【8】灯台
灯が倒れる瞬間というのは、存外ゆっくり見えるものだと、英定は後になって知った。
現実には一瞬だったはずだ。
逃げようとした男が灯台へ身体をぶつける。
不安定に揺れた台が傾き、支えを失い、そのまま床へ落ちる。
油が散り、火が走る。
それだけの出来事に、どれほどの時が必要だっただろう。
瞬き一つぶんもなかったかもしれない。
なのに英定の目には、その全てが嫌に細かく映った。
揺れた灯の芯。
飛び散る油の鈍い光。
それが布へ落ちる角度。
床板を舐めるように伸びた最初の炎。
体は、見ているより早く動いた。
気づけば庭側へ踏み込み、影を追った男へ手を伸ばしている。捕らえるためというより、とにかく止めるためだった。だが男は必死だった。余理邸の造りに慣れていないくせに、その一点だけで異様な強さを見せる。逃げ切れぬと悟った者の乱暴な力だ。
英定の指先が男の衣を掠めた瞬間、相手がひどく息を呑んだ。
それが、ただ追い詰められたことへの恐れだったのか、あるいは英定の持つ何かへ触れかけたせいなのか、その場では分からなかった。
ただ次の瞬間、男は英定から逃れるように身体を反らし、倒れた灯台をさらに蹴り飛ばした。
炎が散る。
「水を!」
「布を剥げ!」
「晴蒼様を下がらせろ!」
声が幾重にも飛ぶ。
余理家の者たちは、混乱の中でも完全には崩れなかった。神具を扱う家だけに、灯火の怖さもよく知っているのだろう。誰かが素早く舞具を遠ざけ、誰かが敷き布を剥ぎ、別の者が井戸の方へ走る。だが、火の方が早かった。
油のついた布は、いったん燃えると容赦がない。
飾り布の端から端へ、まるで待っていたように炎が渡る。
灯の位置を低く置いていたせいで、床へ走った火がそのまま次の灯へ移る。
整えられていたがゆえの危うさだった。
英定は歯を食いしばった。
この夜に限って見せると決めたのは自分だ。
余理家の巫女舞を。
余理の異質さを。
見せるべき顔を選んだつもりで、火の道まで整えてしまった。
その自覚が、咄嗟の判断を鈍らせかける。
「英定様!」
晴蒼の声だった。
英定は振り返る。
灯の向こう、まだ完全には燃え広がっていない空間に晴蒼が立っていた。舞の装束のまま、顔色一つ変えずに家人へ指示を飛ばしている。側には珠を抱いた乳母がいて、さらに後ろには神具の箱を抱えた若い女たちがいる。
逃げる順を整えているのだ。
あの女は、自分から先に逃げることをしない。
「珠を出せ!」
英定が叫ぶと、晴蒼は一度だけ頷いた。
その頷きが、やけに鮮明に記憶へ残っている。
英定は再び逃げた男の方へ向き直った。捕らえねばならない。誰の差し向けた者か、なぜ余理邸へ入ったのか、何を見たのか。全部吐かせねばならない。そう思う。思うのに、視界の端で燃え上がる布が、その理屈を乱す。
家を守るか。
男を捕らえるか。
その二択を迫られる時点で、すでに負けだ。
男は混乱を好機と見て、庭の外れへ走った。余理家の男衆が二人追う。英定も一歩踏み出しかけ、そこで止まった。止まらざるをえなかった。背後で、梁に近い布へ火が移ったのが見えたからだ。
「離れろ!」
英定は近くにいた家人の肩を掴んで引いた。
幸い、布へ火が走っただけで梁そのものはまだだ。
だが“まだ”という言葉ほど当てにならぬものもない。
井戸から運ばれた水が一度、二度と打たれる。
湯気が上がる。
しかし、火は完全には消えない。
舞に使われる布は軽く、油を含んだ灯は低い。火の回り方が普通の座敷とは違う。
英定はそこではじめて、余理家の者たちの顔を見た。
誰も取り乱してはいない。
だが、目の奥にある緊張がひどく伝わる。
この家の者たちは、今夜の舞が外へ見られたことも、灯が倒されたことも、それがただの事故ではないと分かっている。
そして英定もまた、同じことを分かっていた。
従兄だろうか。
それとも、もっと別の手か。
いずれにせよ、この火はただの失火では終わらない。
晴蒼が珠を抱いた乳母へ短く何かを告げる。乳母が頷き、子をしっかり抱き直す。晴蒼は次に、英定の方を見た。
「英定様」
火の音の中でも、あの女の声は不思議と届く。
「珠を、暦へ」
英定は一瞬、意味を取り損ねた。
「何だと」
「暦に預けます」
晴蒼はすでに決めていた顔だった。
出仕の暦。余理家に出入りする女で、足が速く、口も堅い。珠を託すなら適任ではある。ある。だが――。
「お前は」
問うたその声が、ひどく鈍かったことを英定は覚えている。
晴蒼は答えなかった。
答える暇がないのでも、答えを持たぬのでもない。
答えなくてよいと思っていたからだ。
家人へ、次の指示を出す。神具を出せ。帳面を持て。井戸をもう一つ回せ。火の勢いと、人の生き死にと、家の記録と、その全部を同時に見ている顔だった。
英定は、あの時たぶん、ひどく怒っていた。
晴蒼へではなく、自分へ。
こんな場で、あの女に“お前はどうする”と聞いてしまう自分へ。
余理家の人間でもないくせに、家の中枢のような顔をして立っている自分へ。
だが怒りに浸る暇もない。
珠を出さねばならない。
火は広がる。
男は逃げた。
そして余理邸は、このままでは持たない。
英定は側にいた家人へ叫んだ。
「暦を呼べ!」
返事より先に、誰かがすでに走っている。余理家の者たちの動きは早い。だがその早さでさえ、火の方がまだ一歩先を行く。
庭側で、男を追った者たちの怒声が遠くなった。捕らえたのか、逃したのか、この場ではもう確かめようもない。英定の前にあるのは、家が焼けるという単純で圧倒的な現実だけだった。
熱が顔を打つ。
英定は一歩下がり、腕で口元を庇った。喉へ入り込む煙が痛い。視界の端で、晴蒼の衣の裾が火の色を映して揺れる。
その瞬間、英定の内側に準基の記憶が閃いた。
焼ける匂い。
走る者たち。
手の中から零れたもの。
違う、と頭のどこかで否定しても、身体は一度過去の火を思い出してしまう。あの時と同じではない。違う場所で、違う人々で、違う生だ。だが火は、過去と現在を平気で繋げる。
「英定様!」
再び呼ばれ、英定は我に返った。
暦が来ていた。
珠を抱き取るために、燃えぬ側から回り込んでくる。
その顔を見た瞬間、英定はようやく、今やるべきことを一つだけ掴んだ。
珠を生かす。
まずはそれだけだ。
珠が暦へ渡る。
乳母の腕から、出仕の女の腕へ。
小さく泣く声が一度だけ上がり、その細さがやけに胸へ刺さった。
英定はその光景を見ながら、何か言わねばと思った。
命じるのか。
頼むのか。
誓うのか。
だが喉は煙で焼け、うまく音にならない。
結局、晴蒼の方が先だった。
「走って」
たったそれだけ。
暦は深く頷き、珠を抱いて走り出した。
その背を、英定は見た。
見てしまった。
見ている間に、もう一つ別の現実が近づいてくる。
火は止まらない。




