表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
大樹  作者: 常居嗣子
第三章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

26/29

【6】旅支度


  都へ向かうと決まると、伯父家の空気は静かに変わった。


 騒ぎにはならない。

 もともと大きな家ではあるが、余計な声を広げぬ家でもある。

 それでも、人の動きが少しだけ早くなる。玉のための衣が選ばれ、道中の荷が整えられ、同行者の顔ぶれが決まっていく。


 玉はその中心に置かれながら、どこかまだ他人事のような気もしていた。


 試験書を受け取ったのは自分だ。

 都へ行きたいと答えたのも自分だ。

 なのに支度が現実になるほど、心だけが少し遅れている。


 これほどまでに“行く”ことが具体的になるとは、昨日まで思っていなかったのだろう。


 乳母が衣をたたみながら、何度も同じことを確かめる。


「夜具は都で新しく整えてくださるそうですが、道中の分はお持ちになった方が」


「少なくてよい」


 答えると、乳母は不満げに口を尖らせた。


「玉様はいつもそうおっしゃいますが」


「多いと重い」


「重いのは担ぐ者です」


 玉は少しだけ笑いそうになった。

 こういうやり取りをしていると、都へ行くという大事も、少しだけ手触りのあるものになる。


 乳母は玉が生家を離れてからも、ときおり本家へ顔を出していた人だった。玉にとっては、母に近い記憶を持つ数少ない大人でもある。だからこそ、都行きが決まってからの落ち着かなさも隠しきれていない。


「本当に、お一人で大丈夫なのですか」


「一人ではない。同行もある」


「そういう意味ではなく」


 乳母は言いよどみ、それから小さく息を吐いた。


「……お父上にお会いになるのでしょう」


 玉は一瞬、手を止めた。


 その言葉を、伯父家の中でここまでまっすぐに口にする人は多くない。

 養父は言わない。家人たちも迂遠にする。

 乳母だけが、時々こうして遠慮なく核心を触る。


「そう、なると思う」


「お会いしたいのですね」


 玉は否定しなかった。

 否定できる時期は、もう過ぎたのだろう。


 乳母はしばらく玉を見ていたが、やがて衣を畳む手を止めずに言った。


「良いことです」


 意外な返しだった。


「そうでしょうか」


「ええ」


 乳母はきっぱり頷く。


「お父上はお父上です。お育てくださったのはここでも、血が繋がっていることまで無かったことにはなりません」


 玉は少しだけ目を伏せた。

 その言葉が嬉しかったのか、少し痛かったのか、自分でもすぐには分からない。


 乳母は続ける。


「ただし、期待しすぎてはいけませんよ」


 その一言に、玉は顔を上げた。


「期待……」


「ええ。遠くの方ほど、心の中で大きくなりますから」


 乳母はそう言って、ふっと笑った。


「会ってみたら思っていたのと違った、などということはよくあります」


 それはあまりにも身も蓋もなくて、玉はようやく少し笑った。


「乳母は、ひどいことを言う」


「先に申しておいた方が傷が浅くて済みます」


 その実、乳母の目にはやわらかいものがある。玉が父に会うことを、止める気はないのだと分かった。


 玉は支度の手を止め、窓の外を見た。

 伯父家の庭。

 見慣れた石。

 木々の配置。

 朝も昼も夕も、ここで過ごしてきた。


 都へ行けば、しばらくは戻らぬかもしれない。

 試に通るかどうかも分からず、通ったとして、その先がどうなるかはなおさら分からない。


 それでも行くと決めた。


 そこに迷いはなかった。


「乳母」


「はい」


「父は、どんな人だった」


 思えば、きちんと聞くのは初めてだったかもしれない。


 乳母は少しだけ驚いた顔をした。

 それから、すぐには答えなかった。


「難しいことをお聞きになります」


「分からないなら、それでいい」


「分からなくは、ございません」


 乳母は衣を畳み終えた手を膝へ置き、少し考える顔をした。


「静かな方でした」


 玉は黙って聞く。


「怖いほど静か、という時もございましたし、ひどくお優しい時もございました。何を考えておいでか見えにくいのに、玉様をご覧になる時だけは、少し違いました」


 玉の胸が、わずかに熱くなる。


「違うとは」


「……あまりにも大切そうで、かえって触れにくいくらいに」


 乳母は苦笑した。


「ですから本家へお預けする時も、随分と苦しそうでいらっしゃいました」


 玉はその言葉を、すぐには飲み込めなかった。


 父が。

 本家へ預ける時に。

 苦しそうだった。


 それは伯父家の中であまり語られてこなかった話だ。伝統に従った。ただそれだけの事実として、玉の中では処理されていた。そこへ“苦しそうだった”という感情が乗ると、急にその日の輪郭が違って見える。


「本当に……?」


「ええ」


 乳母は穏やかに頷いた。


「ですが、そういうお方です。大事に思っていても、それを分かりやすく見せるとは限りません」


 その言葉は、玉の心へ深く残った。


 大事に思っていても、分かりやすく見せるとは限らない。


 父の短い手紙も、まさにそうだ。

 会いたい、と書いてある。

 けれど、ただそれだけだ。

 情に溺れた文ではない。

 端正で、むしろそっけないほどだった。


 それでも玉には、あれで十分だった。


 大事に思っていなければ、隙を縫ってあんな紙を残すはずがない。


 玉は静かに頷いた。


「ありがとう」


「礼には及びません」


 乳母は少しだけ表情をゆるめ、それからまた現実的な声に戻る。


「では、あと二着ほど選びましょう。都で余計に浮いては困ります」


「浮くようなものは持っていない」


「玉様はそういうところが危ないのです」


 玉はまた少し笑った。


 支度は進む。

 都行きは現実になる。

 父への思いも、そのたび少しずつ形を持つ。


 期待しすぎるな、と乳母は言った。

 その通りだろう。

 けれど期待せずに行けるほど、玉はまだ大人ではなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