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大樹  作者: 常居嗣子
戻った夜

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【2】父であること


 夜が明ける気配は、まだ薄かった。


 空は夜明け前の色をしている。闇のように濃くはないのに、どこまでも冷たい。


英定は寝台から降り、文机の前へ座った。立ち上がるだけで胸の奥がじくじくと痛んだが、痛みがある方が都合はよかった。生きている身体に戻ったのだと、余計な確認をせずに済む。


 机の上には、整えられた紙束と硯、筆、昨夜のうちに侍女が温め直した薬湯が置かれていた。


 英定は薬湯に口をつけ、すぐに顔をしかめた。苦い。身体に良いものはたいてい不味い。準基の頃からそうだった。もっとも、あの頃は良薬を飲む身分でもなかったから、比べるほどの記憶も多くはないのだが。


 そんなことを考えた自分に、英定はわずかに眉を寄せた。


 準基の記憶は、少し油断すると水面に浮いてくる。明の時代の薄暗い静養邸もそうだ。英として生きている時間の方が今は長いはずなのに、心の柔らかいところへ爪を立ててくるのは、決まってもっと古いものばかりだった。


 その一つひとつを、今さら愛おしむ気はない。


 だが、捨てることもできない。


 英定は紙の端に指先を置いた。ほんの少しだけ触れる。紙は何も返さない。ただ軽く、冷たい。人のように、脈も、温度も、寿命も持たぬものは楽だった。こちらが何を奪うか、考えなくてよい。


 考えなくてよいことに、安堵する自分がいる。


 それを惨めだと思う時期は、もう過ぎていた。


 父であることも、同じだ。


 英定は、昨夜から胸の内に居座り続けている言葉を、頭の中で静かに転がした。


 父。


 その二文字は、英定にとってひどく据わりの悪いものだった。


 玉の父である。珠の父である。

 それは間違いない。血も、名も、世間での認識そう告げている。


 だが、父とは何だ。


 半年しか抱かなかった長子が、父と呼べるのか。


 乳の匂いがまだ残る幼子を、本家へ渡す時、何もできなかった男を。

 珠を腕の中で育てながら、その片方で遠い伯父家の方角ばかり見ていた男を。

 そして晴蒼を守れず、あの夜に家ごと失った男を。


 そんなものでも、父と名乗ってよいのか。


 名乗る資格があるのか。


 英定は目を伏せた。墨を磨る気にもなれず、筆にも手を伸ばさない。ただ静かな机の前で、呼吸だけが細く出入りする。


 玉の身体にいた二日間、奇妙なほど自然に「この子を守らねば」と思った。あれは長子への情だったのか、それとも失い続けた人生の執着だったのか。今となっては、切り分けられない。


 思い出す。


 玉の視線の高さを。


 椅子へ腰かけた時の重心の置き方を。


 養父へ返事をする時、一拍だけ息を詰める癖を。


 英定の口もとがかすかに歪む。笑いにはならない。痛みに近いものだった。


 知らなかったのだ。


 長子がどう育ったか。

 どんな字を書くようになったか。

 どんな声で礼を言うのか。

 人に叱られた時、どんなふうに目を伏せるのか。


 知らなかった。それを二日間で知ってしまった。


 あまりにも遅い。遅すぎる。父親らしい年月を一つも積まずに、いきなり子の内側へ触れてしまった。まともな順序ではない。まともではないからこそ、余計に英定の胸をかき乱す。


 もし昨夜、あのまま戻れなかったらどうなっていたのか。


 英定の身体は眠り続け、玉は玉でなくなるのか。

 それとも、どちらも壊れるのか。


 答えはない。


 答えのないまま、英定は昨夜の自分が残した覚え書きを引き寄せた。墨が乾き切った字は、病んだ男の走り書きとは思えぬほど端正だった。


 余理本家へ国神仕寮の試験書を送ること。

 形式を整えること。

 召しの理由を、玉の学才と素養に置くこと。

 私的な文を混ぜないこと。


 どれももっともだった。


 英定はこういう時だけ、腹立たしいほど頭がよく回る。喪失の底で喘いでいても、手順だけは見失わない。準基の頃から変わらぬ癖だ。だから生き延びた。だからまた、こうして何かを掴みに行ける。


 だが、それは少しも美徳ではない。


 晴蒼が死んだ夜も、英定は同じだった。泣き叫ぶより先に、何が焼け残り、何が失われ、誰が逃げ、誰が見ていたかを数えていた。


珠が逃がされたと聞いた時も、まず出仕の侍女で乳母の暦の名を確認した。玉が伯父家にいるから無事だと、安堵の前に距離と道筋を計った。


 人として薄情なのではないか。


 何度かそう考えたことはある。


 けれど、考えたところで答えは出なかった。薄情なら、こんなにも後から痛まない。情があるなら、なぜあの時もっと何かできなかった。英定の心は、いつもその堂々巡りの中を歩いてきた。


