【5】決意
その夜、玉はほとんど眠れなかった。
熱は下がっている。身体も、昼よりはいくらか軽い。なのに目を閉じると、机の上に置かれた試験書の白さばかりが瞼の裏へ浮かぶ。国神仕寮。余理玉。都への道。どの文字も昼間より濃く見えた。
養父は、行かせるとも行かせぬとも言わなかった。
ただ、行くなら余理家として堂々と行けと言った。
その言葉の意味を、玉は何度も考えた。
父に会いたい。
それは本心だ。
けれどそれだけでは足りない。足りぬのだと、養父は遠回しに、しかしはっきり教えた。
国神仕寮が玉を呼ぶのは、公の文の上では“余理本家に養育される若者”としてであって、“会ったことのない長子”としてではない。ならば玉もまた、迎えられる側としての体裁でなければならない。
それは不思議と、玉の気持ちを少し落ち着かせた。
父に会いたいというだけなら、あまりに心許ない。
けれど学び、備え、ふさわしい顔で都へ出るのなら、それは願いではなく未来への道になる。
玉は寝台の上で、薄闇へ目を開いたまま考え続けた。
自分に何があるだろう。
学は嫌いではない。
むしろ好きだ。書も記録も、人の顔色を読むよりはよほど分かりやすい。
養父のもとで、それなりによく学んできたつもりだ。
余理本家の長子として、恥をかかぬ程度には。
だが国神仕寮が求める“神鎮の素養”となると、自分に何があるのかは分からない。
そこで玉は、あの熱のことを思い出した。
大樹。
木の実。
空白の二日。
誰にも見つからぬように隠された、父の短い手紙。
あれがただの夢ではないのだとしたら、自分の中に何かが起きたのかもしれない。だが何が起きたのか、自分では分からない。分からぬからこそ、知りたいとも思う。
父に会いたい。
それだけでなく、自分に何が起きたのかも知りたい。
玉はそこで、ようやく心の中の言葉が二つあることに気づいた。
一つは父。
一つは自分。
どちらも都へ行く理由になりうる。
そしてどちらも、養父へ正面から差し出せる理屈でもある。
そこまで考えた時、少しだけ眠気が来た。
遅い。
けれど眠れるならましだった。
翌朝、玉はいつもより早く起きた。
顔を洗い、水を浴び、書院へ入る前に一人で呼吸を整える。病み上がりの怠さはまだ消えていない。だが、それを理由に甘えている場合ではない気がした。
養父はすでに朝餉の間にいた。
いつものように無駄のない姿勢で膳の前に座り、玉が来ると一度だけ目を上げる。
「早いな」
「眠れませんでした」
正直に言うと、養父は少しだけ眉を動かした。
叱られるかと思ったが、そうではないらしい。
「考え事か」
「はい」
そこで黙るのは、かえって不誠実な気がした。
玉は膳の前へ座り、手をついてから言った。
「昨日の試験書のことを」
養父はすぐには返さなかった。
しばらく汁椀へ箸を伸ばし、それから静かに問う。
「それで、何を考えた」
「行きたいと思いました」
「昨日もそう言った」
「昨日より、もう少し考えました」
養父の目が、ようやく玉へ向く。
「申してみよ」
玉は背筋を伸ばした。
「父に会いたいのは、本心です」
声に出すと、まだ少し恥ずかしかった。
だがもう、そこを隠しても仕方がない。
「ですが、それだけではなく」
玉は一息置く。
養父の表情は変わらない。
それでも、聞いていると分かる。
「以前よりも将来に目を向けられる気がします」
「そう思える何かがあるのか」
難しい問いだった。
玉自身、言葉にしようとしてもうまく掴めない。
「考えたことが、以前より強く胸に残るような」
曖昧だ、と自分でも思った。
けれど今は、それ以上言えない。
養父はしばらく黙っていたが、やがて静かに汁を置いた。
「都へ行けば、それが分かると思うのか」
「分かるかもしれない、と」
玉は答えた。
「父のいる場所なら」
それは期待かもしれない。
