【7】出立前夜
都へ発つ前の夜、養父は玉を自室へ呼んだ。
呼ばれること自体は珍しくない。
だが、この数日は特に回数が増えていた。同行の者の確認、道中の宿、都での振る舞い、試の前に余計な口を利かぬこと。養父は細かなことまで一つずつ釘を刺したが、そのどれもが“行かせないため”ではなく“行かせるからこそ”の言葉だと、玉にももう分かっていた。
中へ入ると、養父は文机の前に座っていた。
灯は低く、帳面が幾つか閉じられている。
玉が礼をすると、養父は手元の紙を脇へ寄せた。
「座れ」
玉は言われたとおり膝を折った。
夜の静けさが、昼より少し重い。
「明日、発つ」
「はい」
「途中で気を緩めるな。都へ入る前から見られていると思え」
玉は頷く。養父はこういう時、いつも具体的だ。心構えだけを語らない。どこで誰に見られるか分からぬ、だから姿勢から先に整えろと教える。
「試に通るかどうかは、まだ分からぬ」
「はい」
「だが、通ろうが通るまいが、お前は余理本家の子として見られる」
玉はその一言を、静かに受け止めた。
父の子としてではなく。
まず、本家の子として。
それは少し意外でもあり、同時に納得もできた。玉が父へ向かうのと同じくらい、父のいる都へ本家の名で出ていくのだ。自分一人のことでは済まない。
養父は玉の顔を見て、続けた。
「お前の父は、立場の重いお方だ」
「……はい」
「近づきすぎれば、こちらの形が崩れることもある」
玉は黙った。
それが養父の本音なのだと、今ならよく分かる。
嫌いなのではない。
むしろ、皇家の子でありながら余理の伝統を尊重した英定を、どこかでは敬っている。
だからこそ、その人が“皇族として本気で手を伸ばした時”の重さを恐れている。
養父はその言葉を、さらに噛み砕くことはしなかった。
玉が理解できると判断しているのだろう。
「だが」
と養父は少しだけ声を落とした。
「お前が会いたいと思うなら、会ってこい」
玉は思わず顔を上げた。
養父の表情は変わらない。
それでも、その言葉は昼間よりずっと私的だった。
「父上」
「勘違いするな。私は、何もかも嬉しく思っているわけではない」
養父は自分でそう言って、少しだけ口元を歪めた。自嘲に近い。
「だが、お前が父を知らぬまま大人になるのも、また良いこととは思えぬ」
その言葉は、玉の胸へ真っ直ぐ落ちた。
父を知らぬまま大人になる。
それは今まで、当たり前に起こる未来のようにも思っていた。
父は都にいて、自分は本家にいて、噂だけが時々耳へ届く。
会うこともなく、そのまま年を重ねることだってあり得たのだ。
だが今、養父はそれを“良いことではない”と言った。
玉は何か言おうとして、うまく言葉が出なかった。
礼では軽い。
感謝だけでも足りない。
胸の中でいろいろなものが混ざりすぎている。
結局、深く頭を下げるしかなかった。
「……ありがとうございます」
養父はすぐには答えなかった。
やがて「顔を上げろ」とだけ言う。
玉が従うと、養父は机の脇から小さな包みを取り出した。
「持っていけ」
「これは」
「本家の印だ」
包みを開けば、余理本家の印を刻んだ小さな札が現れた。旅先で身元を示すためのものだろう。玉はそれを見て、急に“本当に行くのだ”という実感が込み上げた。
「なくすな」
「はい」
「国神仕寮へ入ったからといって、お前の根が変わるわけではない」
養父の言葉は厳しい。
だが、その厳しさが今はありがたかった。
父へ会いに行く。
都へ行く。
それでも自分は、自分の足元ごと変わってしまうわけではない。
養父は玉をしばらく見ていたが、やがて視線を外した。
「もう下がれ。明日は早い」
「はい」
玉は印札を包み直し、胸元へしまった。
立ち上がり、礼をして、戸口へ向かう。
そこでふと、振り返りたくなった。
養父の顔を、もう一度見ておきたかったのかもしれない。
けれど玉はやめた。
振り返れば、今度こそ本当に子どものような気がしたからだ。
自室へ戻ると、乳母はすでに寝支度を整えていた。
道中の荷はまとめられている。
父の手紙と試験書は、玉自身が小箱へ収めた。
明日、発つ。
都へ。
父のもとへ。
寝台へ横になる。
眠れるだろうかと思ったが、意外にも目を閉じるとすぐに暗闇が来た。
夢を見たかどうかは覚えていない。
ただ夜の底で一度だけ、胸の奥へ静かな熱が灯った気がした。
会いたい、というたった一つの願いが、形を持たぬままそこにある。




