【9】焼失
火が家を包む音は、思ったより低かった。
轟々と空へ吠えるものだとどこかで思っていた。だが実際には違う。木が熱に軋み、布が縮み、柱の奥で乾いたものが弾ける。そういう小さな音がいくつも重なって、ひとつの重い響きになる。余理邸は、その低い音の中でゆっくりと家の形を失い始めていた。
珠は暦に託された。
玉は本家にいる。
その二つだけが、英定をまだ立たせていた。
だが、立っていられることと、何をすべきか分かることは別だった。
井戸から運ばれる水。
神具を抱えて走る家人。
怒鳴り声。
咳き込む声。
煙。
どこへ目を向けても、人と火が入り乱れている。英定はその中で、まず晴蒼の姿を探した。見失うなと思う。見失ったら、もう戻れない気がした。
いた。
回廊の端、まだ火が完全には回っていない一角で、晴蒼は二人の女へ何かを言い渡している。声は聞こえない。だが、唇の動きと手の指し示す方向で、何をしているかは分かった。
帳面だ。神具の控えだ。余理家が余理家として続くための“記録”を、あの女は最後まで捨てていない。
英定はその強さに腹が立った。
家を守ろうとするな。
まず逃げろ。
そう叫びたかった。
だが、あの女が家そのものでもあることを、英定は知っていた。晴蒼にとって余理邸は、ただ住んでいる場所ではない。家名であり、祈りであり、商いであり、祖先から渡された継承そのものだ。英定のように“降りてきた”人間の理屈では切れないものがある。
だからこそ、余計に歯がゆい。
「晴蒼!」
英定は声を張った。
晴蒼が振り向く。熱気の向こう、灯の残り火に照らされた横顔は、妙に落ち着いて見えた。
その顔を見た瞬間、英定の胸の奥に、嫌な確信が生まれる。
この女は、逃げないかもしれない。
自分が生きることより、家の“残るもの”を選ぶ。そういう決断をしてしまうかもしれない。余理の女としてなら、十分あり得た。
英定は走った。
もう理も順もない。ただ火の間を縫って晴蒼の方へ向かう。袖が熱い。喉が痛い。息を吸うたび煙が肺へ入る。だが止まれない。
晴蒼の近くまで行くと、足元に帳面が二冊落ちていた。女たちが運び損ねたものだろう。晴蒼はそれを拾わせようとしていたらしい。英定はそのうち一冊を蹴るように脇へ寄せた。
「そんなものは後だ!」
晴蒼が英定を見る。
「後では間に合いません」
「知るか!」
喉が焼けて声が荒れる。
英定自身、あれほど怒鳴ったのは久しぶりだった。
晴蒼はその怒声を受けても怯まなかった。
ただ、少しだけ眉を寄せる。
「珠は」
「暦が連れた」
その一言で、晴蒼の目の奥にだけ安堵が走った。
ほんの一瞬。
それで十分だった。
「でしたら」
「お前も来い」
英定は言葉を重ねた。
「今すぐだ」
晴蒼は答えない。代わりに、まだ火の回っていない奥を見た。英定はその視線の先を追う。そこには舞具の長箱がある。余理家の巫女舞に使うものだ。晴蒼にとっては、珠の次に手放しがたいものなのかもしれない。
英定はそこで、はっきり悟った。
この女は、全部を同時に救おうとしている。
珠も。
家も。
神具も。
余理の形も。
そんなことが叶うはずがない。
「晴蒼」
今度は少し声を落とした。
怒鳴れば届く相手ではないと、ようやく思い出したのだ。
「来い」
晴蒼は英定を見て、それから小さく首を振った。
英定の中で、何かが冷えた。
「何だと」
「あなたは行ってください」
「馬鹿なことを言うな」
「珠の行く先を」
「暦に任せた!」
「でしたら玉を」
玉。
その名が、この場で出るとは思わなかった。
英定は息を詰める。晴蒼の顔は相変わらず静かだ。煙に咳き込むこともなく、目だけが妙に冴えている。
「玉には、もう一人の親が必要です」
その言葉は、ひどく穏やかに落ちた。
英定は理解を拒んだ。
拒んだが、意味はすぐに分かった。
自分はここで死ぬかもしれない。
だからあなたは行け、と晴蒼は言っている。
ふざけるな、と思う。
自分の口からは出てこなかった。怒りが大きすぎて、かえって声にならない。火はもう、晴蒼の立つ一角にも近づいていた。布が一枚、梁から落ちる。近くの女が悲鳴を呑み込む。
英定はそこで、理屈を捨てた。
晴蒼の腕を掴もうと手を伸ばす。
その瞬間、あの女の目がわずかに揺れた。
恐れではない。
悲しみに近い、何か。
だが英定の指先は、布の燃えかすが落ちてきたことで一瞬遅れた。反射的に避ける。その一瞬が、致命的だった。
横から柱の一部が崩れる。
火を孕んだ梁が、二人のあいだへ落ちた。
熱が爆ぜる。
英定は咄嗟に顔を庇い、後ろへよろめいた。
視界が炎で埋まる。
「晴蒼!」
今度こそ叫んだ。
声は確かに出た。
だが返事は聞こえない。
周囲が英定を引く。余理家の男衆か、家人か、もう分からない。止められる。離せ。放せ。叫んだ気がする。何を言っていたのか、自分でも定かではない。
火の向こうに、人影が見えた気がする。
晴蒼だったのかどうかも、英定にはもう分からない。
その後の記憶は、断片しかない。
庭へ引きずり出されたこと。
誰かが「持たぬ」と叫んだこと。
舞具の箱が一つ外へ運ばれているのを見たこと。
煙の中で、余理邸の屋根が赤く染まっていたこと。
そして、珠は無事だという言葉だけを、何度も心の中で繰り返していたこと。
珠は無事。
玉も無事。
晴蒼は。
そこで思考が止まる。
止めたのか、止まったのか分からない。
余理邸は燃えた。
余理の者たちは多くを失った。
英定はその夜、家という形が火に食われるのを見た。
後から振り返れば、それは“焼失”という一語に収まる。
だが焼けたのは建物だけではない。
英定がようやく慣れかけていた家庭の時間も、そこにいたはずの晴蒼も、珠の気配も、全部まとめて炎の向こうへ消えた。
珠は生きた。
玉も生きた。
だが、その二つの事実だけでは、あの夜を支えきれなかった。
英定が晴蒼の死を、いつ、どう知ったのか。
その一点だけ、記憶はどうしても曖昧だ。
誰かが告げたのだろう。
戻らなかったと。
見つからなかったと。
あるいは、もう確かめようがないほど焼けてしまったと。
だが英定の中には、その言葉そのものより先に“もういない”という実感だけが残っている。
それが腹立たしかった。
最後の顔をはっきり覚えていないことも。
何を言われたのかが定かでないことも。
自分が何一つ掴めなかったことも。
英定は立ち尽くした。
その夜、どれくらいそうしていたのかも分からない。
ただ、家が焼けた。
それだけは、後のどんな記憶よりも確かだった。




