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大樹  作者: 常居嗣子
第三章

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【4】試験書



 机の上に置かれた一通は、伯父家の封ではなかった。


 白い包みは簡素で、余計な飾りがない。だが簡素であること自体に、かえって目が留まる。雑に届いた文ではない。格式ばってもいないのに、きちんとした筋を通ってここへ来たのだと、見ただけで分かる。


 玉はしばらく、その前に立ち尽くしていた。


 胸の内側が、妙に騒ぐ。

 さっき庭へ出る前まで抱えていたざわつきとは違う。もっと一点へ寄る熱だ。高熱がぶり返したわけでもない。顔が熱いのは、たぶん別の理由だった。


 父に繋がる。


 まだ封も切っていないのに、そう思ってしまう。

 思ってしまう自分を落ち着けようとして、玉は一度息を整えた。


 ただの本家宛の書状かもしれない。

 養父の知人からの文かもしれない。

 自分には関係のないものかもしれない。


 そう考えれば少しは冷静になるかと思ったが、かえって胸が落ち着かなかった。関係がないなら、どうして自分の机に置かれているのか。誰かが置き間違えたとしても、こんな場所へわざわざ紛れ込むだろうか。


 玉は文へ手を伸ばした。


 紙の感触は乾いていて、張りがある。

 裏返すと、封の脇へ記された名に目が止まった。


 国神仕寮。


 その四文字を見た瞬間、玉の喉がひどく狭くなった。


 父だ。


 今度こそ、そう確信した。

 もちろん、父が自ら書いた文ではないかもしれない。

 だが、父のいる場所から来た文であることは間違いない。


 玉は封を切る前に、袖の内へ隠したままの手紙のことを思った。

 回復したなら、再び会いたい。

 義伯父には他言無用。


 あの短い文がなければ、この試験書もただの正式な招きにしか見えなかったかもしれない。けれど今は違う。先に“思い”が届いてしまった後、公的手段が追って来たのだと分かる。


