【6】旅支度
都へ向かうと決まると、伯父家の空気は静かに変わった。
騒ぎにはならない。
もともと大きな家ではあるが、余計な声を広げぬ家でもある。
それでも、人の動きが少しだけ早くなる。玉のための衣が選ばれ、道中の荷が整えられ、同行者の顔ぶれが決まっていく。
玉はその中心に置かれながら、どこかまだ他人事のような気もしていた。
試験書を受け取ったのは自分だ。
都へ行きたいと答えたのも自分だ。
なのに支度が現実になるほど、心だけが少し遅れている。
これほどまでに“行く”ことが具体的になるとは、昨日まで思っていなかったのだろう。
乳母が衣をたたみながら、何度も同じことを確かめる。
「夜具は都で新しく整えてくださるそうですが、道中の分はお持ちになった方が」
「少なくてよい」
答えると、乳母は不満げに口を尖らせた。
「玉様はいつもそうおっしゃいますが」
「多いと重い」
「重いのは担ぐ者です」
玉は少しだけ笑いそうになった。
こういうやり取りをしていると、都へ行くという大事も、少しだけ手触りのあるものになる。
乳母は玉が生家を離れてからも、ときおり本家へ顔を出していた人だった。玉にとっては、母に近い記憶を持つ数少ない大人でもある。だからこそ、都行きが決まってからの落ち着かなさも隠しきれていない。
「本当に、お一人で大丈夫なのですか」
「一人ではない。同行もある」
「そういう意味ではなく」
乳母は言いよどみ、それから小さく息を吐いた。
「……お父上にお会いになるのでしょう」
玉は一瞬、手を止めた。
その言葉を、伯父家の中でここまでまっすぐに口にする人は多くない。
養父は言わない。家人たちも迂遠にする。
乳母だけが、時々こうして遠慮なく核心を触る。
「そう、なると思う」
「お会いしたいのですね」
玉は否定しなかった。
否定できる時期は、もう過ぎたのだろう。
乳母はしばらく玉を見ていたが、やがて衣を畳む手を止めずに言った。
「良いことです」
意外な返しだった。
「そうでしょうか」
「ええ」
乳母はきっぱり頷く。
「お父上はお父上です。お育てくださったのはここでも、血が繋がっていることまで無かったことにはなりません」
玉は少しだけ目を伏せた。
その言葉が嬉しかったのか、少し痛かったのか、自分でもすぐには分からない。
乳母は続ける。
「ただし、期待しすぎてはいけませんよ」
その一言に、玉は顔を上げた。
「期待……」
「ええ。遠くの方ほど、心の中で大きくなりますから」
乳母はそう言って、ふっと笑った。
「会ってみたら思っていたのと違った、などということはよくあります」
それはあまりにも身も蓋もなくて、玉はようやく少し笑った。
「乳母は、ひどいことを言う」
「先に申しておいた方が傷が浅くて済みます」
その実、乳母の目にはやわらかいものがある。玉が父に会うことを、止める気はないのだと分かった。
玉は支度の手を止め、窓の外を見た。
伯父家の庭。
見慣れた石。
木々の配置。
朝も昼も夕も、ここで過ごしてきた。
都へ行けば、しばらくは戻らぬかもしれない。
試に通るかどうかも分からず、通ったとして、その先がどうなるかはなおさら分からない。
それでも行くと決めた。
そこに迷いはなかった。
「乳母」
「はい」
「父は、どんな人だった」
思えば、きちんと聞くのは初めてだったかもしれない。
乳母は少しだけ驚いた顔をした。
それから、すぐには答えなかった。
「難しいことをお聞きになります」
「分からないなら、それでいい」
「分からなくは、ございません」
乳母は衣を畳み終えた手を膝へ置き、少し考える顔をした。
「静かな方でした」
玉は黙って聞く。
「怖いほど静か、という時もございましたし、ひどくお優しい時もございました。何を考えておいでか見えにくいのに、玉様をご覧になる時だけは、少し違いました」
玉の胸が、わずかに熱くなる。
「違うとは」
「……あまりにも大切そうで、かえって触れにくいくらいに」
乳母は苦笑した。
「ですから本家へお預けする時も、随分と苦しそうでいらっしゃいました」
玉はその言葉を、すぐには飲み込めなかった。
父が。
本家へ預ける時に。
苦しそうだった。
それは伯父家の中であまり語られてこなかった話だ。伝統に従った。ただそれだけの事実として、玉の中では処理されていた。そこへ“苦しそうだった”という感情が乗ると、急にその日の輪郭が違って見える。
「本当に……?」
「ええ」
乳母は穏やかに頷いた。
「ですが、そういうお方です。大事に思っていても、それを分かりやすく見せるとは限りません」
その言葉は、玉の心へ深く残った。
大事に思っていても、分かりやすく見せるとは限らない。
父の短い手紙も、まさにそうだ。
会いたい、と書いてある。
けれど、ただそれだけだ。
情に溺れた文ではない。
端正で、むしろそっけないほどだった。
それでも玉には、あれで十分だった。
大事に思っていなければ、隙を縫ってあんな紙を残すはずがない。
玉は静かに頷いた。
「ありがとう」
「礼には及びません」
乳母は少しだけ表情をゆるめ、それからまた現実的な声に戻る。
「では、あと二着ほど選びましょう。都で余計に浮いては困ります」
「浮くようなものは持っていない」
「玉様はそういうところが危ないのです」
玉はまた少し笑った。
支度は進む。
都行きは現実になる。
父への思いも、そのたび少しずつ形を持つ。
期待しすぎるな、と乳母は言った。
その通りだろう。
けれど期待せずに行けるほど、玉はまだ大人ではなかった。




