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大樹  作者: 常居嗣子
第三章

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【5】決意


 その夜、玉はほとんど眠れなかった。


 熱は下がっている。身体も、昼よりはいくらか軽い。なのに目を閉じると、机の上に置かれた試験書の白さばかりが瞼の裏へ浮かぶ。国神仕寮。余理玉。都への道。どの文字も昼間より濃く見えた。


 養父は、行かせるとも行かせぬとも言わなかった。


 ただ、行くなら余理家として堂々と行けと言った。


 その言葉の意味を、玉は何度も考えた。


 父に会いたい。

 それは本心だ。

 けれどそれだけでは足りない。足りぬのだと、養父は遠回しに、しかしはっきり教えた。


 国神仕寮が玉を呼ぶのは、公の文の上では“余理本家に養育される若者”としてであって、“会ったことのない長子”としてではない。ならば玉もまた、迎えられる側としての体裁でなければならない。


 それは不思議と、玉の気持ちを少し落ち着かせた。


 父に会いたいというだけなら、あまりに心許ない。

 けれど学び、備え、ふさわしい顔で都へ出るのなら、それは願いではなく未来への道になる。


 玉は寝台の上で、薄闇へ目を開いたまま考え続けた。


 自分に何があるだろう。


 学は嫌いではない。

 むしろ好きだ。書も記録も、人の顔色を読むよりはよほど分かりやすい。

 養父のもとで、それなりによく学んできたつもりだ。

 余理本家の長子として、恥をかかぬ程度には。

 だが国神仕寮が求める“神鎮の素養”となると、自分に何があるのかは分からない。


 そこで玉は、あの熱のことを思い出した。


 大樹。

 木の実。

 空白の二日。

 誰にも見つからぬように隠された、父の短い手紙。


 あれがただの夢ではないのだとしたら、自分の中に何かが起きたのかもしれない。だが何が起きたのか、自分では分からない。分からぬからこそ、知りたいとも思う。


 父に会いたい。

 それだけでなく、自分に何が起きたのかも知りたい。


 玉はそこで、ようやく心の中の言葉が二つあることに気づいた。


 一つは父。

 一つは自分。


 どちらも都へ行く理由になりうる。

 そしてどちらも、養父へ正面から差し出せる理屈でもある。


 そこまで考えた時、少しだけ眠気が来た。


 遅い。

 けれど眠れるならましだった。


 翌朝、玉はいつもより早く起きた。

 顔を洗い、水を浴び、書院へ入る前に一人で呼吸を整える。病み上がりの怠さはまだ消えていない。だが、それを理由に甘えている場合ではない気がした。


 養父はすでに朝餉の間にいた。


 いつものように無駄のない姿勢で膳の前に座り、玉が来ると一度だけ目を上げる。


「早いな」


「眠れませんでした」


 正直に言うと、養父は少しだけ眉を動かした。

 叱られるかと思ったが、そうではないらしい。


「考え事か」


「はい」


 そこで黙るのは、かえって不誠実な気がした。

 玉は膳の前へ座り、手をついてから言った。


「昨日の試験書のことを」


 養父はすぐには返さなかった。

 しばらく汁椀へ箸を伸ばし、それから静かに問う。


「それで、何を考えた」


「行きたいと思いました」


「昨日もそう言った」


「昨日より、もう少し考えました」


 養父の目が、ようやく玉へ向く。


「申してみよ」


 玉は背筋を伸ばした。


「父に会いたいのは、本心です」


 声に出すと、まだ少し恥ずかしかった。

 だがもう、そこを隠しても仕方がない。


「ですが、それだけではなく」


 玉は一息置く。


 養父の表情は変わらない。

 それでも、聞いていると分かる。


「以前よりも将来に目を向けられる気がします」


「そう思える何かがあるのか」


 難しい問いだった。

 玉自身、言葉にしようとしてもうまく掴めない。


「考えたことが、以前より強く胸に残るような」


 曖昧だ、と自分でも思った。

 けれど今は、それ以上言えない。


 養父はしばらく黙っていたが、やがて静かに汁を置いた。


「都へ行けば、それが分かると思うのか」


「分かるかもしれない、と」


 玉は答えた。


「父のいる場所なら」


 それは期待かもしれない。

 根拠の薄い、子どもじみた期待だ。

 だが嘘は言いたくなかった。


 養父はそれを聞き終えても、すぐには何も言わなかった。

 朝の光が膳へ落ち、湯気がゆっくり立ちのぼる。伯父家の朝の静けさは、いつもなら玉の気持ちを整えてくれる。だが今朝は、その静けさそのものが返答を待っているようで、妙に長く感じられた。


