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大樹  作者: 常居嗣子
第三章

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【7】出立前夜


 都へ発つ前の夜、養父は玉を自室へ呼んだ。


 呼ばれること自体は珍しくない。

 だが、この数日は特に回数が増えていた。同行の者の確認、道中の宿、都での振る舞い、試の前に余計な口を利かぬこと。養父は細かなことまで一つずつ釘を刺したが、そのどれもが“行かせないため”ではなく“行かせるからこそ”の言葉だと、玉にももう分かっていた。


 中へ入ると、養父は文机の前に座っていた。

 灯は低く、帳面が幾つか閉じられている。

 玉が礼をすると、養父は手元の紙を脇へ寄せた。


「座れ」


 玉は言われたとおり膝を折った。

 夜の静けさが、昼より少し重い。


「明日、発つ」


「はい」


「途中で気を緩めるな。都へ入る前から見られていると思え」


 玉は頷く。養父はこういう時、いつも具体的だ。心構えだけを語らない。どこで誰に見られるか分からぬ、だから姿勢から先に整えろと教える。


「試に通るかどうかは、まだ分からぬ」


「はい」


「だが、通ろうが通るまいが、お前は余理本家の子として見られる」


 玉はその一言を、静かに受け止めた。


 父の子としてではなく。

 まず、本家の子として。


 それは少し意外でもあり、同時に納得もできた。玉が父へ向かうのと同じくらい、父のいる都へ本家の名で出ていくのだ。自分一人のことでは済まない。


 養父は玉の顔を見て、続けた。


「お前の父は、立場の重いお方だ」


「……はい」


「近づきすぎれば、こちらの形が崩れることもある」


 玉は黙った。

 それが養父の本音なのだと、今ならよく分かる。


 嫌いなのではない。

 むしろ、皇家の子でありながら余理の伝統を尊重した英定を、どこかでは敬っている。

 だからこそ、その人が“皇族として本気で手を伸ばした時”の重さを恐れている。


 養父はその言葉を、さらに噛み砕くことはしなかった。

 玉が理解できると判断しているのだろう。


「だが」


 と養父は少しだけ声を落とした。


「お前が会いたいと思うなら、会ってこい」


 玉は思わず顔を上げた。

 養父の表情は変わらない。

 それでも、その言葉は昼間よりずっと私的だった。


「父上」


「勘違いするな。私は、何もかも嬉しく思っているわけではない」


 養父は自分でそう言って、少しだけ口元を歪めた。自嘲に近い。


「だが、お前が父を知らぬまま大人になるのも、また良いこととは思えぬ」


 その言葉は、玉の胸へ真っ直ぐ落ちた。


 父を知らぬまま大人になる。


 それは今まで、当たり前に起こる未来のようにも思っていた。

 父は都にいて、自分は本家にいて、噂だけが時々耳へ届く。

 会うこともなく、そのまま年を重ねることだってあり得たのだ。


 だが今、養父はそれを“良いことではない”と言った。


 玉は何か言おうとして、うまく言葉が出なかった。

 礼では軽い。

 感謝だけでも足りない。

 胸の中でいろいろなものが混ざりすぎている。


 結局、深く頭を下げるしかなかった。


「……ありがとうございます」


 養父はすぐには答えなかった。

 やがて「顔を上げろ」とだけ言う。


 玉が従うと、養父は机の脇から小さな包みを取り出した。


「持っていけ」


「これは」


「本家の印だ」


 包みを開けば、余理本家の印を刻んだ小さな札が現れた。旅先で身元を示すためのものだろう。玉はそれを見て、急に“本当に行くのだ”という実感が込み上げた。


「なくすな」


「はい」


「国神仕寮へ入ったからといって、お前の根が変わるわけではない」


 養父の言葉は厳しい。

 だが、その厳しさが今はありがたかった。


 父へ会いに行く。

 都へ行く。

 それでも自分は、自分の足元ごと変わってしまうわけではない。


 養父は玉をしばらく見ていたが、やがて視線を外した。


「もう下がれ。明日は早い」


「はい」


 玉は印札を包み直し、胸元へしまった。

 立ち上がり、礼をして、戸口へ向かう。


 そこでふと、振り返りたくなった。

 養父の顔を、もう一度見ておきたかったのかもしれない。

 けれど玉はやめた。

 振り返れば、今度こそ本当に子どものような気がしたからだ。


 自室へ戻ると、乳母はすでに寝支度を整えていた。

 道中の荷はまとめられている。

 父の手紙と試験書は、玉自身が小箱へ収めた。


 明日、発つ。

 都へ。

 父のもとへ。


 寝台へ横になる。

 眠れるだろうかと思ったが、意外にも目を閉じるとすぐに暗闇が来た。


 夢を見たかどうかは覚えていない。

 ただ夜の底で一度だけ、胸の奥へ静かな熱が灯った気がした。

 会いたい、というたった一つの願いが、形を持たぬままそこにある。


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