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大樹  作者: 常居嗣子
第四章

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【1】父として


 玉が都へ向かったと報せが届いた日の夜、英定は眠れなかった。


 眠れぬこと自体は珍しくない。もともとよく眠る方ではなかったし、病の後はなおさらだ。だが今夜の眠れなさは、熱や痛みのせいではない。胸の内に、収まりの悪いものがひとつ、ずっと居座っている。


 来る。


 その事実だけが、妙に大きい。


 正庁から戻っても、書付に目を通しても、湯を飲んでも、晴れない。いつもなら紙に向かえば思考は整理される。判断すべきことを判断し、切るべきものを切れば、人の心の濁りもそれなりに沈む。けれど今は違った。どれだけ整えても、最後に残るのはたった一つだ。


 玉が来る。


 英定は夜の帳の下りた庭を見た。


 国神仕大輔の邸は、余理邸とは違う。整いすぎていて、余計なものが少ない。庭も同じだ。白砂、低い木、無駄に華やかな花もない。役目に就く者の家としては都合がよいが、暮らしの匂いは薄い。


 玉はこの家をどう思うだろう。


 冷たいと思うか。

 静かすぎると思うか。

 それとも、父の住まいとはこういうものかと、少しは納得するのか。


 分からない。


 分からないことばかりだと、英定は思う。

 あの子の好きな食も、疲れた時の癖も、怒った時にどんな顔をするのかも、まだ知らない。


 知らないのに、知ったつもりになりかける瞬間がある。


 二日間、玉の身体にいたからだ。


 その二日で見たものが、英定の判断を時々曇らせる。玉の目で見た書院、玉の手で持った筆、玉の胸の内に沈んでいた父への憧れ。あれは玉のものであって、英定のものではない。なのに、あまりに近く触れてしまったせいで、境目が時々曖昧になる。


 それが恐ろしかった。


 父として会いたい。

 だが、勝手に“知っている”と思い込んだまま会えば、あの子の今を取り違える。


 英定は文机の前に座った。


 明日のうちに、玉が邸へ着くとは限らない。道中で一泊することもあるだろう。養父がどの程度の人数をつけたのか、道を急がせるのか慎重を取るのか、それ次第で変わる。分かっているのに、心だけが勝手に門前の音を待つ。


 情けない、と英定は思う。


 これでは、若い頃のようだ。

 準基の頃、自分の力で誰かを救えると思った時のように。

 明の頃、弱い身体のくせに明日を欲しがった時のように。


 待つことは、人を弱くする。


 英定は引き出しを開けた。そこには、今も晴蒼の短い文がある。


 ――あなたは眠ってください。探し物は私がしておきます。


 眠れぬ夜に見るには、あまりによくない文字だった。


 晴蒼がいれば、こういう時も静かだっただろうか、と英定は思う。

 落ち着かぬ顔を見ても、たぶん笑いはしない。

 「待つと決めたのなら、最後まで待ちなさい」とでも言うのかもしれない。


 あの女は、感情に溺れることを恥とは言わなかったが、感情で段取りを崩すことは嫌う人だった。


 英定は紙を戻し、引き出しを閉めた。


 今夜の自分は、少し晴蒼に似合わない。

 それでも明日、玉が来るなら、少なくとも父として見苦しすぎる顔は見せたくなかった。


 眠れなくとも、横にはなる。

 朝には起きる。

 いつもどおりの顔で、いつもどおりの指示を出し、いつもどおり国神仕大輔として立つ。


 その上で、門が開いた時だけ、少し違う男になればいい。


 それくらいのこともできぬなら、今まで何を積み上げてきたのだと、英定は自分へ言い聞かせた。


 灯を落とし、床に就く。


 目は閉じる。

 眠りは来ない。

 ただ、夜の底で一つだけはっきりしていることがある。


 明日か、その次か、いずれ玉は来る。

 そしてその時、自分は長子と初めてまともに向き合うのだ。


 遅すぎるほど遅い再会だった。

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