「学はどうだ」


 不意に養父が言った。


 玉は一瞬、問いの向きが変わったことに戸惑う。


「……遅れてはおりません」


「答えになっていない」


 養父の声音は厳しい。

 けれど、拒絶ではない。

 玉はそこに小さな希望を見た。


「人並み以上には、学んでいるつもりです」


「神具の扱いは」


「本家で見てきたことしか」


「見てきたものを、どう覚えている」


 玉はそこでようやく、これが“試し”なのだと気づいた。


 養父は都へ行かせるかどうかを、感情ではなく秤にかけようとしている。玉が国神仕寮の試験書へ見合うだけの基礎を持つかどうかを。


 それなら、答えねばならない。


 玉は一つずつ答えた。

 神具の置き方。

 石の扱い。

 奉納の控えをどう読むか。

 余理本家で見てきた順序。

 全部が完璧ではない。だが、自分なりに見て、覚え、考えてきたことは確かだった。


 養父はその間、一度も頷かなかった。

 ただ聞き、時折問いを足し、玉の答え方を見ている。


 やがて長い沈黙のあと、ようやく言った。


「都へ行くなら、本家の名を背負って行け」


 玉の胸が強く打つ。


 それはつまり。


「行かせて、くださるのですか」


 養父はすぐには頷かなかった。


「まだ試験前だ」


 当然のことを言う口調だった。


「向こうが呼んだからといって、お前が必ず迎えられるとは限らぬ。国神仕寮が何を見るかも分からぬ。だが、行くこと自体は止めぬ」


 玉は思わず、膳へ深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


「礼は早い」


 そう言いながらも、養父の声は少しだけ柔らかかった。


「三日で支度を整えろ。道中に同行する者はこちらで選ぶ」


「はい」


「浮つくな。都へ遊びに行くのではない」


「はい」


「……それから」


 養父はそこで一度言葉を切った。


「父に会うにせよ、会わぬにせよ、お前はお前の足で立て」


 玉は顔を上げた。


 養父は玉をまっすぐ見ている。

 そこにあるのは警戒だけではない。

 むしろ、今ようやく認められたような、奇妙な重みだった。


「父がどのようなお方であっても、お前がその影へ飲まれる必要はない」


 その言葉に、玉は何と返せばよいか分からなかった。


 ただ頷く。


 養父はそれで十分だと思ったらしい。

 再び膳へ向き直り、朝餉を続ける。


 玉も箸を取り上げた。

 だが味はほとんど分からない。胸の内が熱すぎて、粥の温度さえ曖昧だった。


 都へ行ける。


 父に会えるかもしれない。

 国神仕寮の試を受ける。

 自分の中の違和感の正体も、何か一つくらいは分かるかもしれない。


 それらが一度に押し寄せてくる。


 けれど玉は、もう昨日のようには浮つかなかった。

 養父に理を問われ、自分の口で答えたことで、願いが少しだけ現実の形を取ったからだ。


 朝餉を終えたあと、玉は書院へ戻った。

 机の引き出しを開け、試験書と、袖の内に隠していた父の手紙を並べて置く。


 公の文。

 私の文。


 二つを見比べ、玉はしばらく何も言わなかった。


 父はどういうつもりでこれを送ったのだろう。

 会いたいのか。

 必要としているのか。

 それとも、そのどちらもなのか。


 まだ分からない。


 だが一つだけ、はっきりしたことがある。


 もう、自分は待っているだけの子ではいられない。

 都へ行くと決めた以上、自分の足で父の前へ立つしかない。


 玉はゆっくりと二つの文を重ね、丁寧に箱へ収めた。

 父の手紙は誰にも見せない。

 試験書は、堂々と持っていく。


 その区別だけは、今の自分にもよく分かる。

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