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大樹  作者: 常居嗣子
第二章

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【9】焼失


  火が家を包む音は、思ったより低かった。


 轟々と空へ吠えるものだとどこかで思っていた。だが実際には違う。木が熱に軋み、布が縮み、柱の奥で乾いたものが弾ける。そういう小さな音がいくつも重なって、ひとつの重い響きになる。余理邸は、その低い音の中でゆっくりと家の形を失い始めていた。


 珠は暦に託された。

 玉は本家にいる。


 その二つだけが、英定をまだ立たせていた。


 だが、立っていられることと、何をすべきか分かることは別だった。


 井戸から運ばれる水。

 神具を抱えて走る家人。

 怒鳴り声。

 咳き込む声。

 煙。


 どこへ目を向けても、人と火が入り乱れている。英定はその中で、まず晴蒼の姿を探した。見失うなと思う。見失ったら、もう戻れない気がした。


 いた。


 回廊の端、まだ火が完全には回っていない一角で、晴蒼は二人の女へ何かを言い渡している。声は聞こえない。だが、唇の動きと手の指し示す方向で、何をしているかは分かった。


 帳面だ。神具の控えだ。余理家が余理家として続くための“記録”を、あの女は最後まで捨てていない。


 英定はその強さに腹が立った。


 家を守ろうとするな。

 まず逃げろ。

 そう叫びたかった。


 だが、あの女が家そのものでもあることを、英定は知っていた。晴蒼にとって余理邸は、ただ住んでいる場所ではない。家名であり、祈りであり、商いであり、祖先から渡された継承そのものだ。英定のように“降りてきた”人間の理屈では切れないものがある。


 だからこそ、余計に歯がゆい。


「晴蒼!」


 英定は声を張った。


 晴蒼が振り向く。熱気の向こう、灯の残り火に照らされた横顔は、妙に落ち着いて見えた。


 その顔を見た瞬間、英定の胸の奥に、嫌な確信が生まれる。


 この女は、逃げないかもしれない。


 自分が生きることより、家の“残るもの”を選ぶ。そういう決断をしてしまうかもしれない。余理の女としてなら、十分あり得た。


 英定は走った。


 もう理も順もない。ただ火の間を縫って晴蒼の方へ向かう。袖が熱い。喉が痛い。息を吸うたび煙が肺へ入る。だが止まれない。


 晴蒼の近くまで行くと、足元に帳面が二冊落ちていた。女たちが運び損ねたものだろう。晴蒼はそれを拾わせようとしていたらしい。英定はそのうち一冊を蹴るように脇へ寄せた。


「そんなものは後だ!」


 晴蒼が英定を見る。


「後では間に合いません」


「知るか!」


 喉が焼けて声が荒れる。

 英定自身、あれほど怒鳴ったのは久しぶりだった。


 晴蒼はその怒声を受けても怯まなかった。

 ただ、少しだけ眉を寄せる。


「珠は」


「暦が連れた」


 その一言で、晴蒼の目の奥にだけ安堵が走った。

 ほんの一瞬。

 それで十分だった。


「でしたら」


「お前も来い」


 英定は言葉を重ねた。


「今すぐだ」


 晴蒼は答えない。代わりに、まだ火の回っていない奥を見た。英定はその視線の先を追う。そこには舞具の長箱がある。余理家の巫女舞に使うものだ。晴蒼にとっては、珠の次に手放しがたいものなのかもしれない。


 英定はそこで、はっきり悟った。


 この女は、全部を同時に救おうとしている。

 珠も。

 家も。

 神具も。

 余理の形も。


 そんなことが叶うはずがない。


「晴蒼」


 今度は少し声を落とした。

 怒鳴れば届く相手ではないと、ようやく思い出したのだ。


「来い」


 晴蒼は英定を見て、それから小さく首を振った。


 英定の中で、何かが冷えた。


「何だと」


「あなたは行ってください」


「馬鹿なことを言うな」


「珠の行く先を」


「暦に任せた!」


「でしたら玉を」


 玉。


 その名が、この場で出るとは思わなかった。


 英定は息を詰める。晴蒼の顔は相変わらず静かだ。煙に咳き込むこともなく、目だけが妙に冴えている。


「玉には、もう一人の親が必要です」


 その言葉は、ひどく穏やかに落ちた。


 英定は理解を拒んだ。

 拒んだが、意味はすぐに分かった。


 自分はここで死ぬかもしれない。

 だからあなたは行け、と晴蒼は言っている。


 ふざけるな、と思う。


 自分の口からは出てこなかった。怒りが大きすぎて、かえって声にならない。火はもう、晴蒼の立つ一角にも近づいていた。布が一枚、梁から落ちる。近くの女が悲鳴を呑み込む。


 英定はそこで、理屈を捨てた。


 晴蒼の腕を掴もうと手を伸ばす。

 その瞬間、あの女の目がわずかに揺れた。

 恐れではない。

 悲しみに近い、何か。


 だが英定の指先は、布の燃えかすが落ちてきたことで一瞬遅れた。反射的に避ける。その一瞬が、致命的だった。


 横から柱の一部が崩れる。

 火を孕んだ梁が、二人のあいだへ落ちた。


 熱が爆ぜる。

 英定は咄嗟に顔を庇い、後ろへよろめいた。

 視界が炎で埋まる。


「晴蒼!」


 今度こそ叫んだ。

 声は確かに出た。

 だが返事は聞こえない。


 周囲が英定を引く。余理家の男衆か、家人か、もう分からない。止められる。離せ。放せ。叫んだ気がする。何を言っていたのか、自分でも定かではない。


 火の向こうに、人影が見えた気がする。

 晴蒼だったのかどうかも、英定にはもう分からない。


 その後の記憶は、断片しかない。


 庭へ引きずり出されたこと。

 誰かが「持たぬ」と叫んだこと。

 舞具の箱が一つ外へ運ばれているのを見たこと。

 煙の中で、余理邸の屋根が赤く染まっていたこと。


 そして、珠は無事だという言葉だけを、何度も心の中で繰り返していたこと。


 珠は無事。

 玉も無事。

 晴蒼は。


 そこで思考が止まる。

 止めたのか、止まったのか分からない。


 余理邸は燃えた。

 余理の者たちは多くを失った。

 英定はその夜、家という形が火に食われるのを見た。


 後から振り返れば、それは“焼失”という一語に収まる。

 だが焼けたのは建物だけではない。

 英定がようやく慣れかけていた家庭の時間も、そこにいたはずの晴蒼も、珠の気配も、全部まとめて炎の向こうへ消えた。


 珠は生きた。

 玉も生きた。

 だが、その二つの事実だけでは、あの夜を支えきれなかった。


 英定が晴蒼の死を、いつ、どう知ったのか。

 その一点だけ、記憶はどうしても曖昧だ。


 誰かが告げたのだろう。

 戻らなかったと。

 見つからなかったと。

 あるいは、もう確かめようがないほど焼けてしまったと。


 だが英定の中には、その言葉そのものより先に“もういない”という実感だけが残っている。

 それが腹立たしかった。

 最後の顔をはっきり覚えていないことも。

 何を言われたのかが定かでないことも。

 自分が何一つ掴めなかったことも。


 英定は立ち尽くした。

 その夜、どれくらいそうしていたのかも分からない。


 ただ、家が焼けた。


 それだけは、後のどんな記憶よりも確かだった。


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