬと人は言うが、英定にはまだできなかった。


 あの女の遺したものは、片づけるには生々しすぎる。


 そして珠の空いた部屋は、閉ざしてしまうには希望が残りすぎていた。


 英定は足を止めずに、そのまま朝餉の間へ入った。


 膳は整えられている。湯気の立つ粥。煮た野菜。薄く切った魚。病み上がりの男に合わせた、味気のない献立だ。英定は腰を下ろし、箸を取った。


 一口目は、味がしなかった。


 けれど二口、三口と運ぶうちに、少しだけ胃が温まる。食べるのは生きるためだ。そんな単純な理屈を、英定は何度も生の最初から覚え直してきた。


 食べねばならない。

 動かねばならない。

 玉を迎えるためにも。

 珠を探し続けるためにも。


 英定は静かに粥を飲み下した。


 そして、ふいに思う。


 もし玉がこの邸へ来たなら、あの子はこの広さをどう思うだろう。冷たいと思うか。息が詰まると思うか。それとも、ようやく父の住まいへ踏み入るのだと、少しは心を弾ませるだろうか。


 分からない。


 分からないことばかりだ。

 父であるくせに、知らぬことばかりだ。


 だが知らぬまま終えるつもりはなかった。


 英定は薬椀を取り、苦い汁を一気に呷った。喉を焼くような味に、わずかに目を細める。


 空席のまま残された部屋がある。

 遺されたまま片づけられぬものがある。

 それでも今日、玉へ向けた文はもう走っている。


 ならばせめて、その先を迎える支度をしなければならない。


 朝の光が、膳の端へ落ちる。

 その白さを見つめながら、英定は次に開けるべき扉を思った。


 晴蒼の遺したもの。

 焼け残った余理の影。

 いずれ、玉にも向き合わねばならぬものだ。


 その前にまず、自分がそこへ立てるようにならねばならない。

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