【2】父の手紙
玉がその文を見つけたのは、本当にただの偶然だった。
高熱が下がって、ようやく起き上がれるようになった翌々日の昼過ぎ。まだ身体の芯は少し重かったが、ずっと床に伏したままでいる方が落ち着かなかった。養父からは無理をするなと言われていたし、乳母も湯を替えるたびに「まだ顔色が悪うございます」と眉を曇らせた。だが寝台の上で天井ばかり見ていると、自分が本当に二日も三日も熱に浮かされていただけなのか、妙に心許なくなる。
高熱の最中の記憶は、ほとんどなかった。
覚えているのは、苦しかったこと。
胸の奥に熱い塊が詰まり、息を吸っても足りぬようだったこと。
そして、どこかで夢を見たことだ。
大樹を登った。
枝の先へ、先へと。
手のひらほどの実がなっていて、それを取って口にした。
夢というには、あまりにも感覚が鮮やかだった。
木肌のざらつきも、実を噛んだ時の微かな苦みも、まだ舌のどこかに残っている気がする。
けれどそれだけだ。
そのあとどうなったのか、誰が傍にいたのか、自分が何を口走ったのか、玉にはほとんど記憶がない。目を覚ました時にはすでに熱は山を越えていて、養父が硬い顔をして座っており、乳母は安堵しながらも「心配をかけなさいます」と目を赤くしていた。
そして奇妙なことに、その二日間の空白が、ただの空白ではないような感触だけが残った。
書院へ入ると落ち着くはずなのに、少しだけ見慣れぬ感じがする。
自分の筆なのに、置き場所が一瞬だけ遠く思える。
養父の前に座ると、言葉になる前の考えが妙に胸の奥で反響する。
熱のせいだろうか、と玉は思った。
高熱の後は、人の気も弱る。
そういうものかもしれない。
だが、その日ばかりはどうにも落ち着かなかった。
玉は書院の隅に置いてあった自分の小箱を引き寄せた。病に伏す前、読みかけの断簡や、写し損ねた紙片を放り込んだままにしていたものだ。養父は身の回りを常に整えよと言うが、玉はこうした箱の中だけは少し乱れている方が性に合っていた。整えすぎると、かえって息が詰まる。
蓋を開け、紙を一枚ずつ取り出す。
古い写し、途中で諦めた詞書、余白に書いた覚え書き。
その底の方に、見覚えのない折り方をした紙があった。
玉は手を止めた。
白い紙だ。
新しいわけではないが、自分がいつ折ったか思い出せない。
しかも、仕舞い方が妙に丁寧だった。乱雑な箱の底で、その一枚だけがきちんと角を揃えている。
胸の奥で、あのざらつきがもう一度走った。
玉はそっとそれを取り上げる。
紙は薄く、しかし折り目がしっかりついている。
熱で寝込む前に自分が書いたものなら、もう少し雑になっていたはずだった。
開く。
そこに並んでいた文字を見て、玉はすぐには意味を掴めなかった。
まず、筆跡が自分のものに見えたからだ。
だが、よく見れば違う。
自分の字を真似てはいる。
けれど運びが少し滑らかで、ためらいが少ない。
玉はそこまで筆に自信があるわけではない。自分の字の癖くらいは分かる。これは“自分に似ている他人の字”だった。
文面は短い。
国神仕寮の名で招きを送る。
回復したなら、再び会いたい。
義伯父には他言無用。
玉はしばらく、その紙を見つめたまま動けなかった。
父だ、と思った。
そう思うのに、理屈は何一つない。
筆跡は自分に似ている。
内容は簡潔で、父の名も書いていない。
それでも、なぜか、これを書いたのは父だとしか思えなかった。
病に伏していた二日間。
あの妙な夢。
目を覚ました時から、自分の中に少しだけ残っていた他人の体温のような違和感。
全部が、この一枚へ繋がってくる。
「……父上が、来た」
思わず、そう呟いていた。
声に出した瞬間、その言葉がひどく真実味を帯びた。
来た。
父は、自分のところへ来たのだ。
どうやって、などとはまだ考えられない。考えるより先に、その事実だけが胸へ落ちる。
会いたいと思ったからだろうか。
都で名を聞き、国神仕大輔としての働きを耳にし、遠い人を勝手に眩しく思っていた。そういう自分の気持ちに、父が応えてくれたのだろうか。そう考えると、胸の奥が妙に熱くなる。
だが同時に、文の最後の一行が目に刺さる。
義伯父には他言無用。
玉はその文を、何度も見返した。
養父に言ってはいけない。
それはつまり、父もまた養父に遠慮しているということか。
あるいは、父の立場上、軽々しく動けないということか。
玉はその時、養父がなぜ父の話を好まぬのかを少しだけ思い出した。
嫌っているわけではない。
むしろ、その逆に近いのだと玉は幼い頃からなんとなく感じていた。
英定は皇族だ。
もとは皇家の子で、余理へ降婿したとはいえ、その身分の重さは消えない。
そんな人が、余理の伝統に従って長子である玉を本家へ預けてくれた。
それは本家にとって、大きな恩であり、同時に大きな緊張でもある。
いつ気が変わるか分からない。
いつ“皇族として”伝統を壊してくるか分からない。
だからこそ、なるべく波を立てず、触れぬようにしている。
触らぬ神に祟りなし。
養父が父の名を避ける時、玉はいつもそういう種類の慎重さを感じていた。
嫌悪ではない。
軽蔑でもない。
