【1】父として
玉が都へ向かったと報せが届いた日の夜、英定は眠れなかった。
眠れぬこと自体は珍しくない。もともとよく眠る方ではなかったし、病の後はなおさらだ。だが今夜の眠れなさは、熱や痛みのせいではない。胸の内に、収まりの悪いものがひとつ、ずっと居座っている。
来る。
その事実だけが、妙に大きい。
正庁から戻っても、書付に目を通しても、湯を飲んでも、晴れない。いつもなら紙に向かえば思考は整理される。判断すべきことを判断し、切るべきものを切れば、人の心の濁りもそれなりに沈む。けれど今は違った。どれだけ整えても、最後に残るのはたった一つだ。
玉が来る。
英定は夜の帳の下りた庭を見た。
国神仕大輔の邸は、余理邸とは違う。整いすぎていて、余計なものが少ない。庭も同じだ。白砂、低い木、無駄に華やかな花もない。役目に就く者の家としては都合がよいが、暮らしの匂いは薄い。
玉はこの家をどう思うだろう。
冷たいと思うか。
静かすぎると思うか。
それとも、父の住まいとはこういうものかと、少しは納得するのか。
分からない。
分からないことばかりだと、英定は思う。
あの子の好きな食も、疲れた時の癖も、怒った時にどんな顔をするのかも、まだ知らない。
知らないのに、知ったつもりになりかける瞬間がある。
二日間、玉の身体にいたからだ。
その二日で見たものが、英定の判断を時々曇らせる。玉の目で見た書院、玉の手で持った筆、玉の胸の内に沈んでいた父への憧れ。あれは玉のものであって、英定のものではない。なのに、あまりに近く触れてしまったせいで、境目が時々曖昧になる。
それが恐ろしかった。
父として会いたい。
だが、勝手に“知っている”と思い込んだまま会えば、あの子の今を取り違える。
英定は文机の前に座った。
明日のうちに、玉が邸へ着くとは限らない。道中で一泊することもあるだろう。養父がどの程度の人数をつけたのか、道を急がせるのか慎重を取るのか、それ次第で変わる。分かっているのに、心だけが勝手に門前の音を待つ。
情けない、と英定は思う。
これでは、若い頃のようだ。
準基の頃、自分の力で誰かを救えると思った時のように。
明の頃、弱い身体のくせに明日を欲しがった時のように。
待つことは、人を弱くする。
英定は引き出しを開けた。そこには、今も晴蒼の短い文がある。
――あなたは眠ってください。探し物は私がしておきます。
眠れぬ夜に見るには、あまりによくない文字だった。
晴蒼がいれば、こういう時も静かだっただろうか、と英定は思う。
落ち着かぬ顔を見ても、たぶん笑いはしない。
「待つと決めたのなら、最後まで待ちなさい」とでも言うのかもしれない。
あの女は、感情に溺れることを恥とは言わなかったが、感情で段取りを崩すことは嫌う人だった。
英定は紙を戻し、引き出しを閉めた。
今夜の自分は、少し晴蒼に似合わない。
それでも明日、玉が来るなら、少なくとも父として見苦しすぎる顔は見せたくなかった。
眠れなくとも、横にはなる。
朝には起きる。
いつもどおりの顔で、いつもどおりの指示を出し、いつもどおり国神仕大輔として立つ。
その上で、門が開いた時だけ、少し違う男になればいい。
それくらいのこともできぬなら、今まで何を積み上げてきたのだと、英定は自分へ言い聞かせた。
灯を落とし、床に就く。
目は閉じる。
眠りは来ない。
ただ、夜の底で一つだけはっきりしていることがある。
明日か、その次か、いずれ玉は来る。
そしてその時、自分は長子と初めてまともに向き合うのだ。
遅すぎるほど遅い再会だった。




