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大樹  作者: 常居嗣子
第二章

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【6】密偵


 異変は、大きな音を立てて始まったわけではない。


 余理邸が焼ける前触れは、もっと気配が微かで、もっと人目に紛れる形で忍び寄っていた。


 九百三年。

 正皇上が崩御し、姉が寶皇上として即位した年。

 英定にとって、それは母を失う年であると同時に、殿上を許された年でもあった。


 長生きできたことを感謝する。


 表向きには、そう口にするしかない。

 実際、感謝もあった。準基の頃に二十を越えて生きることなど想像もできなかった。明の頃もまた同じだ。英として二十の齢に届き、なお立っていられることは、それ自体が奇跡のようなものだった。


 だが英定の胸の底には、別の感情も沈んでいた。


 家族を処刑された恨み。


 準基として終わったあの人生の、拭いきれぬ残りだ。

 いくら英定として年月を重ねても、完全には薄れない。

 皇家の中へ戻り、殿上を許され、朝廷の空気を吸うほどに、むしろ古い記憶は別の熱を持つ。


 その年、式典の場で準基の従兄が英定を見た。


 左大臣として列席していた元従兄は今で言えば共通の高祖母を持つ遠い親戚でもある。

 殿上人であり、かつて準基の時代にも縁のあった男。

 もちろん今の世では、そんなことは誰も知らない。知らないはずなのに、英定はその視線がこちらを掠めた瞬間、妙に嫌なものを覚えた。


 違和感。 そう呼ぶのが一番近い。


 元従兄自身もまた、同じものを感じたのだろうと後に知る。

 それがすぐに警戒するわけではない。

 ただ、見られた。

 見過ごされなかった。

 その感覚だけが、式典の後もしばらく英定の皮膚に残った。


 晴蒼は、その日の英定の様子を見ていた。


「お疲れですか」


 帰邸後、そう問われた時、英定は一度だけ考えてから首を振った。


「疲れではない」


「では」


「少し、嫌なものを見た」


 晴蒼はそれ以上すぐには問わなかった。

 問い詰めぬ代わりに、茶を置き、夕刻の帳面を英定から遠ざける。

 そういう気の回し方をする女だ。


 けれどその夜、灯の下で宝石を箱へ戻しながら、晴蒼はふいに言った。


「都からの出入りが、このところ少し増えております」


 英定は湯呑を持ったまま顔を上げた。


「商いの関係ではなくか」


「それもございますが、見慣れぬ顔が」


「何人」


「はっきり数えたわけではありません。ただ、同じ者を二度見た気がします」


 英定は少し黙った。


 商いの家には、人の出入りがある。

 神具を納める家ならなおさらだ。

 見慣れぬ顔が一人二人いたところで、本来なら気にしすぎるほどではない。


 けれど晴蒼が“同じ者を二度見た”と言う時、それはかなり正確な感覚であることを、英定はすでに知っていた。晴蒼は人の顔を曖昧に覚えない。石の筋を見分けるように、人も見ている。


「気づかぬふりをしろ」


 英定が言うと、晴蒼は静かに頷いた。


「ええ」


「家の者にも余計に騒がせるな」


「分かっております」


 それで終わるはずだった。


 だが、嫌な予感はそう簡単には消え去らない。


 その後も英定は、邸の外へ出た折に視線を感じることがあった。露骨ではない。むしろ下手な尾行よりよほど厄介だ。見ているのかどうかを、こちらが確信しづらい。


 いるかもしれない、と思った時にはもう、人混みや塀の向こうへ溶けている。


 従兄か、と英定は思った。


 あの男ならやりかねない。

 英定へ覚えた違和感を捨て置けず、しかし正面から問うほどの理由も持たず、まずは探りを入れる。左大臣の地位にある者としては、むしろ自然ですらある。


 問題は、その探りが余理邸へ向くことだった。


 自分だけならまだよい。

 晴蒼や珠、余理家の者を巻き込む形でこちらを測られるのは、英定にとって我慢しがたい。


 ある日、英定は余理邸の外れで、石を納める倉へ向かう途中、見慣れぬ足跡に気づいた。


 雨上がりの土に残る、家人のものとは違う草履の痕。新しく、しかし慌てた様子はない。堂々と入ったわけではなく、かといって素人でもない。


 英定は足を止め、その痕を見下ろした。


 胸の奥が、ゆっくり冷えていく。


 自分が見られることより、家の中へ入り込まれることの方がずっと嫌だった。余理家の者は、朝廷の裏を読むことに長けているわけではない。


 商いと神祇には強くとも、権力の探り合いは別だ。英定が気をつけていても、相手が邸へ紛れ込めば防ぎきれない。


「どうなさいました」


 背後から晴蒼の声がした。


 英定は振り返らず、土を指した。


「見ろ」


 晴蒼が隣へ来て、しゃがみ込む。少しの間だけ黙って、それから低く言った。


「家の者ではありませんね」


「分かるか」


「この辺りを歩く者なら、もっと石置き場を避けます」


 英定はその答えに、妙なところで感心した。

 そういう見分けをする家なのだ、余理家は。


 だが感心している場合ではない。


「門番は」


「気づいておりませんでした。今朝の荷の出入りに紛れたのかもしれません」


「言いふらすな」


「承知しております」


 晴蒼は立ち上がり、袖口を整えた。

 顔色は変わらない。

 けれど目だけが、少し硬い。


「父へは」


「まだ言うな」


「ですが」


「騒げば相手の思うつぼだ。こちらが怯えたと知られる」


 晴蒼は英定を見た。


「では、どうなさいます」


 英定はすぐには答えなかった。


 正面から詰める理由はない。

 門を固めれば、それだけで余計な勘を持たせる。

 何より、従兄が相手ならば、こちらが警戒を深めたと知られた時点で次の手を打ってくる。


 ならば。


「見せる」


「何を」


「見せてよいものだけを」


 晴蒼は少しだけ眉を寄せた。英定は続けた。


「余理家の中身を、全部隠し通せると思うな。向こうは何かを見たがっている。なら、見せるべき顔をこちらが選ぶ」


「……巫女舞を、ですか」


 その一言で、英定は晴蒼の理解の速さに少しだけ息を詰めた。


 余理家独自の巫女舞。


 宝石を用い、神具を巡らせ、余理の家に古くから伝わる祈りの形。

 外から見れば、美しいだろう。

 そして同時に、少し異様にも映るはずだ。


 従兄が何を疑っているのか、英定にはまだ分からない。

 ただ、“普通ではないもの”の気配を探っていることだけは確かだった。


ならば中途半端に隠すより、余理家の異質さをむしろ“家の流儀”として見せた方が、別のものを紛れ込ませやすい。


「お前が嫌ならやめる」


 英定が言うと、晴蒼は一瞬だけ目を見開いた。


「嫌かどうかを先にお聞きになるのですね」


「当然だろう」


「当然、ですか」


 晴蒼はそこで、ほんの少しだけ息を吐いた。


「嫌ではありません。ただ、良い結果になるとは限りません」


「知っている」


「では、その上で申し上げます」


 晴蒼は静かに言った。


「余理の舞は、外へ見せるためのものではありません」


「分かっている」


「分かっておいででも、見た者はそう受け取りません」


「それでもやるしかない」


 晴蒼は英定をしばらく見て、それから頷いた。


「でしたら、整えます」


 その言い方が、後から何度も胸に残った。

 整えます。

 晴蒼はいつもそうだ。

 危ういことであっても、やると決めたなら整える。


 英定はその場では、まだ“前触れ”としか思っていなかった。

 嫌な視線。

 見慣れぬ足跡。

 従兄からの探り。

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