【7】巫女舞
余理家独自の巫女舞は、祈りであると同時に、家そのものの記憶でもあった。
晴蒼はそう説明したことはない。
余理の者たちもまた、ことさらに言葉にはしない。
けれど見ていれば分かる。
あれは、ただ美しい所作を見せるための舞ではない。
石を選び、灯を整え、布を流し、鈴を鳴らす。
その一つひとつが、余理家が何を家として守ってきたかを形にしている。
英定は何度かその準備を見たことがある。
まず石を選ぶ。
奉納用の中でも、祈りの場に使うものは別だ。大きければよいわけでもなく、派手ならよいわけでもない。晴蒼や家の女たちは、光の筋、内に走る線、灯への反射を見て幾つかを整える。
その後で、舞具と布の取り合わせを決め、夜の刻限に合わせて灯の置き方を変える。
英定には、最初その習慣がほとんど分からなかった。
だが分からぬなりに、見ているうちに感じることはあった。
整え方に迷いがない。
代々そうしてきた者たちの手だ。
そして晴蒼がそこに立つ時、普段とは少しだけ空気が変わる。
女として、妻として、家の一員としてではない。
余理の巫女としてそこにいる顔になる。
英定はその顔を、ひどくきれいだと思ったことがある。
本人へは言わなかった。
言う理由もなかったし、言えば晴蒼はきっと一瞬だけ怪訝そうな目をした後、「ありがとうございます」とだけ返して終わるだろう。それでは足りなかった。足りないと感じている自分に気づくのも、少し面倒だった。
だから黙っていた。
見られるだけでいいと思った。
その夜、余理邸は日暮れ前から静かに整えられていた。
大仰な祭礼ではない。家の内で行う祈りのひとつで、外へ触れ回る性質のものでもない。けれど家人の動きには普段と違う張りがあった。
灯の位置を確かめる者、布を運ぶ者、石を納めた箱を持つ者。誰も口数は多くない。晴蒼の指示もまた最低限で、だからこそ余計に音が少ない。
英定はその空気の中で、嫌なものを覚えていた。
見られているかもしれない。
従兄からの探り。
見慣れぬ足跡。
あの気配が消えたわけではない。
晴蒼は、そのことを分かった上で舞の支度を整えている。父にも大きく騒がせず、家の者の口も必要以上には乱さない。その静けさが、かえって英定の胸をざらつかせた。
自分が決めた。
見せる、と。
だから今さら怯んでも遅い。
それでも、嫌な予感は予感のまま消えてくれなかった。
夜が落ちる。
余理邸の一角にだけ、低い灯が幾つも置かれた。壁ではなく床へ、床から布へ、布から石へと光が流れる。晴蒼が現れた時、その灯は初めから彼女を待っていたように見えた。
華やかではない。
だが目が離せない。
袖が動くたび、布の端に織り込まれた細い糸が光る。掌の中の石がかすかに返し、鈴が一度だけ低く鳴る。余理の家の女たちは、舞う時に感情を前へ出さない。祈りを“見せる”のではなく、祈りそのものの器になるように動く。
晴蒼はまさにそうだった。
英定は少し離れた場所からそれを見ていた。
美しいと思う。
同時に、危ういとも思う。
余理家を知らぬ者がこれを見れば、きっと何か別の名を与えたくなる。神聖とも、奇異とも、不吉とも。そういう“名をつけたがる視線”があることを、英定は嫌というほど知っている。
だから、その夜の英定は半ば舞を見、半ば周囲を見張っていた。
灯の影。
人の配置。
庭へ抜ける先。
塀の向こうの気配。
見えぬものばかりが、かえって視界へ引っかかる。
嫌な夜だった。
晴蒼の舞は静かに進み、終わりへ近づいていく。
もう少しだ。
このまま何も起きず終われば、余理の異質さだけを見せて、他を隠したまま済む。
英定はそう計算し、そうであってほしいとも思った。
その時だった。
庭の奥で、わずかな音がした。
風で枝が鳴ったのとは違う。
人の体重が土を踏んだ、鈍い音。
英定の視線がそちらへ走る。
ほとんど同時に、余理家側の男が一人、気配へ気づいた。
舞の空気がそこで壊れた。
晴蒼の手が止まる。
鈴の余韻だけが一拍遅れて落ちる。
家人の一人が灯を庇うように動き、別の者が庭側へ駆けた。
見られた。
英定はそう確信した。
次の瞬間にはもう、体が先に動いていた。庭の方へ踏み出し、逃げる影を追う。暗がりの中を抜ける足取りは、素人ではない。だが余理邸の庭を完全に知っているわけでもない。植え込みの切れ目で一瞬迷う。その一瞬が命取りになるはずだった。
「捕らえろ!」
誰かが叫ぶ。
声が夜を裂き、影が乱れる。
塀際へ追い詰められたその男は、振り返りざまに何かを払いのけた。灯だ。
高く据えられていた灯台が、横倒しに落ちる。
英定はそれを見た瞬間、喉の奥が凍った。
火。
倒れた灯台から油が散る。
布へ、木へ、風の通る先へ。
炎は、いったんつくと早い。
あまりにも早い。
叫び声が上がる。
誰かが水を、と叫ぶ。
晴蒼、と英定は呼んだつもりだったが、声になっていたか分からない。
その先は、もう記憶が断片になる。
これが、巫女舞の夜だった。
余理家の美しさと、外の視線と、火の気配が一つになった夜。




