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大樹  作者: 常居嗣子
第三章

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【3】熱の名残り


  その日の午後、玉は一文字もまともに写せなかった。


 机の上には写本用の紙が広げられ、筆も墨も整っている。いつもなら、書き始めてしまえば心は静まる。形の定まった文字を追い、前の行をなぞり、余計なことを考えぬようにしていれば、半日くらいはすぐに過ぎる。


 けれど今日はだめだった。


 手元の紙より、袖の内に隠した文の方がずっと重い。


 父が来た。


 そう思うたびに、胸の中が妙に熱くなる。

 高熱の名残ではないと思いたいが、では何なのかと問われれば答えようがなかった。


 玉は筆を置いた。


 開け放たれた障子の外では、風が庭木を揺らしている。見慣れた書院、見慣れた庭、見慣れた本家の静けさ。何も変わっていない。自分だけが、二日伏せったあとで少しおかしくなったみたいだった。


 おかしい、と言ってよいのかどうかも分からない。


 ただ、熱から起きて以来、自分の内側の声が少し近い。

 考えたことが、ただ考えただけで終わらず、胸の奥でやけにはっきり響く。

 しかも時々、それが自分一人の中だけに収まらないような、変な感じがある。


 もちろん、そんなことがあるはずはない。


 あるはずがないから、玉は何度も自分へそう言い聞かせた。夢を見ただけだ。高熱でうなされただけだ。文を見つけて、気が高ぶっているだけだと。


 それでも落ち着かない。


 玉はそっと袖の中の文へ触れた。

 紙の角が指先へ当たる。

 ある。

 夢ではない。


「……会いたい」


 また小さく呟いてしまう。


 その瞬間、廊下の向こうでぱた、と足音が止まった。


 玉は顔を上げた。


 誰かが来たのかと思ったが、戸は開かない。気のせいか、と息をつこうとした時、すぐに別の足音が近づいた。今度ははっきりしている。早足だ。


 戸が開き、養父が姿を見せた。


 玉は思わず背筋を正した。養父の顔が、いつもよりわずかに険しい。


「父上」


「何をしていた」


 問いかけが少し急だった。玉は戸惑いながら答える。


「書を……」


 そこで言葉が止まる。嘘ではない。だが写しはほとんど進んでいない。養父の視線が机の上へ落ち、紙の白さを見て、すぐにまた玉へ戻る。


「顔色が悪い」


「もう熱は」


「熱の話ではない」


 そこで養父は一歩、中へ入ってきた。


 玉は小さく息を呑む。何か見つかっただろうか。文を隠したことに気づかれただろうか。そう思ったが、養父の目は袖の中ではなく、玉の顔そのものを見ている。


「さっきから、妙に落ち着かぬ」


 養父はそう言った。


 玉は一瞬、返す言葉を失った。


 落ち着かないのは確かだ。

 でもそれは自分の内側のことで、こうして見ただけで分かるほど露骨だっただろうか。


「申し訳ありません」


 とりあえずそう言うと、養父はすぐには頷かなかった。


 しばらく黙っていたが、やがて少しだけ疲れたように息を吐く。


「病み上がりだ。無理に机へ向かわずともよい」


「ですが」


「よいと言っている」


 声音は厳しい。けれど叱責というより、どう扱えばよいか測りかねている響きに近かった。玉はそのことに、かえって不安を覚える。


 養父は、だいたいいつも迷わない。

 叱る時は叱る。

 褒めることは少ないが、認める時は短く認める。

 その人が今は、自分の前でほんの少しだけ足場を失ったように見えた。


 どうしてだろう。


 玉は口を開きかけ、やめた。

 父の文のことは言えない。

 夢のことも、もうこれ以上は話しにくい。


 養父は玉の迷いを別の意味に取ったらしい。


「まだ苦しいか」


「いえ」


「頭が痛むか」


「それも、もう」


 ではなぜこんな顔をしている、と続けたそうな目だった。けれど養父は言葉にしなかった。代わりに、机の脇へ置かれていた水差しへ手を伸ばし、玉の湯呑に水を注ぐ。


 その手つきがいつもより少しだけ荒い。


「しばらく庭を歩け」


「え」


「座っていると余計に気が詰まる顔だ」


 玉は驚いて養父を見た。

