【10】欲望
晴蒼を失った夜のあと、英定はしばらく正しく立っていたのかどうか、自分でもよく分からない。
歩いた。
話した。
誰かの問いに答えもしたのだろう。
だが、それらはひどく薄い膜の向こうで起きていた気がする。
珠は無事だと聞いた。
暦が連れて逃げた、と。
その一報だけが、焼けた頭の中へ一本の杭のように打ち込まれた。
ならば探さねばならない。
珠の行方を。
玉の無事を、改めて。
余理家の残りを。
本来なら、そう動くべきだった。
けれど英定は、そう簡単には動けなかった。
理由の一つは喪失だ。
もう一つは、従兄だった。
余理邸延焼の翌日だったか、その次だったか。正確な順は曖昧だ。とにかくまだ、焼け跡の匂いが衣へ残っているうちに、従兄は現れた。
左大臣としてではなく、殿上人としてでもなく、もっと個人的な顔で。
英定はその顔を見た瞬間、心のどこかで何かが切れる音を聞いた気がした。
この男だ。
火を直接放ったわけではないとしても、ここへ至る視線を差し向けたのはこの男だ。自分へ違和感を覚え、余理邸へ密偵を入れ、見てはならぬものを見させた。火そのものは事故だったとしても、事故を呼んだ道筋はこの男のものだ。
従兄は何か言った。
労わるようなことか、事態を収めるための言葉か。
英定はほとんど聞いていない。
聞こえていたのは、別の時代の声だった。
準基、と呼ばれた頃。
救ったはずの者たちに妖と恐れられた頃。
家族を処刑された頃。
あの時にも、似た顔があった気がする。権力の中にいて、自分では手を汚さず、結果だけを見下ろす顔。
気づけば英定は、従兄へ昔話をしていた。
準基でしか知り得ない話を。
それがどんな口調だったのか、今もよく分からない。責めたのか。告げたのか。ただ、黙っていることができなかったのだと思う。焼け跡の前で、晴蒼を失い、珠も手元から消えた直後に、目の前へ“その原因の一端”のような男が現れれば、理性の方が薄くなる。
従兄は最初、英定の言葉をまともに受け取らなかったはずだ。
焼けた家を前にして、心が乱れているのだと思っただろう。
だが、英定の話が一つ、二つと重なるにつれ、その顔色は確かに変わった。
知るはずのないことを、英定は知っていた。
それも、ただの伝承ではない。
人の癖。
室の配置。
あの時代の、口に残らぬはずの細部。
英定はその変化を見て、妙に冷静になった瞬間がある。
ああ、こいつは怖がっている。
そう思った。
それは少しだけ愉快でもあり、どうしようもなく空しかった。怖がらせたいわけではなかった。怖がらせたところで晴蒼は戻らない。珠の行方も分からぬままだ。なのに、従兄の目の奥へようやく“得体の知れぬものを見た恐れ”が浮かんだ時、英定はその事実にだけ妙に冴えた。
従兄は英定を邸へ移すよう命じた。
保護だと、表向きにはそういう名目だったかもしれない。
だが実際には幽閉だ。
左大臣邸。
広く、整い、余計なものの一つも見えぬ家。
そこへ入れられた時、英定は抵抗しなかった。できなかったのではない。抵抗する意味がないと分かっていたのだ。ここで暴れれば、珠へ辿る道も、玉へ残る細い線も断たれる。今の自分に残っているのは、まだ“動ける立場”だけだ。完全に狂人として扱われれば、それすら消える。
従兄は、その辺りをよく分かっている男だった。
欲に忠実で、臆病で、だからこそ用心深い。
英定は左大臣邸へ移された後、しばらくはほとんど何も言わなかった。喪失が口を塞いでいたのもあるし、相手が何を望んでいるかを見極めたかったのもある。
見極めるのに、そう長い時間は要らなかった。
従兄は、怖れていた。
同時に、欲してもいた。
英定が準基の話をしたこと。
知るはずのないことを知っていること。
そして余理邸の火の直前まで、何か普通ではないものを抱えていたらしいこと。
それらを前に、従兄は「遠ざける」だけでは済まないところへ来ていた。
英定はある夜、そのことをはっきり悟った。
左大臣邸の一室へ閉じ込められたまま、文も自由には出せず、人の出入りも限られている。そんな状況でも、従兄は完全に英定を絶とうとはしない。食事は上等だ。医師も呼ぶ。対話も切らない。恐れているなら、もっと露骨に始末する道だってあるのに、それを選ばない。
欲があるからだ。
英定はそこで、初めて自分から従兄へ言った。
「知りたいか」
従兄の目が揺れた。
「何を」
「私の力を」
部屋の空気が、そこでわずかに張る。
従兄は賢い男だ。
すぐには飛びつかない。
だが、飛びつきたいのは顔に出る。
「……何のことを言っている」
「分かっているくせに」
英定は低く言った。
「お前は出世欲の塊だ。怖れているだけの男なら、ここまで引き伸ばさぬ」
従兄は黙った。
その沈黙が答えだった。
英定はそこでようやく、少しだけ笑った。
晴蒼を失った後、まともに笑った最初の時かもしれない。
愉快だったからではない。
人の欲が、あまりに見慣れていて、あまりに分かりやすかったからだ。
「寿命を伸ばせる」
英定は言った。
従兄の喉が動く。
「条件はある」
「……何だ」
「私に必要なものを、形にしろ」
必要なもの。
その時点の英定には、すでに次の像が見えていた。
国神社を統一して管理する部署。
神祇と記録と鎮めを一つに束ねる場。
自分が動くための器。
珠を探すためにも。
玉へ届くためにも。
余理家のような“家ごとの祈り”を、朝廷の目の下で一つずつ掬うためにも。
従兄は最初、半信半疑の顔をした。
だが、欲は理屈より早い。
寿命を伸ばせる。
その一言は、男の目から慎重さを半分奪った。
英定はその瞬間を見逃さなかった。
それが晴蒼の死の直後でなければ、もう少し違う道もあったのかもしれない。
だがあの時の英定には、欲に揺れる従兄を利用することしか見えていなかった。
正しいかどうかではない。
使えるものを使う。
そうしなければ、何も取り戻せぬ気がした。
従兄は、降参した。
言葉としてそう口にしたわけではない。
だが、詔書を作らせる段取りを整え始めた時点で、もう英定の求める形へ踏み込んでいた。
英定の力を試したい。
同時に、自分の寿命も欲しい。
だから器を作る。
人は欲のためなら、案外あっさり理を曲げる。
そのことを見下ろしながら、英定の胸の奥は少しも晴れなかった。
晴蒼は戻らない。
珠もまだ見つからない。
玉は遠い。
なのに、自分だけが次の手を打っている。
その歪さを、あの頃の英定はすでに知っていたと思う。
左大臣邸での幽閉は、英定をただ閉じ込めただけではない。
そこで英定は、喪失と欲と制度を一つに束ねる術を覚えた。
それが後の国神仕寮へ繋がる。
余理邸は焼けた。
晴蒼は失われた。
珠は行方知れず。
玉は遠い。
その焼け跡から、英定は従兄の欲を踏み台にして、次の器を作り始める。
救いではない。
前進とも言い切れない。
けれど確かに、余理の残り火はそこで別の形へ移り始めたのだ。




