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大樹  作者: 常居嗣子
第二章

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【8】灯台


 灯が倒れる瞬間というのは、存外ゆっくり見えるものだと、英定は後になって知った。


 現実には一瞬だったはずだ。

 逃げようとした男が灯台へ身体をぶつける。

 不安定に揺れた台が傾き、支えを失い、そのまま床へ落ちる。

 油が散り、火が走る。


 それだけの出来事に、どれほどの時が必要だっただろう。

 瞬き一つぶんもなかったかもしれない。


 なのに英定の目には、その全てが嫌に細かく映った。


 揺れた灯の芯。

 飛び散る油の鈍い光。

 それが布へ落ちる角度。

 床板を舐めるように伸びた最初の炎。


 体は、見ているより早く動いた。


 気づけば庭側へ踏み込み、影を追った男へ手を伸ばしている。捕らえるためというより、とにかく止めるためだった。だが男は必死だった。余理邸の造りに慣れていないくせに、その一点だけで異様な強さを見せる。逃げ切れぬと悟った者の乱暴な力だ。


 英定の指先が男の衣を掠めた瞬間、相手がひどく息を呑んだ。


 それが、ただ追い詰められたことへの恐れだったのか、あるいは英定の持つ何かへ触れかけたせいなのか、その場では分からなかった。


 ただ次の瞬間、男は英定から逃れるように身体を反らし、倒れた灯台をさらに蹴り飛ばした。


 炎が散る。


「水を!」


「布を剥げ!」


「晴蒼様を下がらせろ!」


 声が幾重にも飛ぶ。


 余理家の者たちは、混乱の中でも完全には崩れなかった。神具を扱う家だけに、灯火の怖さもよく知っているのだろう。誰かが素早く舞具を遠ざけ、誰かが敷き布を剥ぎ、別の者が井戸の方へ走る。だが、火の方が早かった。


 油のついた布は、いったん燃えると容赦がない。

 飾り布の端から端へ、まるで待っていたように炎が渡る。

 灯の位置を低く置いていたせいで、床へ走った火がそのまま次の灯へ移る。


 整えられていたがゆえの危うさだった。


 英定は歯を食いしばった。

 この夜に限って見せると決めたのは自分だ。

 余理家の巫女舞を。

 余理の異質さを。

 見せるべき顔を選んだつもりで、火の道まで整えてしまった。


 その自覚が、咄嗟の判断を鈍らせかける。


「英定様!」


 晴蒼の声だった。


 英定は振り返る。


 灯の向こう、まだ完全には燃え広がっていない空間に晴蒼が立っていた。舞の装束のまま、顔色一つ変えずに家人へ指示を飛ばしている。側には珠を抱いた乳母がいて、さらに後ろには神具の箱を抱えた若い女たちがいる。


 逃げる順を整えているのだ。

 あの女は、自分から先に逃げることをしない。


「珠を出せ!」


 英定が叫ぶと、晴蒼は一度だけ頷いた。


 その頷きが、やけに鮮明に記憶へ残っている。


 英定は再び逃げた男の方へ向き直った。捕らえねばならない。誰の差し向けた者か、なぜ余理邸へ入ったのか、何を見たのか。全部吐かせねばならない。そう思う。思うのに、視界の端で燃え上がる布が、その理屈を乱す。


 家を守るか。

 男を捕らえるか。


 その二択を迫られる時点で、すでに負けだ。


 男は混乱を好機と見て、庭の外れへ走った。余理家の男衆が二人追う。英定も一歩踏み出しかけ、そこで止まった。止まらざるをえなかった。背後で、梁に近い布へ火が移ったのが見えたからだ。