 玉はそっと封を開いた。


 中の紙は一枚。

 文面は整っていて、無駄がない。

 国神仕寮は、学才および神鎮の素養を持つ若者を募ること。

 余理本家に養育される余理玉へ、その試に応じるよう求めること。

 日時、同行者、都での便宜。


 どれも端正な公文だった。


 そこに“父”は書かれていない。

 会いたいという私的な情もない。

 ただ国神仕寮の一員としてふさわしいかを問う文になっている。


 なのに玉は、そこに確かに父の気配を見た。


 自分を呼んでいる。


 そう思った瞬間、胸の奥の熱が、今度ははっきりと形を持った。

 会えるかもしれない。

 都へ行けるかもしれない。

 噂の中だけにいた父が、本当に自分の前へ現れるかもしれない。


 嬉しい。

 けれど、それだけではなかった。


 怖い。


 その感情に気づいた時、玉は自分でも少し驚いた。

 会いたいと思っていた。

 会ってみたいと何度も考えた。

 それなのに、現実にその道が開くと怖い。


 父はどんな顔をするのだろう。

 自分を見て何と思うのだろう。

 噂どおり静かで、有能で、少し冷たい人なのか。

 それとも、袖の中の手紙を書くような人なのか。


 そのどちらでもあり得る気がして、玉は文を持ったまま立ち尽くした。


 すると、廊下の向こうで衣擦れがした。

 養父だ。


 玉は反射的に試験書を机へ伏せた。

 今度は文そのものを隠しきれなかった。机の上に出したままだ。

 だがすでに封は切られている。隠すには遅い。


 戸が開く。


 養父が書院へ入ってきて、まず玉の顔を見、それから机の上へ落ちた視線で全てを理解したらしかった。表情の変化は大きくない。だが空気が少し硬くなる。


「届いたか」


 玉は目を瞬いた。


「ご存じだったのですか」


「家へ届く文があれば、まず私のところへ来る」


 もっともな話だ。

 玉は少しだけ気恥ずかしくなった。自分だけが急に世界の真ん中へ放り込まれたように騒いでいたのだと気づかされる。


 養父は机の前へ歩み寄り、伏せられた試験書を裏返した。

 文面に目を走らせる。

 すでに一度は読んでいるはずなのに、確認するように最後まで読む。


 沈黙が長い。


 玉は息を詰めて、その横顔を見ていた。

 怒るだろうか。

 拒むだろうか。

 国神仕寮など関わるなと言うだろうか。


 だが養父が最初に口にしたのは、予想とは少し違う言葉だった。


「よく整っている」


「……はい」


「雑な召しではない」


 それがどういう意味なのか、玉はすぐには分からなかった。

 養父は紙を机へ戻し、指先で軽く端を揃える。


「国神仕寮の名で呼ぶ以上、断りにくい形にはしてある」


 その一言で、玉はようやく養父の言わんとするところを悟った。


 これは単なる“会いに来い”ではない。

 正式な手順の上へ置かれた招きだ。

 だからこそ、軽々しく跳ね返しにくい。


 養父はしばらく黙っていたが、やがて低く問うた。


「お前は行きたいか」


 玉の心臓が強く打つ。


 そんなふうに、正面から意思を問われると思っていなかった。

 もっと先に、駄目だと言われるか、あるいは黙って処理されるものだとどこかで思っていたのだ。


 だからこそ、その問いは玉にとってほとんど救いのようだった。


「……行きたいです」


 答えはすぐに出た。

 迷っていたつもりだったのに、口にすると驚くほど真っ直ぐだった。


 養父の目が、少しだけ細くなる。

 叱られるかもしれない、と玉は一瞬身構えた。

 だが養父は怒鳴らなかった。


「理由は」


「父に……」


 そこまで言って、玉は詰まる。

 父に会いたい。

 その一言が、急に幼く聞こえそうでためらった。


 養父は待っている。

 急かしはしない。

 その静けさが、かえって玉に正直さを強いた。


「父に会いたい、のです」


 言ってしまえば、少しだけ肩の力が抜けた。

 玉はそのまま続ける。


「それに、熱のあとのことも……何か、知れるかもしれません」


 養父の目がわずかに動いた。

 だがその言葉を否定はしない。


「お前は、あの熱のことをまだ気にしているのか」


「はい」


「夢のせいで」


「夢だけではありません」


 玉は文のことを言うべきか、一瞬迷った。

 けれど言えない。

 袖の内の手紙は、まだ誰にも知られたくなかった。


「何かが、少し……違う気がします」


 曖昧な言い方だった。

 自分でも何が違うのか説明できない。

 だが養父は、その曖昧さを責めなかった。


 代わりに、深く息を吐く。


「お前の父は」


 珍しく、養父の方からその言葉が出た。


「尊いお方だ」


 玉は黙って聞く。


「余理の伝統に従い、お前を本家へ預けてくださった。それだけでも、本来なら十分すぎる」


 養父の声音は平らだ。

 英定を悪く言うつもりはない。

 むしろ、敬意がある。


「だが、尊い方は時に、近すぎると人の手には余る」


 玉はその言葉の意味を考えた。


 嫌っているわけではない。

 恐れているのとも少し違う。

 大事だからこそ、触れすぎたくない。

 その距離感だ。


 養父は続けた。


「私は、余計な波を立てたくなかっただけだ。父の話をお前に多くしなかったのも、そのためだ」


 玉は思わず顔を上げた。


 そんなふうに、はっきり言われたのは初めてだった。


 養父は玉の視線を受け止め、少しだけ目を伏せる。


「だが、向こうから正式に文が来た以上、避けては通れぬ」


 玉の胸が高鳴る。

 それはつまり。


「では」


「すぐに喜ぶな」


 養父は静かに制した。


「行かせるかどうかは、まだ決めていない」


 玉は息を呑む。

 ぬか喜びだったかと思うと、胸の熱が少し冷える。


 だが養父はすぐに続けた。


「国神仕寮の試は、公のものだ。断るにも理が要る。受けるにも理が要る」


「理……」


「お前が行くなら、“父に会いたいから”だけでは足りぬ」


 玉は唇を結んだ。

 それはそうだ。

 自分でも分かる。


 養父は机上の試験書を指で軽く叩いた。


「学才と神鎮の素養を問う、とある。お前が都へ出るなら、この文にふさわしい顔で行け」


 その言葉は、冷たくはなかった。

 むしろ、道を示しているように聞こえた。


 父へ会いたい。

 その願いだけでは子どもだ。

 けれど国神仕寮へ向かう若者としての理が立つなら、道は開く。


 玉はその意味を胸の中で反芻した。


「……分かりました」


「今日は休め」


 養父はそう言って、試験書を元の位置へ戻した。


「だが明日からは、そのつもりで振る舞え。国神仕寮が何を見るかは分からぬ。少なくとも、病み上がりのまま浮ついているようでは話にならぬ」


「はい」


 玉は深く頭を下げた。


 養父はそれ以上言わず、書院を出ていく。

 戸が閉まったあとも、玉はしばらく顔を上げられなかった。


 胸の奥で、いくつもの感情が入り混じっている。


 嬉しい。

 怖い。

 落ち着かない。

 けれど、それでも前へ進めるかもしれない。


 玉はゆっくり顔を上げ、机の上の試験書を見つめた。

 国神仕寮。

 父のいる場所。

 そして、自分を呼ぶ正式な文。


 袖の内には、あの短い手紙がある。

 机の上には、公の試験書がある。


 私と公。

 父と国神仕大輔。

 その二つが並んだことで、玉の中の父は急に実在の輪郭を持ち始めていた。


 玉は試験書を丁寧に畳み、両手で持った。


 行きたい。

 今度は、その願いを心の中だけに留める。


 強く思えば何かがどこかへ届いてしまいそうな、妙な感覚がまだ胸の奥に残っていたからだ。

 理由は分からない。

 ただ、今はまだ誰にも言わぬ方がよい気がした。


 その代わり、玉は静かに決める。


 都へ行く。

 国神仕寮の試を受ける。

 そして父に会う。


 その決意だけは、もう熱にも夢にも揺らがなかった。

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