 庭を歩け、などと言われるのは珍しい。養父は基本的に、体調が戻らぬうちは静かにしていろと言う方だ。


 玉の視線を受けて、養父は少しだけ眉を寄せた。


「何だ」


「いえ……少し、意外で」


「病の後は、部屋に籠もりすぎるのもよくない」


 そう言いながら、養父はどこか別のことを考えている顔だった。玉はその様子を見て、ますます胸がざわつく。


 この人は、自分を心配している。

 それは分かる。

 でも今の心配は、熱がぶり返すかもしれない、という種類のものだけではない気がした。


 何かおかしい。

 自分が。

 あるいは、自分の周りが。


 玉はそう思い、すぐに首を振った。

 違う。

 おかしいのは、たぶん自分の方だ。高熱のあとで気が弱っているだけだ。


 玉は湯呑を手に取った。冷たい水が喉を通る。少しだけ落ち着く。


「父上」


 気づけば口にしていた。


「何だ」


「私は……熱の間、何か変なことをしておりましたか」


 養父の指が、ほんのわずかに止まる。


 玉はその止まり方に気づいてしまった。


 本当に何もなかったなら、こんな間は要らない。


「うなされてはいた」


 養父はややあって答えた。


「夢でも見ていたのだろう」


「何か、喋って」


「熱の言葉だ」


 切るような答え方だった。

 それ以上は聞くな、と言われているのが分かる。


 玉は頷いた。頷くしかなかった。


「……はい」


 養父は玉の顔を見つめ、それから少しだけ声を落とす。


「余計なことは考えるな」


 その一言は、妙に重く響いた。


 余計なこと。


 父のことだろうか。

 夢のことだろうか。

 高熱の間に起きたかもしれない、自分の知らない二日間のことだろうか。


 どれを指しているのか分からない。分からないが、その曖昧さがかえって胸に残る。


 養父はそれ以上何も言わず、戸口へ向かった。

 出て行く直前、一度だけ振り返る。


「日が傾く前には戻れ」


「……はい」


 戸が閉まる。


 玉はしばらくその場を動けなかった。

 手の中の湯呑はもう冷たくなっている。

 庭へ出ろと言われたのに、足はすぐには動かなかった。


 余計なことは考えるな。


 そう言われるほど、余計なことばかりが頭へ浮かぶ。


 父の文。

 大樹の夢。

 熱で寝込んだ二日間。

 そして、自分の中へ残った、この変な響き。


 玉はゆっくり息を吐いた。


 いったん外へ出よう。

 そうしなければ、本当に頭がおかしくなりそうだった。


 庭へ降りると、陽はまだ高い。風が葉を揺らし、石の上にまだ昼の熱が残っている。いつもの景色だ。幼い頃から見慣れた本家の庭。落ち着くはずの場所。


 玉はその石畳をゆっくり歩いた。


 けれど数歩も進まぬうちに、胸の奥のざわつきがまた強くなる。

 さっき養父が入ってきた時と同じだ。

 自分の中に何かが溜まり、それが言葉になる前から形を持って外へ滲みそうになる。


 玉は立ち止まり、目を閉じた。


 落ち着け。

 ただの病み上がりだ。

 おかしなものなど何もない。


 そう思った、その時だった。


 遠く、渡り廊下の方から人の言い争う気配がした。大きな声ではない。家人同士が何か行き違っている程度のものだ。いつもなら気にも留めない。だが今日はなぜか、その苛立ちがそのまま自分の胸へ触れたように感じた。


 玉ははっと目を開ける。


 何だ、今のは。


 ただ聞こえただけではない。

 胸の奥が、同じようにざらついた。

 自分が苛立ったわけでもないのに、他人の棘がこちらへ少しだけ映ったみたいだった。


 気のせいだ、と玉は思う。

 思うのに、足先が冷える。


 そのまま庭をぐるりと回り、書院へ戻る頃には、陽は少し傾き始めていた。

 戸を開けると、机の上に一通の文が置かれている。


 見慣れた本家の封ではない。

 白く、端正で、余計な飾りのない包み。


 玉の心臓が、大きく跳ねた。


 その文が何であるか、まだ開く前から分かってしまう。

 胸の奥のざわめきが、一気に熱へ変わる。


 父の文ではない。

 だが父に繋がるものだ。


 玉は戸を閉め、ゆっくりとその一通へ手を伸ばした。


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