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大樹  作者: 常居嗣子
第二章

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【7】巫女舞


 余理家独自の巫女舞は、祈りであると同時に、家そのものの記憶でもあった。


 晴蒼はそう説明したことはない。

 余理の者たちもまた、ことさらに言葉にはしない。

 けれど見ていれば分かる。


 あれは、ただ美しい所作を見せるための舞ではない。

 石を選び、灯を整え、布を流し、鈴を鳴らす。

 その一つひとつが、余理家が何を家として守ってきたかを形にしている。


 英定は何度かその準備を見たことがある。


 まず石を選ぶ。

 奉納用の中でも、祈りの場に使うものは別だ。大きければよいわけでもなく、派手ならよいわけでもない。晴蒼や家の女たちは、光の筋、内に走る線、灯への反射を見て幾つかを整える。


その後で、舞具と布の取り合わせを決め、夜の刻限に合わせて灯の置き方を変える。


 英定には、最初その習慣がほとんど分からなかった。


 だが分からぬなりに、見ているうちに感じることはあった。

 整え方に迷いがない。

 代々そうしてきた者たちの手だ。

 そして晴蒼がそこに立つ時、普段とは少しだけ空気が変わる。


 女として、妻として、家の一員としてではない。

 余理の巫女としてそこにいる顔になる。


 英定はその顔を、ひどくきれいだと思ったことがある。


 本人へは言わなかった。

 言う理由もなかったし、言えば晴蒼はきっと一瞬だけ怪訝そうな目をした後、「ありがとうございます」とだけ返して終わるだろう。それでは足りなかった。足りないと感じている自分に気づくのも、少し面倒だった。


 だから黙っていた。


 見られるだけでいいと思った。


 その夜、余理邸は日暮れ前から静かに整えられていた。


 大仰な祭礼ではない。家の内で行う祈りのひとつで、外へ触れ回る性質のものでもない。けれど家人の動きには普段と違う張りがあった。


灯の位置を確かめる者、布を運ぶ者、石を納めた箱を持つ者。誰も口数は多くない。晴蒼の指示もまた最低限で、だからこそ余計に音が少ない。


 英定はその空気の中で、嫌なものを覚えていた。


 見られているかもしれない。


 従兄からの探り。

 見慣れぬ足跡。

 あの気配が消えたわけではない。


 晴蒼は、そのことを分かった上で舞の支度を整えている。父にも大きく騒がせず、家の者の口も必要以上には乱さない。その静けさが、かえって英定の胸をざらつかせた。


 自分が決めた。

 見せる、と。


 だから今さら怯んでも遅い。

 それでも、嫌な予感は予感のまま消えてくれなかった。


 夜が落ちる。


 余理邸の一角にだけ、低い灯が幾つも置かれた。壁ではなく床へ、床から布へ、布から石へと光が流れる。晴蒼が現れた時、その灯は初めから彼女を待っていたように見えた。


 華やかではない。

 だが目が離せない。


 袖が動くたび、布の端に織り込まれた細い糸が光る。掌の中の石がかすかに返し、鈴が一度だけ低く鳴る。余理の家の女たちは、舞う時に感情を前へ出さない。祈りを“見せる”のではなく、祈りそのものの器になるように動く。


 晴蒼はまさにそうだった。


 英定は少し離れた場所からそれを見ていた。

 美しいと思う。

 同時に、危ういとも思う。


 余理家を知らぬ者がこれを見れば、きっと何か別の名を与えたくなる。神聖とも、奇異とも、不吉とも。そういう“名をつけたがる視線”があることを、英定は嫌というほど知っている。


 だから、その夜の英定は半ば舞を見、半ば周囲を見張っていた。


 灯の影。

 人の配置。

 庭へ抜ける先。

 塀の向こうの気配。


 見えぬものばかりが、かえって視界へ引っかかる。

 嫌な夜だった。


 晴蒼の舞は静かに進み、終わりへ近づいていく。

 もう少しだ。

 このまま何も起きず終われば、余理の異質さだけを見せて、他を隠したまま済む。

 英定はそう計算し、そうであってほしいとも思った。


 その時だった。


 庭の奥で、わずかな音がした。


 風で枝が鳴ったのとは違う。

 人の体重が土を踏んだ、鈍い音。


 英定の視線がそちらへ走る。

 ほとんど同時に、余理家側の男が一人、気配へ気づいた。


 舞の空気がそこで壊れた。


 晴蒼の手が止まる。

 鈴の余韻だけが一拍遅れて落ちる。

 家人の一人が灯を庇うように動き、別の者が庭側へ駆けた。


 見られた。


 英定はそう確信した。


 次の瞬間にはもう、体が先に動いていた。庭の方へ踏み出し、逃げる影を追う。暗がりの中を抜ける足取りは、素人ではない。だが余理邸の庭を完全に知っているわけでもない。植え込みの切れ目で一瞬迷う。その一瞬が命取りになるはずだった。


「捕らえろ!」


 誰かが叫ぶ。


 声が夜を裂き、影が乱れる。

 塀際へ追い詰められたその男は、振り返りざまに何かを払いのけた。灯だ。


 高く据えられていた灯台が、横倒しに落ちる。


 英定はそれを見た瞬間、喉の奥が凍った。


 火。


 倒れた灯台から油が散る。

 布へ、木へ、風の通る先へ。


 炎は、いったんつくと早い。


 あまりにも早い。


 叫び声が上がる。

 誰かが水を、と叫ぶ。

 晴蒼、と英定は呼んだつもりだったが、声になっていたか分からない。


 その先は、もう記憶が断片になる。


 これが、巫女舞の夜だった。

 余理家の美しさと、外の視線と、火の気配が一つになった夜。

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