ただ、厄介なほど尊い、余計な手を出したくないだけなのだ。
それが分かるから、玉もあまり父の話を口にしなかった。
けれど、今は違う。
父が来た。
来て、文を残した。
しかも誰にも見つからぬよう、自分の箱の底へ。
それはつまり、この文が“誰にも知られず、自分だけが見つけること”を前提に書かれているということだ。玉はそこで初めて、少しだけ息を詰めた。
誰にも見られていない隙に、これを書いたのだ。
高熱で寝込んでいた自分のそばで。
誰にも気づかれず。
しかも、養父に悟られぬように。
それは、ただ会いに来たというより、もっとずっと危ういことだったのではないか。
玉は紙を持つ指へ力を込める。
父はいったい、何をしたのだろう。
どうして自分は、それを何も覚えていないのだろう。
分からない。
けれど、分からないままでも一つだけ確かなことがある。
父は、自分へ会おうとした。
その事実だけで、胸の中の父の像が少し変わった。
遠い人ではなくなる。
噂の中の英雄でも、国神仕大輔という役目だけの人でもなく、ちゃんと自分のもとへ手を伸ばした人になる。
玉は紙を折り直しかけて、やめた。
もう一度、最初から読む。
短い文。
余計なことは何も書いていない。
それなのに、どうしてこんなにも心が落ち着かないのか。
回復したなら、再び会いたい。
その一行が、玉にはたまらなかった。
再び。
つまり一度は会ったのだ、と文そのものが告げている。
自分の記憶にはない。
ないのに、父は確かにそう書いている。
玉はその不思議さにぞくりとした。恐ろしいのではない。得体が知れない。けれど、得体が知れないことと、嬉しいことが同時に起こるなど、玉には初めての経験だった。
その時だった。
廊下の向こうで足音がした。
養父だ、と玉はなぜかすぐに分かった。
玉は反射的に紙を畳み、袖の内へ滑り込ませた。
なぜ隠したのか、自分でも分からない。
父の言葉に従っただけかもしれない。
あるいは、この紙を今はまだ自分だけのものにしておきたかったのかもしれない。
戸が開く。
養父が書院へ入ってきた。
いつものように無駄のない足取りで、玉の前に立つ。
「何をしていた」
「……箱を、整えておりました」
嘘ではない。
だが本当でもない。
養父は玉の顔をしばらく見ていた。
その視線に、玉の心臓が妙に速くなる。
隠し事をしていると、こんなにも分かりやすく身体へ出るものだとは知らなかった。
「まだ本調子ではあるまい。無理はするな」
「はい」
それだけ言って出ていくかと思ったが、養父はすぐには動かなかった。代わりに、机の上へ視線を落とし、玉の筆や断簡の散らばり方を見る。
「熱の間、何か妙なことはなかったか」
玉は息を止めた。
妙なこと。
それはきっと、うなされたとか、変な夢を見たとか、そういう意味で聞いているのだろう。
けれど玉には、それ以上の意味に聞こえてしまう。
「……大樹の夢を見ました」
思わず口にした。
養父の眉がわずかに動く。
「大樹」
「はい。登って、実を」
そこまで言いかけて、玉は口をつぐんだ。
木の実を食べた、というところまで言うのが妙に怖かった。
養父はそれ以上深くは問わなかった。
ただ、少し考えるような顔をして、それから淡々と言う。
「熱の夢だろう」
「……そう、でしょうか」
「そう思っておけ」
養父の声は平らだった。
平らだが、その奥に“それ以上触れるな”という色がある。
玉はその色に気づきながら、同時に別のことにも気づいた。
養父は父を避ける。
余計な話も避ける。
けれど今の言い方は、ただの無関心ではなかった。
触らぬ神に祟りなし。
その構えが、ここでもまた顔を出している。
養父はようやく身を翻した。
「休め。まだ顔色が悪い」
「はい、父上」
戸が閉まる。
玉はそこで初めて、袖の内の紙を強く握っていたことに気づいた。
掌に折り目が食い込んでいる。
痛みがある。
その痛みが、妙に現実だった。
父は来た。
自分には記憶がない。
でも文がある。
文がある以上、夢ではない。
玉はゆっくりと紙を取り出し、もう一度だけ文面を見た。
回復したなら、再び会いたい。
その一行が、先ほどよりもさらに強く胸へ落ちる。
「……会いたい」
今度は、はっきりと声に出た。
その瞬間、胸の奥で何かがひどく鮮やかに響いた。
ただ願っただけなのに、言葉が自分の内側へ返ってくるような奇妙な感触。
玉は息を呑む。
声は聞こえなかった。
誰かに伝わった気配もない。
けれど、自分の願いだけが、まるで言葉以上の形を持ったように胸へ残る。
あの高熱の二日間に、自分の中で何かが変わったのかもしれない。
そう思うと同時に、恐れより先に、父の顔を見たいという気持ちが強くなっていく。
英雄かもしれない。
妖の研究をしていると言われる不気味な人かもしれない。
静かで冷たい人かもしれない。
それでも、自分のもとへ来て、文を残した人だ。
そのことだけで、玉には十分だった。
玉は紙を丁寧に折り直し、今度は箱の底ではなく、自分の手の届く場所へ隠した。
誰にも見せない。
まだ、今は。
けれどこの一枚が、もう玉の中の何かを動かし始めている。