 控えめな衣擦れの音がして、侍女が膝をついた。


「試験書の下書きを、お持ちいたしました」


「そこへ」


 英定は顔を上げずに答えた。


 侍女が差し出した紙を受け取り、目を走らせる。文面は整っている。国神仕寮が有望な若者へ試験を課す旨、日時、必要な準備、同道を許す者の人数。どこにも不自然はない。


 よくできている、と英定は思った。


 よくできているが、それだけでは足りない。


「末尾を直せ」


「どのように」


「学才のみではなく、神鎮の素養も問うと入れろ。こちらが欲しいのは書き物のできる秀才ではない。……少なくとも、表向きはそうしておく」


 侍女が一瞬だけ目を上げる。英定の言葉の癖を知っている者の顔だ。表向き、という言い方の奥に、別の理由があると察したのだろう。だが賢い女だったから、問わない。


「かしこまりました」


 英定はそこで、ようやく紙から目を離した。


「今朝の使いは誰に立たせる」


「明け六つに出せば、余理本家へは三日ほどで届くかと。脚の早い者を二人、途中で交代させます」


「一人でよい。目立つ」


「ですが――」


「二人いると、話が広がる」


 英定は短く言って、薬湯をもう一口飲んだ。


 玉を呼ぶことは公務である。そう宣言せねばいけない。


 だが、だからといって大っぴらにしてよい話ではない。養父がどう出るかもまだ分からぬ。朝廷へ余計な耳が入れば、それだけで面倒が増える。


 英定は侍女が下がるのを待って、紙の上に指を置いた。


 玉は来るだろうか。


 昨夜も考えた問いが、また胸の底から浮かび上がる。


 会いたいと願うのは、自分ばかりかもしれない。

 玉にとっての父は、英雄視された国神仕大輔であって、実際の英定ではないかもしれない。

 名のある父に憧れはしても、近くにいたいとは思わぬかもしれない。


 それでも、と思う。


 来てほしい。


 父だから。

 長子だから。

 晴蒼の子だから。

 いや、そんな理屈の並べ方をしたところで、結局は一つだった。


 失いたくないのだ。


 今度こそ。


 英定は息を吐いた。細い、痛みを含んだ息だった。


 父とは、資格のことではないのかもしれない。

 少なくとも自分には、そう考えるほかなかった。


 資格があるから手を伸ばすのではない。

 手を伸ばさずにいられないから、父であると認めるしかない。


 それはひどく身勝手で、少しも清くない。だが英定の人生は、元からそういうものだった。準基の頃からずっと、人を救いたいと思う気持ちでさえ、綺麗な顔だけでは済まなかった。救えば恐れられ、失えば恨みが残り、生き延びれば次の生へ引きずられる。


 ならば、せめて今は綺麗でなくていい。


 玉へ手を伸ばすことが、国神仕大輔として正しいかどうか。

 英定として正しいかどうか。

 そんなことは後でいくらでも裁ける。


 今はただ、長子を呼び戻す。


 そのために理屈を整え、形を作り、誰にも文句を言わせぬよう道を敷く。


 英定は筆を取った。


 ほんの一瞬、指先が止まる。

 それでも今度は、止めたままにはしない。


 試験書の末尾に、自ら書き加える。

 神鎮の素養を問うこと。

 同時に、早急の来寮を望むこと。


 書き終えた字を見つめ、英定は静かに目を細めた。


 これで、あの子へ道が届く。


 届いてしまえば、もう引き返せない。


 障子の外で、朝を告げる鳥の声がした。夜の冷たさが少しずつほどけ、空の色が変わり始める。英定は筆を置き、背筋を伸ばした。


 自分は父なのだと、胸を張って言えるほど立派ではない。

 それでも、あの子を迎えたいと思っている。

 その願いだけは、誰にも譲らなくていい。


 やがて侍女が戻り、修正した試験書を受け取るため膝をついた。英定は紙を差し出す。


「これで出せ」


「承知いたしました」


「必ず、本人の手へ渡せ」


 侍女は一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに深く頭を下げた。


「はい」


 紙が持ち去られていく。

 英定はその後ろ姿を見送りながら、机の端へ指先を置いた。


 今、ようやく自分は、父であろうとしているのかもしれない。


 遅すぎると、胸のどこかで誰かが笑う。

 それでも遅すぎるからといって、始めぬ理由にはならなかった。


 遠い伯父家で、玉がまだ眠っている時刻だろうか。

 あるいはもう、目を覚まして書を開いているだろうか。


 英定は、そのどちらでもよかった。


 ただ次に会う時、自分が手を伸ばせる距離に、あの子がいてほしかった。


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