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大樹  作者: 常居嗣子
戻った夜

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【1】夜


 目を開けた瞬間、余理英定(よ り ひでさだ)はまず、自分の指を見た。


 細く、血の気の薄い指だった。節のかたちも、爪の縁の白さも、見慣れたものだ。玉の手ではない。十三にもなったばかりの少年の、まだ骨ばる前の手でもなければ、紙を握るたびにわずかに震えを孕んだ養家の子の手でもない。


 英定は、そこでようやく、喉の奥にひっかかっていた息を吐いた。


 戻ったのだ。


 障子の向こうで、雷が鳴った。


 腹に落ちるような重い音だった。音だけなら今さら珍しくもない。けれど、今夜ばかりは、その震えが柱を伝って寝台の端まで届く気がした。身体の奥が、遅れて軋む。


 ひどく重い。胸の内側に、まだ熱い石でも詰められているようだった。血を吐いて伏していた肉体なのだから当然だと、頭のどこかは冷静に言う。だが、理屈で納まる種類の不快ではない。喉は焼け、肺は薄く裂けたあとのように痛み、指先にはまだ他人の体温が残っていた。


 他人ではない、と英定は思い直す。


 玉だ。


 長子。自分が半年しか抱けず、余理の習いに従って本家へ預けた子。遠くに置かねばならなかった子。焼け残った家族の、ひとり。


 その身体に、二日間、己の意識があった。


 英定は目を閉じた。


 瞼の裏に、伯父家の書院が浮かぶ。並べられた筆、きちんと整えられた硯、水差しの口に映る灯。養父の家で慎み深く育てられた少年の暮らしは、息苦しいほど整っていた。そこへ自分が入り込んだ時の、あの胸の悪さを思い出す。玉の目で見たもの、玉の耳で聞いたもの、玉の身体が覚えていた立ち居振る舞い。どれも今なお、皮膚のすぐ下に貼りついて離れない。


 父であるはずの自分が、長子の身体を借りていた。


 まともな出来事ではなかった。


 まともではないことなど、準基の頃から嫌というほど知っている。明であった時も、英となってからも、まともな人生の方が少なかった。だが、知っていることと、平気でいられることは違う。


 英定は寝台の上でゆっくり身を起こした。途端に視界が暗く揺れ、片手を床につく。袖が滑り落ちる。反射のように引き戻した。


 子どもの頃から変わらぬ癖だ。


 死ぬのが怖かった。

 人に触れるのが怖かった。

 何より、自分の手が怖かった。


 五つの頃には、もう知っていた。自分は少し触れただけで人を殺せるのだと。だから袖で隠した。隠してしまえば、見ないふりができた。見ないふりをしている間だけは、せめて自分も、どこにでもいる病弱な皇子の顔でいられた。


 だが今は、隠したところで何も変わらない。


 この手は、守れなかった。


 晴蒼を。


 英定の視線が、部屋の隅に置かれた箱へ落ちた。黒漆の箱の上には、宝石をはめこんだ細い簪がひとつ、布に包まれたまま残されている。火を免れた数少ないもののひとつだった。あの夜から、誰もそこに触れていない。


 晴蒼は、よく笑う女ではなかった。けれど、沈黙を不機嫌にしない女だった。余理家の者らしく、灯の下で宝石を見れば、ほんの少しだけ目がやわらいだ。英の力を知った時も、すぐに泣きも怯えもしなかった。ただ、「では、記録を探してみましょう」と言った。あまりにも静かな声音で。


 付かず離れずの夫婦だった。

 だが、確かに、家族だった。


 それを焼いた夜の熱は、二十一になった今も、英定の骨のどこかに残り続けている。


 晴蒼はいない。

 珠の行方も、まだ知れない。

 玉だけが生きている。


 その事実だけが、今夜の英定をつなぎ止めていた。


 外で控えめな足音が止まった。


「英定様」


 夜番の侍女の声だ。硬い。様子を見に来ただけではない声音だった。


「……何だ」


 自分の声の掠れに、英定自身がわずかに眉を寄せた。玉の声ではない。少年より低く、乾いていて、病人じみた響きがある。聞き慣れているはずなのに、今夜は妙に遠い。


「お目覚めと伺い、薬湯をお持ちいたしました。……それと、文机の上に置かれていた書付を、先ほど確認いたしました」


 英定は顔を上げた。


 文机。


 そこには、眠りに落ちる前の自分が整えておいた書類と、戻った後に処理すべきものが置かれているはずだった。だが侍女の言い方は、それだけではないことを含んでいる。


「何と書かれていた」


「国神仕寮の名で、余理本家へ使いを出すようにと」


 英定は目を細めた。


 やはり残っている。


 玉の身体で書いたものではない。戻った直後の混乱を見越して、自分が自分のために用意した覚え書きだ。けれど、その内容の根は同じだった。玉を呼ぶ。


そのための道を、公的に自ら開いてみせる。


 侍女はためらいがちに続けた。


「まだ夜更けにございます。お体も――」


「夜が明けたら出せ」


 自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。


「試験書の形式に整えろ。私文ではなく、寮からの正式な召しとする。養父殿が捨てられぬように」


 侍女が息を呑む気配がした。英定はそこで初めて、自分が寝台の端を強く握りしめていることに気づいた。爪が皮膚に食い込むほど力が入っている。


 放す。


 ゆっくりと。何でもないふりをして。


「……かしこまりました」


「それから」


 英定は一度言葉を切った。


 珠の名を口にしそうになった。やめた。今夜、口に出してよい名ではない。出せば、喉のどこかがまた裂けそうだった。


「誰にも、私が起きたと騒ぐな。朝までは静かにしておけ」


「承知いたしました」


 侍女の足音が遠ざかる。


 残された静寂の中で、英定はしばらく動かなかった。雷鳴はもう遠い。だが、身体の内には別の震えが残っている。


二日間、玉の内側にいたという事実。手紙を残したという事実。玉がそれを読むかもしれないという事実。


 来るだろうか、と英定は思う。


 会いたいと、玉は一度でも思ってくれるだろうか。


 英雄視される父など、ろくなものではない。手元で育てなかった長子にとって、自分は名ばかりの父でしかないはずだ。


それでも、あの子の身体で二日を過ごした今となっては、知らぬままでいることの方が耐え難かった。


 晴蒼。

 お前がいたなら、何と言っただろう。


 答えは返らない。


 返らぬまま、英定は文机の方を見た。闇の中に、薄ぼんやりと輪郭だけが浮かぶ。あそこから、玉へ向けて道をひとつ作るのだ。公の理屈を整え、私の願いを隠し、誰にも咎められぬ形にして。


 ようやく繋がったのだ、と英定は思った。


 焼け落ちた夜からずっと、手の中に何も残らなかったわけではない。

 遅すぎるほど遅くとも、まだ辿れるものがある。


 ならば、今度こそ。


 今度こそ、手放すまい。


 英定はそっと目を閉じた。休むためではない。夜が明けた時、自分が迷わず命を下せるように、胸の内を固めるためだった。


 遠い伯父家で、玉が眠っている。


 その事実だけが、今夜の英定を生かしていた。

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