「離れろ!」


 英定は近くにいた家人の肩を掴んで引いた。

 幸い、布へ火が走っただけで梁そのものはまだだ。

 だが“まだ”という言葉ほど当てにならぬものもない。


 井戸から運ばれた水が一度、二度と打たれる。

 湯気が上がる。

 しかし、火は完全には消えない。

 舞に使われる布は軽く、油を含んだ灯は低い。火の回り方が普通の座敷とは違う。


 英定はそこではじめて、余理家の者たちの顔を見た。


 誰も取り乱してはいない。

 だが、目の奥にある緊張がひどく伝わる。

 この家の者たちは、今夜の舞が外へ見られたことも、灯が倒されたことも、それがただの事故ではないと分かっている。


 そして英定もまた、同じことを分かっていた。


 従兄だろうか。

 それとも、もっと別の手か。

 いずれにせよ、この火はただの失火では終わらない。


 晴蒼が珠を抱いた乳母へ短く何かを告げる。乳母が頷き、子をしっかり抱き直す。晴蒼は次に、英定の方を見た。


「英定様」


 火の音の中でも、あの女の声は不思議と届く。


「珠を、暦へ」


 英定は一瞬、意味を取り損ねた。


「何だと」


「暦に預けます」


 晴蒼はすでに決めていた顔だった。


 出仕の暦。余理家に出入りする女で、足が速く、口も堅い。珠を託すなら適任ではある。ある。だが――。


「お前は」


 問うたその声が、ひどく鈍かったことを英定は覚えている。


 晴蒼は答えなかった。

 答える暇がないのでも、答えを持たぬのでもない。

 答えなくてよいと思っていたからだ。


 家人へ、次の指示を出す。神具を出せ。帳面を持て。井戸をもう一つ回せ。火の勢いと、人の生き死にと、家の記録と、その全部を同時に見ている顔だった。


 英定は、あの時たぶん、ひどく怒っていた。


 晴蒼へではなく、自分へ。

 こんな場で、あの女に“お前はどうする”と聞いてしまう自分へ。

 余理家の人間でもないくせに、家の中枢のような顔をして立っている自分へ。


 だが怒りに浸る暇もない。

 珠を出さねばならない。

 火は広がる。

 男は逃げた。

 そして余理邸は、このままでは持たない。


 英定は側にいた家人へ叫んだ。


「暦を呼べ!」


 返事より先に、誰かがすでに走っている。余理家の者たちの動きは早い。だがその早さでさえ、火の方がまだ一歩先を行く。


 庭側で、男を追った者たちの怒声が遠くなった。捕らえたのか、逃したのか、この場ではもう確かめようもない。英定の前にあるのは、家が焼けるという単純で圧倒的な現実だけだった。


 熱が顔を打つ。


 英定は一歩下がり、腕で口元を庇った。喉へ入り込む煙が痛い。視界の端で、晴蒼の衣の裾が火の色を映して揺れる。


 その瞬間、英定の内側に準基の記憶が閃いた。


 焼ける匂い。

 走る者たち。

 手の中から零れたもの。


 違う、と頭のどこかで否定しても、身体は一度過去の火を思い出してしまう。あの時と同じではない。違う場所で、違う人々で、違う生だ。だが火は、過去と現在を平気で繋げる。


「英定様!」


 再び呼ばれ、英定は我に返った。


 暦が来ていた。

 珠を抱き取るために、燃えぬ側から回り込んでくる。


 その顔を見た瞬間、英定はようやく、今やるべきことを一つだけ掴んだ。


 珠を生かす。

 まずはそれだけだ。


 珠が暦へ渡る。

 乳母の腕から、出仕の女の腕へ。

 小さく泣く声が一度だけ上がり、その細さがやけに胸へ刺さった。


 英定はその光景を見ながら、何か言わねばと思った。

 命じるのか。

 頼むのか。

 誓うのか。


 だが喉は煙で焼け、うまく音にならない。


 結局、晴蒼の方が先だった。


「走って」


 たったそれだけ。


 暦は深く頷き、珠を抱いて走り出した。

 その背を、英定は見た。

 見てしまった。

 見ている間に、もう一つ別の現実が近づいてくる。


 火は止まらない。

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