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大樹  作者: 常居嗣子
第三章

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【8】都へ


出立の朝は、驚くほど普通に始まった。


 空はよく晴れ、庭の石はまだ夜の冷えを少し残している。家人たちはいつもの時刻に動き始め、乳母はいつものように細かな世話を焼き、養父はいつものように無駄のない顔で座っていた。世界の方は、玉の都行きなど大した出来事ではないと言っているようだった。


 その平然さが、かえってありがたかった。


 もし皆が大仰に惜しんだり、気を遣いすぎたりしたら、玉はきっと耐えられなかった。胸の内はもう十分騒がしい。外側までそれに付き合われたら、どうしたらよいか分からなくなる。


 朝餉は簡素だった。

 病み上がりだからと、乳母は相変わらずあれこれ口を出したが、養父が「道中で困らぬ程度に食べさせろ」と一言で収めた。玉は素直に箸を動かした。喉を通るものの味は、まだ少し薄い。


 支度を終え、門前へ出る。

 同行するのは家の者二人と、途中までの護りを兼ねる男が一人。多すぎず、少なすぎず。養父らしい人数だった。


 乳母は最後まで玉の袖を直し、襟の合わせを確かめてから、急に目を赤くした。


「泣いてなどおりませんよ」と言いながら泣いているのだから、玉は返しようがない。


「すぐ戻るかもしれない」


 そう言うと、乳母は首を振った。


「それでもです」


 玉は少しだけ笑った。

 自分でも、そんな顔ができるのだと少し驚く。


 養父は門の内側に立ち、最後に一つだけ言った。


「行ってこい」


 それは送り出す言葉であって、縛る言葉ではなかった。


 玉は深く頭を下げる。


「行ってまいります」


 門を出る。

 本家の敷石を踏み、外の道へ降りる。

 それだけのことなのに、胸の中で何かがはっきりと切り替わった。


 都へ向かう道は、玉にとって初めてというほど遠いものではない。小さな頃に移された記憶は曖昧でも、本家と都の行き来はないわけではなかった。だが今回は違う。自分のために行く。試を受けるために。父に会うために。


 道は晴れていた。

 馬の足は軽く、空気は乾いている。

 時折、並ぶ木々の影が道へ落ち、その明暗の中を車が進む。


 同行の家人は多くを喋らない。玉もまた、無理に話しかけなかった。

 都へ近づくほど、人の数が増える。商人、旅人、役人の使い、荷を運ぶ者たち。道の端で交わされる話に、時折“国神仕寮”の名が混ざることがあった。


 玉はそのたびに耳を澄ませたくなったが、露骨にはしなかった。

 聞きたいのを堪える。

 聞かずとも胸が先に熱を持つ。


 父は、本当にそこにいるのだ。


 半日も進んだ頃、最初の休みを取るために小さな宿場へ入った。

 水を飲み、軽く足を伸ばし、車の揺れで固まった身体をほぐす。

 玉は宿の軒先から、往来をぼんやり眺めた。


 都へ向かう人は多い。

 都から離れる人も多い。

 そのどこにも自分と同じ事情の者はいないように見える。

 皆それぞれ別の用があり、別の暮らしがある。その中で、自分だけが“父に会いに行く長子”なのだと思うと、急に妙な心細さが込み上げた。


 その時、袖の中の紙が指へ触れた。

 父の手紙だ。


 持ってきてしまった。

 本当は置いてくるべきかとも思ったが、どうしてもできなかった。試験書は公の文だから堂々と持てる。だが父の手紙は別だ。見られたくない。なのに離したくもない。


 玉は少しだけ周囲を見て、人目のない方へ歩いた。

 宿場の裏手、小さな祠の脇。

 そこでそっと紙を取り出す。


 回復したなら、再び会いたい。


 短い一文。

 何度読んでも、それ以上は増えない。

 増えないのに、読むたび意味だけが少しずつ深くなる。


 父は自分に会いたいと思った。

 少なくとも、その時は。

 ならば都へ着いた時、父はどんな顔をするのだろう。


 玉は紙を畳み直し、胸元へしまった。


 行こう。


 あまりに単純なその気持ちが、今は一番強かった。


 宿を出て再び道へ乗る。

 都はまだ先だ。

 けれどもう、戻る道より進む道の方が近く感じられる。


 午後の日が傾き始める頃、遠くに都の屋根が見えた。


 玉は思わず息を詰めた。

 あそこに父がいる。

 国神仕寮がある。

 自分の知らなかったものが、全部あの中にある。


 車輪が進む。

 胸の奥で、熱が静かに灯る。


 会いたい。


 今度は声にはしない。

 それでも、その願いはまっすぐ玉の中にあった。


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