根拠の薄い、子どもじみた期待だ。
だが嘘は言いたくなかった。
養父はそれを聞き終えても、すぐには何も言わなかった。
朝の光が膳へ落ち、湯気がゆっくり立ちのぼる。伯父家の朝の静けさは、いつもなら玉の気持ちを整えてくれる。だが今朝は、その静けさそのものが返答を待っているようで、妙に長く感じられた。
「学はどうだ」
不意に養父が言った。
玉は一瞬、問いの向きが変わったことに戸惑う。
「……遅れてはおりません」
「答えになっていない」
養父の声音は厳しい。
けれど、拒絶ではない。
玉はそこに小さな希望を見た。
「人並み以上には、学んでいるつもりです」
「神具の扱いは」
「本家で見てきたことしか」
「見てきたものを、どう覚えている」
玉はそこでようやく、これが“試し”なのだと気づいた。
養父は都へ行かせるかどうかを、感情ではなく秤にかけようとしている。玉が国神仕寮の試験書へ見合うだけの基礎を持つかどうかを。
それなら、答えねばならない。
玉は一つずつ答えた。
神具の置き方。
石の扱い。
奉納の控えをどう読むか。
余理本家で見てきた順序。
全部が完璧ではない。だが、自分なりに見て、覚え、考えてきたことは確かだった。
養父はその間、一度も頷かなかった。
ただ聞き、時折問いを足し、玉の答え方を見ている。
やがて長い沈黙のあと、ようやく言った。
「都へ行くなら、本家の名を背負って行け」
玉の胸が強く打つ。
それはつまり。
「行かせて、くださるのですか」
養父はすぐには頷かなかった。
「まだ試験前だ」
当然のことを言う口調だった。
「向こうが呼んだからといって、お前が必ず迎えられるとは限らぬ。国神仕寮が何を見るかも分からぬ。だが、行くこと自体は止めぬ」
玉は思わず、膳へ深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼は早い」
そう言いながらも、養父の声は少しだけ柔らかかった。
「三日で支度を整えろ。道中に同行する者はこちらで選ぶ」
「はい」
「浮つくな。都へ遊びに行くのではない」
「はい」
「……それから」
養父はそこで一度言葉を切った。
「父に会うにせよ、会わぬにせよ、お前はお前の足で立て」
玉は顔を上げた。
養父は玉をまっすぐ見ている。
そこにあるのは警戒だけではない。
むしろ、今ようやく認められたような、奇妙な重みだった。
「父がどのようなお方であっても、お前がその影へ飲まれる必要はない」
その言葉に、玉は何と返せばよいか分からなかった。
ただ頷く。
養父はそれで十分だと思ったらしい。
再び膳へ向き直り、朝餉を続ける。
玉も箸を取り上げた。
だが味はほとんど分からない。胸の内が熱すぎて、粥の温度さえ曖昧だった。
都へ行ける。
父に会えるかもしれない。
国神仕寮の試を受ける。
自分の中の違和感の正体も、何か一つくらいは分かるかもしれない。
それらが一度に押し寄せてくる。
けれど玉は、もう昨日のようには浮つかなかった。
養父に理を問われ、自分の口で答えたことで、願いが少しだけ現実の形を取ったからだ。
朝餉を終えたあと、玉は書院へ戻った。
机の引き出しを開け、試験書と、袖の内に隠していた父の手紙を並べて置く。
公の文。
私の文。
二つを見比べ、玉はしばらく何も言わなかった。
父はどういうつもりでこれを送ったのだろう。
会いたいのか。
必要としているのか。
それとも、そのどちらもなのか。
まだ分からない。
だが一つだけ、はっきりしたことがある。
もう、自分は待っているだけの子ではいられない。
都へ行くと決めた以上、自分の足で父の前へ立つしかない。
玉はゆっくりと二つの文を重ね、丁寧に箱へ収めた。
父の手紙は誰にも見せない。
試験書は、堂々と持っていく。
その区別だけは、今の自分にもよく分かる。




